【第7話】トオル、仲間と再会する
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広い部屋の窓からは、青みを帯びた月の光が静かに流れ込んでいた。
王城の一室で、トオルとラティカが話し合っている。
「あなたは、死んだと聞かされていました」
トオルの胸の中で、ラティカは泣いていた。
「幸い、無事です。ラティカ姫もお元気そうで何よりです」
「元気なものですか。こんなに泣いたのは、初めてです」
ラティカは涙を拭った。嬉しそうに泣いていた。
「勿体無いお言葉です。しかし再開を祝し合う時間はありません」
「分かっています。国を出るのですね」
「はい。私はこの世界で酒を探す旅に出ます。誰のためでもない、自分のために、酒を探し、酒が飲める場所を作りに行きます」
「それは……とても素敵ね。それで私を誘ってくださるの?」
「もしよろしければ。決して平坦な旅ではありません。命の保証はなく、姫としての地位も名誉も全て失います」
「……ちょっと困るわね」
「困ると思います。天蓋付きのベッドで寝る日は訪れないでしょう。その日の食事に事欠くこともある。それに国を捨てた王女としての汚名も免れないでしょう」
「悪い情報ばかりね。いい情報はないのかしら」
「少なくとも、そこにあるウィスキーを心置きなく飲むことが出来ますね」
そう言って、トオルはベッドに置いてあるラティカのウィスキーを指差した。
ラティカは少し赤らんだ。
「あれは、本当に偶々で、いつもは部屋では飲まないのよ? トオルが死んだと聞かされて、居ても立ってもいられなくて。何もかも嫌になってて」
「それは私の世界の言葉では、やけ酒と言います」
「やけ酒?」
「文字通り、自暴自棄になって飲む酒のことです。私が居た世界には、酒にちなんだ言葉がたくさんありました」
「ハイヤームには、悪魔の水という呼称しかないわ」
「花見酒、月見酒、星見酒、雪見酒……私の居た世界では、色々な理由で酒を飲みます。酒は文化でした」
どこか淋しげにトオルが言う。
「トオル……あなたは、元の世界に戻りたいの? 酒が飲める世界に」
ラティカはトオルを見上げた。
トオルは少しだけ思案し、まっすぐにラティカを見つめ返した。
「考えたこともありましたが、今は違います。私はこの世界が好きなのです。ただ一点を除けば。私はそこを変えたいと思います。そのための旅です」
トオルの言葉に、ラティカは、何かを探るようにトオルの瞳の奥を見つめ続けた。
「……可能だと、お思いですか? ハイヤームの禁忌をトオルはよくご存知のはず。この世界に生きる者たちは、揺り籠から墓場まで酒を忌諱しています。それを変えると? 素敵な夢だとは思いますが、私にはとても信じられません。常識をひっくり返すのですよ。あなたは確かに勇者です。しかし、それはとても強く勇敢であるということに過ぎない。世界の常識を変えるのは、神の御業です。人の身では不可能です。どこに世界を変える希望があるというのでしょう」
「ラティカ姫。神など、居ません。常識も、全て人が創造したものです」
「だとしても、希望があるとは思えません!」
「……希望は、あります」
「どこにあると言うのですか」
「それは、あなたです。ラティカ姫」
トオルははにかんだような笑みを浮かべた。
「……私……?」
ラティカは自分を指差した。
「先ほどラティカ姫がおっしゃったように、この世界の人間は全員酒を嫌っていると、私も思っていました。希望はないと。でも、あなたが居る。禁酒のハイヤームで生まれ育ちながら、酒が好きで、部屋でこっそり酒を飲むお姫様が」
トオルはラティカのウィスキーを再び見た。
「あ、あれはだから偶々で……!」
「そうでしたね。しかし、私にはそれで十分です」
トオルは踵を返して窓に向かった。
両手で窓を開け放すと、ラティカを振り返って手を差し出した。
夜気が室内に流れすぎた。
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「……!」
倒れ伏していたサリムは、意識を取り戻した。
自分がどこに居て、何をしていたのか、瞬時に思い出す。
ラティカの部屋の前で、トオルに倒されたのだ。
とんでもない失態である。トオルを甘く見すぎていた。
街中の人間に追われながら、単身城に侵入して来るとは。
(奴の狙いはラティカ姫だ。一緒に酒を飲んだラティカを拐いに来たのだ。あの二人が一緒になったら、何をするか分からんぞ!!)
