02.伸ばした手
ぎゅう、と強くこの手をいつまでも握り締められたなら、どんなに幸せか。
いつも通り、朝陽はするべきことをさっさと終わらせてしまうと、道場をあとにして向かう先は、目当ての人がいる団子屋。
春になり、暖かくなったと感じる日もあれば、まだまだ冬なのだと思い知らされるような気温のときもある。
今日は日差しが強いためか、その中にいる限りは暖かい。
そのためか町には人が行き交い、明るい声が通りのあちこちから響いてくる。その中を通り抜け、彼は真っ直ぐに寄り道をすることもなく団子屋を目指す。
「綾菜さん、こんちは」
「あ、こんにちは、朝陽さま」
たどり着いた店先にいたのは、彼にとってとても好きな相手。
一緒にいるだけで、心が安らぐ。笑顔に癒される。そんな空気と笑顔を持った人物。綾菜。
普段なら前掛けをつけて、接客に勤しんでいるはずの綾菜だが、今日は白い生地に赤い花が描かれている小袖で長椅子に腰掛けていた。
だから出来る限り自然に、隣へ腰を下ろす。
座っても分かる身長差。頭一つぶん違う綾菜を、朝陽は見ながら話しかける。
「今日はどうしたの? 具合でも悪いの?」
「いえ、縁日に参るんです」
「あ、みくまりさまの縁日、今日だったね」
「はい」
笑顔で肯定され、朝陽も釣られるように「そっか」と目を細めた。
みくまり、というのはこの八雲町を囲むように存在している山々の中でも、東に位置する川の水源で奉られている水神のことだ。
町の人々は「みくまり様」と呼び、信仰している。
「…じゃあ、…」
「?」
次に出す言葉を少しだけ口にするか迷う。
けれど、朝陽は自分の隣できょとんとした表情を浮かべて首を捻っている彼女がとても可愛くて。
少しでも長く、そばに居たくて。
膝の上に置いていた拳を握り締めて、決意を胸に口を開いた。
ばくんばくんと心臓の音が隣にいる彼女にも聞こえてしまうのではないかと思うほど大きく響く。
「オレも行こうかな」
「道場は良いのですか?」
柔らかい笑顔で綾菜は笑う。咎めるようなものではなく、気遣うように。
それに朝陽もまた笑って、空を仰ぐように少しばかり背を後ろへ傾けた。
彼女に気づかれないように心の中で、ため息を吐きだしながら。
「ま、うん。でも、たまにはほら、休息もしなきゃ」
「そうですね」
綾菜にしてみれば、毎日顔を出してくれる常連客。
だから毎日、ここへ来てくれるたびに、道場の訓練を休んでいることになる。
だがそれについては触れず、綾菜は頷いて。
口元を押さえつつ、微笑んだ。
ちょうどそこで背後から、声が掛かった。
「綾菜、そろそろ行かなきゃ遅くなるよ」
「はーい」
振り向いてみるそこには、綾菜の母。彼女とやはり似ていて、柔らかい笑顔を持っている。前掛けで濡れているらしい手を拭き、朝陽に気づいて頭を下げるから。
朝陽もまた綾菜の母に軽く会釈を返し、立ち上がる。
「オレも行くんで、こちらまで送ってきます」
「まあ、…ですが、よろしいのですか?」
「はい。たまにはオレも参らなくては」
ぽんぽんと会話は進み、綾菜の母が朝陽の言葉を聞いて顔を傾けるように笑う。
結い上げた黒髪も同じように揺れた。
「まあ、ふふふ。そうですか、では、お手数ですがよろしくお願いします」
綾菜の母が頭を下げたので、朝陽もまた一礼。
そうして、町の東隣の山にある、みくまり神社へと二人で向かうことになった。
町を一歩出ると、そこはもう深い森。
人間からすると随分と背の高い針のような針葉樹が軒を連ね、時折吹き付ける風に青くなりだした葉をざわざわと揺らしている。
その森へ分け入るように人工的に作られた山道があり、それは町から神社へと続く参道と等しい。
砂利を踏みしめながら、朝陽はたまに、ちらりと隣を歩く綾菜を一瞥した。彼女の家は団子屋だから、水神のみくまり様を深く信仰している。団子を作るには水が必要不可欠なためだ。
月に一度ある縁日は、彼女の家族三人のうちの誰かが欠かさず参っていると、この参道を歩いている今聞いたので、彼女の足取りが慣れたものなのは理解できる。
「疲れてない?」
でもやはり、気になるわけで。
朝陽は山道を見上げたあと、綾菜に笑いかけた。だが彼女から返ったのは笑顔と否定。
