06.後姿
「はぁ…」
春先だというのにまだ冬から抜け切れない気温のために悴んだ手のひらへ、彼女は歩いていた足を止めて息を吹きかけた。
じんじんと指先まで痛い真冬ほどではないけれど、水を毎日のように触る綾菜にとって手に出来たあかぎれは、動かすだけで痛みを発するわけで。
「はあ…」
もう一度息を吹きかけると、彼女は止めた足を再び動かしだした。
通りを行き交う人も少ない早朝。
近くの長屋の屋根に数羽の雀がいるのだろう、ちゅんちゅんと可愛らしい声で鳴いている。
そんな静かな通りを彼女は一人、進む。ある場所へ向かって。
綾菜の実家は、団子屋を営む。その店を経営する中で重要なものの一つが、水。
この町の東に位置する山には水源があり、そこから上質の水が沸き、川へと流れてくる。その水を使い、団子を作っているので、毎月行われている水神を奉る縁日だけではなく、毎週家族の誰かが欠かさず、感謝を込めて団子をみくまり様へ奉納していて。
今日は、彼女がその団子を運んでいた。
その途中、綾菜はある場所で足を止める。
町の中心より山に近い場所に存在する大きな屋敷を囲むように、長く続く白い塀があり、その向こうから威勢の良い掛け声が響いてきていたからだ。
それは一つだけ。
道場があるこの町でも有名な屋敷だが、聞こえる声は複数ではない。
その屋敷から聞こえる声はとても聞き覚えがあって、彼女は門から中を覗き込んだ。
武家を覗くという行為事態、かなり危なっかしいことではあると理解していたけれど、覗かずにはいられなかった。
声の主が、とても大好きな人だったから。
微かに見える庭先に佇む一つの背中。
それにまず、心臓が高鳴った。息を吹きかけるほど寒いと綾菜は思っているのに、そこにある背中は何も纏っていない。袖を腰布で引っ掛け、上半身だけ肌を露出し、木刀らしきものを掛け声と共に振り下ろしている。
「……おおきなせなか…」
ぽつりと綾菜は無意識に呟いて。
自分の言葉が何だか気恥ずかしくて、その場から慌てて離れた。
頬が熱くて、ひどく動悸が激しい。山へ登ったわけでもないのに。
「…」
熱っぽい頬を冷えた手で押さえながら町から出てしまうと、透き通った水が流れる河原へと出る。
その川に架けられた橋を通り抜けたら、ようやく祠のある山の入り口にたどり着く。そこからは木々に囲まれた参道が続く。縁日が毎月行われているため、雑草が生い茂ることはなく、歩きやすい。
難をいうならば、砂利が滑りやすいということだけ。
少し前、好きな相手と縁日へ参ったとき、手を繋いでもらった。それを思い出して、綾菜は団子を落とさないように気をつけながら自分の手のひらを見る。
あかぎれだらけの手。カサカサと荒れている。
けして、可愛らしい綺麗なものではない。手を繋いでもらったときもこれと同じ状態で、せめて、せめて少しでも荒れていなければ良かったのに。
手を見ながらそんなことを考えて、ふうと小さく息をつくと、彼女は上を見ながら参道を歩き出した。
山の中腹にある祠へたどり着き、団子をお供えすると、手を合わせる。
「これからも、美味しい水をよろしくお願いします」
いつもと同じ祈りを、捧げる。
そして数度礼をすると、綾菜は店へ帰るために踵を返す。
砂利で滑らないように山を降り、河原まで来たところで、見覚えのある少年を見つけた。声を掛ける前に、向こうも気づいたようで、満面笑顔を浮かべてまだ声変わりをしていない高い声を張り上げた。
「綾菜姉ちゃんやないか!」
洗濯の手を止めて立ち上がった少年の名は、大地。まだ八つと幼い。
無造作に伸ばされた黒髪は、ところどころ寝癖なのか跳ねている。陽の光の加減で、目が銀色に見えることから、あまり仲の良い友達はいないようだが、少年の住む長屋ではとても賢く真面目でお利巧な良い子、として通っている。
それもこれも。
「大地くん、今日はここでどうしたの?」
「洗濯もんや。隼人兄ぃの、汚れとってなぁ」
兄と二人暮らしで、仕事をする兄に代わり、家事全般を一人でこなしているからだ。
ぶつくさ言いながら、大地は確かに煤で汚れている着物を洗っている。こうやって着物を洗うため、大地もまた綾菜と同じく手があかぎれでところどころ赤くなっていて。
「大変そうだね。手、大丈夫?」
「しゃーないわ、隼人兄ぃの仕事はこういうもんやし。ほんま、さっさと嫁を見つけろっちゅーねん」
「あはは」
「綾菜姉ちゃんはみくまり様に参っとったん?」
「うん」
尋ねられ、綾菜は笑顔で頷く。
聞くところによると、八雲町から遠い商人の多い浪花という町から大地は来たという。
両親と共に去年までその地に住んでいた…が、火事に合い、両親や祖父母を失ったらしい。大地だけは焼け出された屋敷の端で奇跡的に大怪我もない状態で見つかり、一命を取り留めて。
父親の兄弟だった隼人に、引き取られた。
だから独特な口調。目の色も理由の一つだが、この口調もこの町では他にいないので、特に目立つ。
「ついでに、朝陽兄ぃとのことも頼んでみたったらどや?」
「え?」
「朝陽兄ぃと上手く縁結べますようにーってな」