サリムは急いで立ち上がると、ラティカの部屋の扉を乱暴に開けた。
室内がやけに涼しい。見ると窓が開いていた。
その窓辺で、ラティカは城下を静かに見下ろしていた。
「ラティカ姫! 奴は! トオルはどこだ!」
サリムの声に、ラティカはゆっくりと振り返った。
「この騒ぎはどういうことですサリム大臣? トオルは死んだと言っていましたが」
妙に落ち着いた、淡々とした声だった。
「うるさい! トオルはどうした!」
サリムは怒鳴った。
「ここに来ましたよ。そして出て行きました」
「あいつは何をしに来たのだ」
「私を誘いに来ました。あなたのお陰で窮地に立たされていると知って、城から連れ出そうとしていたのです。酒が飲める世界を作りに行くと言っていました」
冷静に話すラティカに、サリムは訝しむように睨めつけた。
「お前は誘いに乗らなかったのだな」
「当たり前です。私は次期ハイヤームの王女で、ヌワース教徒です。過ちを犯しましたが、あなたが庇ってくれました。そうでしょう? 酒が飲める場所を作りに行くなんて、バカバカしくて付き合っていられません」
「ふん。思ったよりも馬鹿ではなかったらしいな。それで、トオルはどこに行った」
「知るわけがないでしょう。勝手に出ていきました。それより街の騒ぎをどうするのです。大混乱になっているではないですか」
「奴を捕らえるためだ」
「あの人混みを利用されて、城までの侵入を許しているではないですか」
「お前の知ったことではない!」
「あの混乱では、人死が出ますよ。鎮めるべきです」
「一度暴れだした民衆は、簡単には静まらん」
「あなたでは無理ですが、私には出来ます。自分で言うのもおかしいですが、私は民からの信頼が篤いのです」
「何をする気なのだ」
「ちょっと民の前に出て一席ぶつだけです。それで鎮まります」
言って、ラティカ姫は部屋の外に歩き出した。
「そんなことは許さん! お前はここに居るのだ!」
サリムはラティカの腕を掴んだ。
ラティカは流し目でサリムを睨みつけた。
「離しなさい」
「自分の立場が分かっていないようだなラティカ姫。私がその気になれば、お前などいつでも殺せるのだぞ」
「分かっていないのはあなたの方ですサリム大臣。あなたは私を庇った。その時点で、あなたも罪を犯しているのですよ。酒を飲んだ者を庇ったのです。私とあなたは最早一蓮托生なのです。私を殺すというのなら、あなたも道連れです。絶対に、道連れにします」
「……き、貴様……!!」
「もう一度言います。離しなさい。私はただ、民衆を鎮めに行くだけです」
サリムは手を離した。気圧されたわけではない。
離したの瞬間、サリムは口の中で呪文を唱えていた。
昨日もラティカにかけた睡眠魔法であった。
しかし魔術は形を成すことなく、空中で霧散した。
魔力干渉の紫光が二人の間に弾けた。
「なに!?」
「唱える呪文が分かっていれば、対抗呪文で打ち消すだけです。これくらい、私にも出来ます。どうせ睡眠魔法だったんでしょう」
サリムが立ち尽くす中、ラティカは一人悠々と歩き去って行った。
ラティカの口元から、酒の香りが漏れていることに、サリムは最後まで気付かなかった。
式典に用いられる広場には、真夜中だというのに多くの民衆が集まっていた。
ラティカは城の演説用バルコニーに立つと、広場を睥睨した。
広場を埋め尽くす人々。ところどころに篝火がたかれ、ゆらゆらと揺れる炎の光が、人々の表情を映している。
人々は熱に浮かされた目でラティカを見つめていた。
ラティカが片手を上げると、民衆は沸き返った。
今回のトオル脱獄騒ぎにおいて、何か劇的な対策が講じられるに違いない。もしかしたらすでにトオルを捕らえており、火刑よりも酷い刑罰に処すと発表するのかもしれない。
そんな期待をしているようだった。
自分たちの行いが正しいと信じており、疑うこともない。
酒を飲んだというだけで、一人の人間を徹底的に追い詰めることに、何ら疑問を抱かずここまで来た。
それが、とても気に入らなかった。
(トオルは……変えられるというの?彼らを)
ラティカはわずかに下を向き、呼吸を整えた。前を向く。
「ハイヤーム王国の皆さん、冒険者の方、兵士たち、こんばんは。ハイヤーム第一王女ラティカです。夜分遅くにお集まり頂きありがとうございます。今回は脱獄した死刑囚トオルについて、今後の対応を話すために来ました」
ラティカの言葉は、落ち着いていたが広場の隅々まで良く通った。
民衆たちはラティカの次の言葉を静かに待った。
