07.唯一
「彼女に何言った?」
「はい?」
にこにこと笑顔で、夕顔は朝陽の問いに首を傾げる。優雅に。
まるで自分に全く非はないと言わんばかりだ。
朝陽がちらりと一瞥した背後では、綾菜が神妙な面持ちで佇んでいる。今にも泣きそうな、耐えた唇を見て、朝陽の心臓が何かに鷲づかみにされたかのように締め付けられた。
自分関連のことでこうして彼女を傷つけている。
傷つけたくないと思っているのに。
「…何を言ったのか知らないけど、綾菜さんを泣かしたら許さない」
はっきり、彼は許婚へ告げる。
背後では、はっとした表情の綾菜。目の前の彼の大きな背を見つめた。
尚も朝陽の言葉は続く。
「どんな会話があったか知らないけど、町人風情、と相手を罵ることが何で出来るんだよ? ていうか、相手をそういう風に軽蔑した目で見たりしない人がずっと魅力的」
「…!!」
断言する朝陽の言葉を聞き、睨む許婚の夕顔。
まるで、自分には魅力がないように聞こえたそれに、彼女は眉を顰める。
「許婚に対して、ひどい暴言ですわ。謝罪してくださいませんこと?」
「断る」
「朝陽様! 武家が町人と一緒になれると、本気で思ってますの?!」
憤慨した彼女の台詞に、朝陽の表情は固まる。
真後ろにいる綾菜がいなければ、迷うことなく、頷く。
今肯定すれば、気持ちを知られる。それを選んでいいものか、本気で悩んだ挙句。
意を決して真っ直ぐとした瞳で、夕顔を見つめ返し、口を開きかけたそのとき。
「何事だ、騒々しい」
屋敷の中から、壮年の男が顔を出した。黒髪に鋭い目つきは、朝陽が怒りを見せたときのそれによく似ている。体格は袴を着ているためにはっきりとは分からないが、それでも袖を捲り上げていることで見える腕は鍛え上げられた筋肉に包まれていた。
「父上…」
朝陽がその姿に、ぽつりと緊張した声で呟く。
「聞いてくださいまし! わたくしより、あんな町人のほうが魅力的だと、朝陽様が侮辱なさったのですわ!」
「おお…そうですか。夕顔殿に失礼なことを」
文句と苦情を並べ訴える夕顔に、朝陽の父は目を伏せつつ謝罪らしき言葉を口にする。そして出てきた門から身体の向きを変えると三男である朝陽を見た。
その目は、怒りを映し出している。
「許婚の夕顔殿に、失礼なことを何故言うんだ、お前は。…ふむ。庇っているところを見ると、原因は後ろの娘か?」
鋭い言葉と口調に、それまで言葉を発せずにいた綾菜の身体が正直にびくりと震えた。
その仕草に気づき、朝陽は父親までも睨みかえす。
今言葉にせず誤魔化したらきっと後悔する。そう思ったからだ。
「…そうだよ。綾菜さん、って言うんだ」
「あ、朝陽さま…」
戸惑うような不安げな表情で、彼女に背を向けたままの自分を庇う朝陽と、その父親を見る。
どんな言葉を言えばいいのか、それさえ分からずに。
「全く。町をうろついていると思っていたら、惑わされたか。許婚がいることを忘れたか?」
呆れて息をつく親に、朝陽の心臓はばくんばくんと何度も大きな音が鳴る。
緊張して声が上手く出るか、彼は落ち着かない様子で、先ほど止めてしまった言葉を改めて口にする。
「オレは、彼女が好きなんだ。辛くて闇に落ちそうだったオレの心に光をくれた。今のオレが居るのは、綾菜さんのおかげなんだ。だから、誰に何を言われようと綾菜さん以外と結婚するつもりはない…!!」
段々と熱を帯び、朝陽は真っ直ぐそう告げると、夕顔は見ずに父だけを見る。
それに気づき、夕顔はわなわなとその小さな拳を握り締め、小刻みに震わせて叫ぶ。
「失礼も甚だしいですわ! 気分が悪くなりました! 宿へ帰ります!」
憤慨したまま、綾菜を強く睨み、踵を返す。
慌てた様子でその後ろを、付き人の老婆が追いかけていく。
二人を見送り、朝陽は再び父親へ目を向ける。
緊張のあまり、煩いほどに鳴り続ける心臓を押さえて、深呼吸した。
何があっても後悔しない。
たとえ綾菜と一緒に居られないとしても、ずっと胸の奥に仕舞いこんで、形に出来なかった想いを言葉にできた。
それだけで、もう彼は充分だった。
「…」
だが意外にも、父親は言葉を発しない。
それどころか、朝陽と綾菜を交互に見ている。
「…父上?」
朝陽は無言の父を呼ぶ。目は向けるものの、それでも言葉はない。
何を言われるのか、落ち着かないままにその場に立ち尽くしていた二人へ、暫くしたあと、朝陽の父はようやく口を開いた。
「…朝陽」
「は、はい」
「父と勝負し、勝てば、考えてやる」
「…!!」
何を"考える"のか、朝陽の頭の中は疑問符だらけで分からない。