「大丈夫です。ありがとうございます」
「そか…」
綾菜の目から見ても分かるほど、朝陽の声の調子が落ちた上、表情が僅かに曇ったものだから、彼女は躊躇いがちの目を浮かべて彼を窺う。
「どうされました?」
「あ、ううん。何でもないよ」
あはは、と空笑いを見せ、朝陽は参道へ目線を動かした。
さすがに、とにかく心配で、…などとは言えない。彼女はそういう感情に疎そうな印象を受けるけれど、言葉にしだすと気づかれてしまうかもしれないから。
再び心の中で小さく息をついて、前を見据えた。
山道は山の中腹まで続いている。川の水源は山の中腹辺りから湧き出しているためで、そこにはいつ作られたのか不明なほど古く小さな祠が人間の手で作られている。
その祠の前辺りで、ひと月に一度あるこの縁日を知っているのか、どこからか来たらしい行商の人間が数人地面に座り込んで、持っていた商品を藁の上に広げていた。
その中には、かんざしなど女の好きそうなものもあって、いつか贈れたら嬉しいと思いながらも、好みを知らないために買えずにいる朝陽はそのかんざし売りの行商を指差す。
「綾菜さん、見てみない?」
「ですけど…」
「見るだけだよ。オレも金は団子代くらいしか持ってきてなかったし」
団子代、というところで少しばかり朝陽が照れた笑顔を見せたからか。
「ありがとうございます」
綾菜が微笑む。
朝陽に釣られたかのように、頬を染めて。
「……っ」
その笑顔に息を飲む。
確かに店でも見たことはある。けれど、それは自分だけに向けられたものではなかった。
だが今は。
自分だけに向けられた、勘違いしてしまいそうな、そんな。
「あ、朝陽さま。そんなじっと見ないでください」
「あ、わ、ゴメン」
無意識に彼女をじいと見つめていたらしく、綾菜が恥ずかしげに笑ったから、謝りながら顔を慌てて背けた。
やっぱり、好きだ。
そんな言葉が頭を巡り、行商のほうへ向かおうとした朝陽が足を数歩踏み出したとき。
同じように身体の向きを変えた綾菜の短い悲鳴が背中越しに聞こえ、振り向こうとした彼が気づいたときには、自分の腕に、綾菜がまるで縋るようにしがみついていた。
心臓が、ばくん、と大きく鳴る。
「あ、綾菜さん…?」
「わ、す、すみません…っ! あの、砂利に、…滑ってしまって…」
腕から慌てて離れた綾菜が、耳まで真っ赤に染めて俯き加減で言うその姿を見ながら、朝陽も顔中熱いことに自分で気づいていて。
彼女が俯くように下を向いていることに、少しばかり安堵もしていた。これを見られれば、言葉にするより簡単に、自分の気落ちに気づかれてしまうから。
「い、良いよ。砂利道、滑りやすいしね」
はは、と笑った朝陽は周囲から視線を受けていることに気づくと、綾菜の手を引いて神社へ向けて歩きだした。
背後から「朝陽さま?!」などと慌てた声が聞こえてくる。
木で作られた神社の小さな鳥居の前まで来たところで、朝陽はせっかく繋いだ手を自ら離して、まだ頬の赤い綾菜に目を細めた。
「結構、注目浴びてたんだよ。綾菜さん、…恥ずかしそうだったから、さ。結構引っ張ったから痛かったんじゃない? 大丈夫?」
「…そ、そうだったんですか。あ、ありがとう…ございます」
大丈夫、ということへの返事なのか、綾菜はそう言いながら数度左右に頭を振って見せると、軽く頭を下げる。
そして鳥居の向こうにある祠を見てから、朝陽に微笑んだ。
「参りましょうか?」
「だね」
頷き、歩き出した綾菜を追いかけるように少し遅れて、朝陽も足を踏み出す。
彼女の細い腕を見たあと、さっきその手を握った自分の手のひらを開き、歩きながら見つめる。
まだほんの少し残っている感触。暖かさ。
「……………」
握りしめていたかった。出来れば、ずっと、もっと、…いつまでも。
ぎゅと自分の手を握り締め、ぼんやり、そう思っていると、綾菜の足が止まる音がして同じように足を止める。
「これからも美味しいお水をよろしくお願いします」
手を合わせ、目を伏せ言う彼女に、目を細めて朝陽もまた手を合わせた。
祈るようなことではないかもしれないけれど、祈らずにはいられない。
―――…叶うなら、…ずっと。