「人の罪は死後も生き残るものであり、善行は忘れ去られるものであると言います。死刑囚トオルも例外ではありません。彼の英雄としての功績は最早なく、罪のみがみなに語り継がれることでしょう。彼は重大な罪を犯しました。みなさんもご存知の通り、彼は悪魔の水を飲み、あまつさえそのことを誇らしげに語ったのです。それは我らハイヤーム王国の法律に反するばかりか、ヌワース教の教えにも背いており、更には人としての不文律にも冷水を投げかける行為です。決して許されることではありません。罪には罰が必要で、彼の罰は死刑以外有り得ないでしょう」
ラティカの言葉に、民衆からは拍手が上がった。
ラティカは少しだけ手を上げて、人々を抑えた。
「我らの法は正しく、みなの怒りは最もです。彼は極悪非道の死刑囚なのです。私は一昨日、彼に直接会いました。御存知の通り、彼の魔王軍幹部討伐の功を讃えて、彼を貴族にしました。人々を魔王軍の災禍から救い、多くの街に安寧をもたらした彼を称えることに、私は疑問を持ちませんでした。私は大きな間違いを犯していました。私はこの国の法を信頼しており、ヌワース教徒として恥じない生き方をしてきたつもりです。その私が、清く正しく生きることを放棄した者に賞賛を与えたことをここにお詫びします。いくら民を救おうと、魔王軍を討伐しようと、彼は極悪非道の死刑囚なのです。ここに集まった多くの方も、彼の力に救われた者が居るでしょう。自分の子供を彼の剣に救われた人もいると聞きます。愛する人を救われて、感謝していた人もいるかもしれません。死刑囚トオルは命がけで世界を魔王軍の脅威から救おうとしていました。魔王討伐に最も近い人間でした。しかし、間違えてはいけません。彼は悪魔の水を飲んだ極悪非道の死刑囚であり、その罪は死によってしか贖えないのです」
ラティカは一呼吸置いて、民を見渡した。拍手が上がらない。
僅かなざわつきと熱狂が混在している。ラティカは続けた。
「その彼が脱獄したことは、我々の大きな失態であり、ここにお詫びします。今、みなさんの力を借りて、必死に捜索しています。ご協力、心より感謝します。トオルは逃げ回ることしか出来ない哀れな死刑囚です。かつて救おうとした民衆に追われ、仲間と信じた冒険者たちから剣を向けられています。それは罪を犯した者の当然の報いであると言えるでしょう。躊躇ってはいけません。見つけ次第、近くの兵士に連絡して下さい。可能であれば、殺して下さい。我らの兵士は必ずトオルを捕まえてくれるでしょう。もし生きて捕らえることが出来れば、我らハイヤーム国は、死刑囚トオルを火刑よりも遥かに厳しい罰にかけることを誓いましょう。死刑囚トオルを見つけて下さい。それが公明正大なハイヤームの法と、清く正しいヌワース教徒のみなさんに適う行いです」
民衆はざわついていた。
先程の熱狂が嘘のように、互いに顔を見合わせてささやきあっている。
熱狂が急速に冷えていくのを、ラティカは感じた。
「このような事態になったことに、私は大きな責任を感じています。この国に悪魔の水が存在していたこと、悪魔の水を飲む者がいて、それを捕らえられなかったこと。清く正しく生きてきたつもりでした。私は何者にも恥じることなく、高潔に生きてきました。もしここで極悪非道の死刑囚トオルを捕らえることが出来なかったら、ハイヤーム第一王女として生きていくことは出来ません。だから、どうか皆さん、悪魔の水を飲んだ者を私の前に連れてきて下さい。死体でも構いません。どうか、お願いします。ハイヤーム第一王女である私の願いを聞き届けて下さい。私がハイヤーム第一王女で居るために。トオルはまだこの街のどこかに潜んでいます。家々を全て開けて。全ての人々の協力が必要です。トオルはかつて英雄になった男です。決して油断はしないように。絶対に彼を殺さなければいけません。どうか、お願いします。みなさんの協力を」
そう言って、ラティカは頭を下げた。
演説が終わった。民衆たちは弱い雨粒のようなポツポツとした拍手を返した。
「さあ! 死刑囚を殺しに行くぞ!」
「しかし、情報が全くないぞ!結局、城の人間もトオルの居所を把握していないのだ」
「それに……トオルを殺しちまっていいのかよ……あいつは、魔王討伐に最も近い英雄だったんだろ?」
「俺も……妻をあいつに救われたことがある……」
「馬鹿野郎!あいつは悪魔の水を飲んだんだ!万死に値する!お姫様もそう言っていただろう!」
「いやでも、ラティカ姫もおかしくないか?火刑よりも酷い罰ってなんだよ!俺たちに人殺しをしろと言っているぞ」
「あんなのが次期王女になっていいのか?自分を高潔とか言っているヤツだ」