夕顔との婚約を破棄することなのか。それとも、綾菜が好きだという気持ちに理解を示してくれるということか。頭が良いからこそ、朝陽にはその回答の意味が読めずにいて。
けれど、他に道もない。それは理解しているから。
「分かりました」
鋭い目つきで頷いた。
「あ、朝陽さま…!」
父親が屋敷へ入ろうと、背を向けたため、背後から不安な声をあげた綾菜へ彼は向き直る。
そこには不安と緊張があるためか、青い表情の綾菜。けれど、頬は赤い気もした。それが彼にとって良い意味合いであれば、朝陽は嬉しいのだが。そんなことを淡く期待しつつ、彼女の小さな手を握り締めた。
「綾菜さん、ごめん。いきなり」
「…っ」
「好きなんだ。…ほんとに、好きなんだ。綾菜さんと、出会ってから、ずっと」
真剣な眼差しで見つめられての告白に、綾菜の頬はますます赤く染まっていく。
「まだ答えは聞かない。答えを聞いて、先に断られちゃ、父上に勝てる気しないからね」
片目を瞑り、朝陽は綾菜に笑いかけた。
「勝ってから、教えて。もちろん、断ってもいいよ。綾菜さんは自分に正直で良いから。ただ、オレはずっと…」
綾菜が言葉を挟むより早く、朝陽はそこまで言って言葉を切ると、父親の後を付いていく。それに気づいた朝陽の父が、綾菜へ声を掛けた。
「貴女も来なさい」
「は、はい」
戸惑いながらも、強制力の強い口調で言われ、綾菜は頷く。
そして初めて、朝陽の屋敷へ足を踏み入れた。今朝は門から遠目に見た景色が、今は目の前にある。それにまず信じられなかった。
もちろんそれよりも信じがたいのは、朝陽の告白。
あれだけ真剣な目を浮かべられて、ウソだと彼女は思えなかった。店先にいるとき確かに軽口を叩いて冗談も言うが、そのときは必ず笑っていた。楽しそうに。
「………」
思いだしただけで、全身が発熱する感覚に落ちる。
綾菜は足元に充分注意しながら、自分の火照った頬を手のひらで押さえた。
ひどく熱い。
そんな状態のまま、屋敷の横を通り抜け、奥にあるらしい道場へと入る。
その中では何人もの青年が自分の腕を磨いていたが、道場主と朝陽、そして綾菜が来たことで一瞬だけざわめき、そして静まった。
向かい合うのは、親子。
誰もが強さを認めている二人。
朝陽の父は綾菜へ道場の端に座るよう勧め、門下生の一人から木刀を受け取った。朝陽もまた同じように受け取り、父親の前、緊張した様子で身構えた。
どちらとも言葉は発しない。集中している。
綾菜も、真剣な眼差しでそれらを見つめていて、それに気づいた朝陽の父が息子へ手で合図をすると、彼女のほうへ足を進めだした。
誰もが何をするのか分からずにいて、道場主の行動を見守る。
…と、そのときだった。
短い掛け声と共に、朝陽の父が木刀を振り上げ、綾菜の頭へ一気に振り下ろした。
正面から朝陽の自分を呼ぶ声が綾菜の耳に遠くから響いて。
「…」
無言で、朝陽の父を見上げた。
「父上! 何をするんですか!!」
朝陽の父は完全に振り下ろすことはなく、頭上ぎりぎりで木刀を寸止めしていて、彼女には傷一つないものの、慌てた朝陽が綾菜の様子を窺うように駆け寄り、二人の間へ滑り込んで怒鳴る。
木刀を下ろし、朝陽を見ながら彼の父は息をついた。
「綾菜、と言ったな。何故、叫んだり、逃げたりしなかった?」
朝陽の父に問われ、唇を震わせながらも、綾菜は口を開く。
どこか不安な表情はしつつも、真っ直ぐした瞳を浮かべて。
「…あ、あたしは……町人です。朝陽さまに見合う身分も、…お金も、…何もありません。唯一持ってるのは、…朝陽さまが好きだというこの気持ちだけ。それから逃げることに、なると…思いました」
『ちゅーか、両思いやん。何が問題なんや?』
先ほど大地少年から聞いた言葉が、綾菜の頭の中で繰り返されている。
問題は山積みすぎて、どれをどうすればいいのかも、分からない。
自分で解決できないことも多すぎる。身分がその最たることだ。
でも。
それでも、好きだから。
真っ直ぐ綾菜は彼の父を見上げる。正座したままで。
その視線を受け、朝陽の父は鋭い表情を和らげたあと、呆然と綾菜を見続けている息子へ話しかけた。
「試合するぞ」
「は、はい」
背筋を正し、朝陽はすぐに答えて。
けれど綾菜を見つめて、本当に幸せそうな笑顔を浮かべて呟いた。
「勝ってくるね」
その言葉に綾菜の頬はまた真っ赤に染まって。
はにかむように、微笑んで頷いた。
「お待ちしてます」
「うん」
綾菜の台詞に笑顔を見せたあと、彼は改めて父親へ身構える。
ほんの少し前身構えたときよりもずっと全身から力が抜けていた。勝つ気満々なその様子に、朝陽の父は僅かに口角をあげて笑ってから。
今度こそ、それぞれの思惑のための試合を開始した。