「……!!!」
しかも、年上へ向かってもこの口調を変えない。軽口を平気でいう。というより、冗談なのか本気なのか、綾菜にはいつもよく分からない。
「な、な…何を」
「分かっとんやで? 綾菜姉ちゃん、朝陽兄ぃがおると、むっちゃ見とるやん」
「え…」
心臓がまた大きく鳴る。
彼の笑顔ではなく、さっき見た上半身裸の背中を思い出し、彼女の頬は見て分かるほどに赤く染まっていった。
その顔を背けながら、綾菜は呟く。
「そ、そんなこと…頼めないよ」
「なんでやねん」
「なんで、って…お武家さまなのに……あたしと、だなんて……」
綾菜からすると、武家の朝陽は遠い存在。
幾ら好きでも、叶うわけがない。想い合えるわけがない。
分かっている。どれだけ望んでも得られないものもあるんだと、分かっている。
だから胸の奥に仕舞いこんで、考えないようにしていた、はずなのに。
無意識に目で追って、見つめていたなんて、綾菜は指摘されて始めて気が付いた。
俯くように顔を背けた綾菜を、小さな大地は見ていたが、濡れていた手をごしごしと適当に自分の茶色の袖で拭いてから、彼女を真っ直ぐ下から見つめる。
その目は相変わらず光を受けると、銀色に見えた。
「生きとんのに、諦めたらアカン。生きとって叶わんことなど絶対ないわ」
「…大地くん」
「おいらは、隼人兄ぃが火事に巻き込まれてもうたら、絶対死ぬでと言われても今度こそ助けたる。やれんことなど無いはずや」
大地の両親はもうこの世に居ない。これが一人遺された少年なりに見つけた答えなのかもしれない。
そう思うと、切なくて。
何より、こんな年端もいかない少年に、諭されて。
無理だ、叶うわけがない、だって相手は武家の人間。ただ話が出来ればいい。…そう自分で決めて動かずにいるのは、大地からすると勿体無いのかもしれない。
生きているのに、何もしない、というのは。
「…うん」
「ちゅーか、お互い好きおうてるやん。何が問題なんや?」
「……………え?!」
「あ、もしかして、他にも女がおんのか?! 一途そうに見えるんは仮の姿で、他にも仰山おんのか?!」
「え、え??!」
「はよう答えてや! 他にも女がおるんか?!」
捲くし立てるように、大地の言葉が続く。
彼女にしてみれば、最初の、好きあっている、という言葉に戸惑っているのだけれど、大地の中ではもうすでに違う話題でいっぱいの様子で。「はよう!」と繰り返し急かす。
「え、ほ、他の女の人はどうか、し、知らない…」
「なんやねん」
面白くないとばかりに、大地は顔を顰める。勝手に盛り上がったはずだが、何故か不機嫌そうだ。
「ま、えぇわ。そや、隼人兄ぃの着物、はよ洗ってしまわんと、乾かんわ。メシも作れんっちゅーのに、文句ばっか一人前やねん」
はた、と思い出したのか、大地は再び河原に放置したままだった着物を、ごしごしと洗い出す。その姿はまだ幼いが、一生懸命そのもので。
ばくばくと鳴り続けている心臓を押さえながら見たあと、彼女は大地の背中に声を掛けた。
「明日! 店に来てね!」
「隼人兄ぃと行くわ」
こちらに背を向けたままだったものの、けたけた笑いながらそう返答する大地に綾菜は微笑んで、店へ向けて歩き始めた…のだが。
先ほどと同じ道のりを逆行していると、朝陽の屋敷の門前に一人の美しい女と老婆が居ることに気が付いた。
女は仕立ての良い艶やかな赤い袖を身に着け、鈴のような綺麗な音を立てる簪を髪に結わえている。逆に、老婆は付き人のようで、身奇麗ではあるものの質素な色合いの袖を着ている。
女は何故か綾菜のほうを向いていて、凝視するかのように目を離さない。
昨日、朝陽の座った長椅子に先に腰掛けていた二人だ。思い出して、綾菜は頭をぺこりと下げた。
「ちょっと、貴女」
「は、はい?」
だが、通り抜けようとした綾菜を呼び止め、女は続ける。
「貴女、朝陽様の、何かしら」
「…」
「聞いているのよ、このわたくしが。答えて」
「あたしは…朝陽さまの…」
高圧的な言葉で問いかけられ、彼女は口ごもり、目を彷徨わせる。
「わたくし、朝陽様の許婚で、夕顔と申しますわ。それで、貴女は? まさか朝陽様をかどわかしたとは言わないですわよね」
段々、夕顔と名乗った女の口調は熱を帯びていく。
朝陽にも居るだろうとは思っていたけれど、こうして面と向かって許婚に会うとは思わずにいて、綾菜の足は小さく小刻みに震えている。
それが恐怖なのか、緊張からくるのかは、綾菜にはやはり分からない。
「早朝から屋敷を覗き見するなど…信じられませんわね。町人風情が」
鼻で笑うように夕顔が言ったとき。
「…」
少しばかり鋭い目を浮かべ、ざ、と砂音をさせ、二人の間へ割り込んできたのは朝陽。
「まあ、朝陽様、如何されましたの?」
にっこり微笑む夕顔に向かって、朝陽は立つ。綾菜を庇うように、彼女の前へ。
綾菜に見えるのは、先ほど遠目に見たときと同じ、大きな背中。
その背中がとても広くて。大きくて。
泣きたくなったのを、綾菜がぐっと唇を噛んで我慢したとき、朝陽が口を開いた。