「それにトオルだ。あいつは結局、俺たちに対して直接迷惑をかけたわけじゃないぜ。むしろ……」
「なあ……トオルの罪は死ぬほどのことなのか……?俺達の行動は、本当に正しいのか……?」
頭の中に燻る疑問は、人々の行動を遅らせた。
何人かは家に帰る者まで現れた。
熱狂は、いつの間にか去っていた。
ラティカはざわつく民衆を見ながら、城の中に戻っていった。
目の前にはサリムが立っていた。
ラティカはサリムを認めると、そのまま通り過ぎた。
「あの演説は、なんだ……?」
ラティカは立ち止まった。互いに背を向けている。
「見ての通りです。死刑囚トオルの罪を糾弾しつつ、民を鎮めました。私は何か間違ったことを言っていましたか?」
「……言ってはいない。言ってはいないが……お前が言う民からの信頼とやらは、怪しくなったぞ。次期ハイヤーム王女よ。あれでは民は、お前の王女としての資質を疑問視するだろう。トオルを捕らえられなかったら、女王にならないと宣言しているようなものだ」
「そうですか。それもまた仕方のないことです。かつての英雄を殺すのですから」
「王女としての地位は、要らないと言うのか」
「私は、私の正しいと信じることをします。これからは、好きに生きさせて頂きます」
ラティカの言葉に、サリムは何かを思い出したように嘆息した。
「……国を、出るつもりなのか」
「……あなたには、色々と世話になりました」
「止めはしない。お前を操るのは不可能なようだからな。王女である今殺すと、俺も巻き添えだ」
「感謝します」
「王女でなくなるのなら、いずれ殺しに行くぞ。あいつもろともな」
「覚悟の上です」
ラティカは振り返らず去っていった。サリムも振り返ることはなかった。
ラティカはまっすぐ前を向いて、歩いていた。
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民衆たちの熱狂がすっかり冷めていることをトオルは認めた。
手に手に武器を持っていた冒険者たちは、寝床に帰っており、自警団を組織していた民たちも、所在なげに歩き回っているだけだった。兵士は居たが、どこか物憂げな表情を浮かべて、それぞれの持場に立っていた。
探してはいるのだろうが、さきほどの覇気がない。
トオルはラティカの言葉を思い出す。
王室の窓辺で手を差し出したトオルにラティカは言った。
「あなたのお誘いは、とてもうれしいです。どちらにしろ、もう城にはいられません。行きましょう。酒を探す旅に、酒が許される場所を作りに、そして、世界を変えに。……でも、私はハイヤームの第一王女です。それについて、ケリを着けねばなりません。少しだけ、時間をいただけませんか」
そう言って、ラティカは部屋に残った。
「分かりました。時間はどれだけ必要ですか?」
「今夜一晩あれば」
「では、城門を出た先にあるクライシュ湖の桃園に私はいます。一人で来られますか?」
「大丈夫です。これでも城を抜け出すのは得意なのです。トオルも、幸運を」
「ラティカ姫も、気をつけて下さい」
二人は一端別れた。
その後のラティカ姫の演説で、民衆の気運が変わっていた。
熱狂は去っていた。閉じられていた城門も、脇の扉から人の出入りが再開されていた。
みなすっかりやる気を無くしているように見えた。
門番は、何人かの商人や町民が城門の外に締め出されたままだったので、それを受け入れていた。
街から出ていく者もおり、彼らはこっそり通されていた。
トオルはそれに紛れて、商人として城門をくぐった。
門番は言っていた。
「死刑囚が街にいようが外にいようが、商売は止まりませんからな。奴は多分見つかりませんよ。あのお姫様じゃあね」
トオルは苦笑いをしながら門を抜けた。
しばらく歩くと、クライシュ湖だ。
クライシュ湖のほとりにある桃園は、緑が広がっていおり、桃の花が咲いていた。
人は居ない。暁の空が、わずかに白んできた。
トオルはクライシュ湖で水を飲むと、桃園の桃を一つ取って食べた。
牢獄でリリーにもらったパン以来、久々の食事である。
桃の木の根本に座って桃を食べて、大いに満足した。
人の気配が近付いてきたのは、ちょうどその時だった。
人影は二つだった。
鋭い殺気がトオルに向けられている。
「やはり城のぼんくら共にお前が捕らえられるわけねーよ。なあ、トオル」
人影はジャマルとリリーだった。
10メートルほどの距離を保ち、それ以上は近付いて来なかった。
ジャマルは弓を構えて、リリーは魔術行使の印を結んでいる。
「久しぶり」
トオルは立ち上がった。
大変遅くなりました。
次回投稿は5月22日予定です。
よろしくお願いします。