離別
重苦しい一夜が明けて、与四郎は眠るあやねを起こさないようにそっと外へ出た。まだ朝もやが引き切らず、視界は白く煙っている。近くの井戸を見つけ、そこで水を汲むと、顔を洗った。
「おい」
小袖を脱いで、顔を拭いていると、早手の声が聞こえた。早手はじっと与四郎を見つめると、ふいと視線を外した。そして、小さな声で
「……幸せに、してやれよ」
と、呟くように言った。与四郎の恰好を見て、勘違いしたのだろう。与四郎は何と言ったものかと思案した。そして、
「何も、無かった」
と、こちらも小さな声でそれだけ言った。
「ああ?」
聞こえていなかったわけではない。それを証拠に、早手は明らかに不機嫌な声を出していた。
「抱いてないと、言ったんだ」
早手の感情につられるように不機嫌になった与四郎が強く言い返した。抱いたと言っても、抱かないと言っても、早手は不機嫌になるだろう。そういう気持ちは分からないでもないが、その感情に穏やかに返せるほど、与四郎も大人ではない。
「お前っ」
早手が与四郎を突き飛ばし、近くの納屋の壁に追い詰めた。喉元を腕で押され、与四郎が低く呻く。両手で早手の腕を掴み、力任せに押し返した。早手もまた、それを押す。力は拮抗していたが、僅かに隙間を作ることはできた。
「俺は、一座を抜ける」
与四郎がそう言うと、早手が驚いて腕の力を抜いた。その隙に、与四郎は早手の腕から逃れ、一呼吸つくと、早手に背を向けて歩き出した。
「与四郎!」
早手が叫ぶ。与四郎は肩越しに少しだけ顔を向けた。だが、真っ直ぐには見ない。見られなかった。
「あやねを、皆を頼む」
それだけを言い残し、与四郎は頭である刃にすら何も言わずに一座を去った。




