04.あたたかい
本当に、気持ちが、まるでウソみたいに軽くなったんだよ。
春も近いけれど、まだ冬の名残がある季節の狭間。
重たい雲がどんよりと空を濁らせ、風は肌に突き刺さるかのように冷たい。
「…はあ」
雲より重いため息を吐き出しながら、朝陽は通りを気だるそうに歩いていた。
ずきずきと痛む右手。それを無意識に左手で擦りながら。
「…」
こんな気分のときは、早くあの笑顔に会いたい。そんなことばかり頭を占める。
実家を出た直後は心を映し出すように重かった足取りが、徐々に軽くなり。
「朝陽さま、いらっしゃいませ」
店先から朝陽を見つけた綾菜の柔らかな笑顔が、彼を出迎えてくれた。
「うん。いらっしゃった」
それを見て心から安堵したような、肩の荷を降ろしたような表情を浮かべて朝陽は頷くと、店に少し入り込んだ場所にある囲炉裏前が空いていたため、そこへ腰を下ろす。
「お客、今日は少ないね」
注文を受けるため自分の後ろについて来ていた綾菜へ、朝陽は問いかける。
普段なら賑わっている店先が、今日は数える程度の客しか居ない。
「ええ…お天道さまが隠れていらっしゃるから、でしょうか」
「あー、寒いもんね」
納得した様子で、朝陽は暖かい囲炉裏を見た。
今日はかなり肌寒い。吐く息も白く、最近はすっかり火の消されていた囲炉裏に、今日は炎が舞う。おかげでこの周りだけは少しばかり暖かい。
「今日はどうしますか?」
にっこり微笑む綾菜に、朝陽も釣られた様子で笑顔を浮かべながら指を三本立てて注文。
「今日は、じゃあ、みたらしで!」
「はい」
くすくすと綾菜が笑いながら、受けた注文を奥で団子を作る父親へ報告に動く。
その小さな背を見送って、朝陽は囲炉裏に手をかざした。
薪が、ぱちぱちと鳴っている。
その直後から、綾菜がいる間浮かべていた笑顔がすっぱりと影を潜め、朝陽は囲炉裏で揺れる炎を、感情のない目で見つめていた。
ここへ来る前。
彼は兄に呼び止められた。
そのとき受けた、言葉の暴力。
そして、兄の持っていた竹刀が彼の右手を打った力による暴力。今でこそ感覚は戻ってきたけれど、ここへ来るまではじりじりと痺れていた。
二人いる兄が、両方とも同じことをする。父の気づかぬ場所で五年前から続くこれらを受けるたび、似た兄弟だな、と朝陽はいつも他人事のように考えている。
兄二人の行動理由は、ごく単純。
『三兄弟の中で最も腕の立つものを、我が道場の跡取りにする』
五年前、朝陽が十五になった頃、実家の道場主である父親が、そう告げたからだ。
現在、最も兄弟の中で腕がたつのは、朝陽。彼自身、確かに鍛錬を怠ることはなかったが、それでも天性の才能があったため、先に鍛錬を開始したはずの兄二人より強い。
真剣に刃を交わしたことはないが、道場を営む父にも匹敵するだろうと、道場の門下生たちの間ではもっぱら憧れの的だ。
だからこそ、兄二人は、面白くない。
道場を継ぐ、ということは、武家の跡取りでもあるということ。
長男ではなく、三男が。
自分たちを差し置いて。
…そう思っての行動と思われ、朝陽は何を言われても言葉を返すことはなかった。
「お待たせしました」
「あ、ありがと」
ぼんやりしていた朝陽の耳に届いた、陽だまりのような暖かい声と。
見える笑顔に、彼の表情もまた、綻ぶ。
「やっぱり美味いね」
「ありがとうございます」
ふんわりと微笑む綾菜の笑顔に、朝陽も嬉しげに笑みを浮かべる。
注文したみたらしの一本を頬張り、食べていた彼は、重たい空を見上げてから綾菜へ目を向ける。他の客が帰り支度を始めたためか、彼女の目線はそちらへ向いていて。
幼いが、可愛らしいその横顔に見惚れてしまう。
何より。
「またお越しくださいね」
帰る客へ掛ける、言葉。
他の店も同じ言葉を使うはずなのに、どこか暖かくて、再びここへ来ようと思えてしまう柔らかな口調。
初めて会った数ヶ月前も、こうだった。
兄二人からの暴力に心が疲れきっていて、重い足取りで通りを歩いていた朝陽が、たまたま見た綾菜の笑顔。
最初こそ、能天気な、と斜に構えたことを考えていた。
ずっと平穏で平和に暮らしてきたのだろう、痛みや苦しいことなどとは無縁の生活をしてきたのだろう…とどこか冷めた目で見ていた。
けれど、別の客と話していた会話を聞き、その考えが浅はかだと気づかされる。
『え、綾菜ちゃんとこ、故郷の名前なの?』
『ええ。青海、です』
『青海って……あの?』
『………はい』
どこか困ったように綾菜が笑ったのを、彼は今でも覚えている。
青海という名は微かに聞いたことがある気がしていたが、彼女の話を聞いて思い出した。
彼女の故郷は、十年ほど前の戦に巻き込まれ…今はもう家の残骸を残すのみ。
すでに滅びた町だ。
自分の故郷が滅びる。そんな辛い経験したはずの、綾菜。
なのに、温かい笑顔を浮かべることが出来る。
苦しかったはず。悲しくて、心がとても痛んだはず。何より幼かった彼女にはとても恐ろしく怖かっただろうに、…それを乗り越えて笑える。
その強さが羨ましくて、この店へ通うようになって。
一緒の時間を過ごし言葉を交わすたびに、少しずつその温かさに、疲れきっていた心が、感情が、落ち着いていった。
重苦しかった感覚が、軽くなっていった。
不思議なほどに。
特に特別な言葉を貰ったわけではない。本当に、話をしただけ。他の客と同じように。
「他に客、居なくなったね」
「ええ…この寒さですから、このあともお客さまはきっと来られないでしょうし、朝陽さまが今日最後のお客になると思います」
「そっか」
みたらしの三本目を食べ終えた朝陽が尋ねた言葉に、彼女が笑みを零した。
確かに通りを歩く人も、普段よりずっと少ない。
寒さで、誰もが家から極力出ないようにしているのだろう。
「朝陽さまも、そろそろ、お帰りになります?」
「……綾菜さんは、もう帰ってほしい?」
綾菜はたぶん深い意味で聞いたのではない。ただ、食べ終えた彼はいつもそれで帰るから、そう思っただけ。
だが、朝陽は意地悪めいた口調で問い返す。
彼のほうは、少しばかり深い意味を込めて。
出来れば、帰って欲しくない。そんな言葉を期待していたりする。
「え、あの…」
けれど返って来たのは、それより強烈だった。
「…もう少しだけ、お話出来ましたら…あたしは嬉しいです」
「!!」
僅かに頬を染めて、困った顔になり、綾菜が目を彷徨わせる。そして赤い頬を片手で押さえて、ぽつりとそう呟いたからだ。
もしこれが、他の客にも言うんだと仮定しても。
信じられないほどに朝陽もまた頬を赤くして、頭を掻いた。
「も、もう少し、ここにいるよオレ」
照れながら言うと、皿に手を伸ばす。
もちろん、もう注文した全てを食べ終えているから何も無い。伸ばした手を所在なく動かしたあと、自分の膝の上へと戻して。
再び、手を伸ばす。
今度は皿を持ち上げて、彼の隣の床を、軽く数度叩いた。
「じゃあさ、ここで話しようよ」
「…良いのですか?」
「オレが勧めてるんだよ」
「そうですね」
一度は戸惑った綾菜が朝陽の言葉に頷き、隣へ腰を下ろす。
先日は、彼女の幼馴染が座ったことでぴりぴりとした感覚を右側に起こしていたけれど、今日は違う。
不思議と、暖かい。
囲炉裏のせいと言われれば、それまでなのかもしれないが。
「綾菜さん、…」
「はい?」
何かを言いかけて言葉を止めた朝陽に、彼女は小首を傾げて彼を見つめる。
その仕草がまた可愛くて。
可愛い、という言葉を口に仕掛けて、どうにか踏みとどまったあと、一度は口を閉じた言葉を発する。
「例えば、すっごい辛いことがあったとして、どうやって乗り越える?」
問いかけられた言葉の意味を理解するため、そして答えを考える間が少しだけあり、その間中ずっと囲炉裏の薪がぱちりと大きな音で弾いていた。
「あはは、難しいよね。人によって、乗り越え方って違うもんだし」
綾菜が困っているだろうことを口走ってしまったことを胸中で後悔しながら、あははと朝陽が笑ったとき。
「実際には乗り越えられなくても、今にも倒れそうだとしても真っ直ぐ立っていられたら、あたしはそれだけで充分乗り越えていると思います。それだけで、強いと思います」
「……そっか」
「何かあったのですか?」
いきなりの言葉に、綾菜が気遣いの言葉をくれて。
心配している表情で、朝陽を覗き込んできた。それで、彼も気が付く。無意識に囲炉裏を見つめていたからだ。
だから、あははとまた笑って。
「聞いてみたかっただけ」
言うなり、綾菜を見つめたあと、「ありがと」と呟く。
どんな相手にでも真剣に向き合って、一生懸命だから、暖かいのかもしれない。
「早く春になってほしいですね」
「ほんとだね」
でも、綾菜のそばにいるだけで、心の中は暖かいよ。
…そんなことを考えながら、白い息を吐き出して、笑いかけてくる綾菜へ彼もまた笑顔を返した。