第一話 巻き込まれたファンタジー
会社の給湯室でカップを洗っていたら、何やら男女の揉める声が近付いて来た。
この給湯室は場所が少し奥まっている所にあり、内緒の話しをしたい恋人同士が隠れてここで色んな事を繰り広げたりもするのであった。他人のそんな事に全く興味が持てないので、近付いて来るまでにカップの泡を流して早々に立ち去ろうと、お湯を流し始めたその時。
「どうしてそう解ろうとしてくれないのっ!?」
「君こそどうして最初から否定するんだっ!?」
「いい加減にしてっ!何度話し合ってもこれじゃ無駄じゃないのっ!」
「君が話しを聞かないからだろうっ!?」
「私が悪いって言うのっ!?貴方だって全っ然こっちの話し聞かないじゃないのっ!」
「いつもそうして怒鳴るから話にならなくなるんだろうっ!?」
「貴方だって怒鳴ってるじゃないのっ!」
「君が怒鳴るからだよっ!」
「いつもそうっ!そうして私が悪いって決め付けてっ!」
「もういい加減にしてくれっ!」
「貴方こそいい加減にしなさいよっ!」
給湯室から出ようとしたその足を止めるほどの喧嘩が始まってしまい、これは出ない方が良いと判断した為、踏み出した足をそのまま引っ込めた。廊下でそのまま言い合いがどんどんヒートアップして行き、罵り合いから子供の喧嘩のようになって行き。
そろそろ止めるべきだろうかと悩んだその時に、喧嘩していた女性が声を張り上げた。
『サンダーブレスッ!』
途端、廊下を細い雷が走って行き、廊下と給湯室の照明がバチバチッと音を立ててショートし、思わず悲鳴を上げて耳を抑えてしゃがみ込んだが、残念な事に廊下の二人にその叫び声が届く事は無かったようだ。
『アシッド・レイン』
「きゃああっ!相変わらず陰険ねっ!」
「陰険結構」
『ランス・オブ・ロンギヌス』
「おいふざけっ」
廊下にポタポタと落ちて来る水が、廊下をその水滴で穴を開けて行く中、目の前のその空間一杯に何かが音を立てて横切って行った。物凄い破壊音が聞こえて再び肩を竦めて目を瞑る。一体全体、今すぐそこで何が起こっているのか全く想像できない。出来ないけれど、ゲーム好きな兄弟がいたお蔭で喧嘩していた男女が叫んでいたその言葉に何故かそのゲーム画面が思い浮かんでいた。
『サンダー・オブ・ゴッド』
もわもわと埃やらパラパラと音を立てながら何かが崩れ落ちる音がする中、男の声が聞こえた途端、今度は廊下を物凄い音と共にとても眩しい光りが包んだ。
鼓膜が敗れそうな程のその音と、目が潰れるんじゃないかと思う程の光りの中で、ただひたすらに給湯室の床に蹲っている事しか出来なかった。
*** *** *** ***
気が付けば、給湯室の出入り口の辺りで気絶していたようで、後輩が心配そうな顔をしながら見下ろしていた。
「大丈夫ですか?貧血起きました?今男の人を呼んでますから起きなくても」
「大丈夫……、あの、ありがとう……」
ヨロヨロと身体を起こそうとしたらそれを止められたけど、お礼を言いながら身体を起こした。
「えっと……」
「大丈夫ですか?やっぱり倒れた時に頭を打ったのかも。痛い所はないですか?」
何故気絶をしたのかと聞かれれば、あの二人のやり取りのせいだと断言できるけど。
それを他言するのは躊躇われ、元々座っていたから大丈夫だとどう伝えようかと考え込んでいる内に、男性を呼びに走ってくれたらしい後輩と、同僚と先輩が私を医務室へ運ぶ為に来てくれたので、有耶無耶にしたまま医務室まで同僚と先輩の腕を借りた。
「倒れたのか?」
「……いえ、その、立ち眩みがしてしゃがみ込んだのは覚えているので……」
「そうか。なら怪我は無さそうだ」
「っっ!!!」
同僚の問い掛けに答え、先輩の声にビクッと肩が跳ね上がった。
思わず握っていた手を放してしまったら、訝しげに眉間に皺を寄せた顔で「どうした?」と聞かれた。
「え、あ、あのっ、今、何かこうえっと、そう、肩が痛んで、ですね……」
「倒れた時に床にぶつけたのかもしれないな。大丈夫か?」
「だ……、大丈夫、です」
先輩に頷いて返しながら、不自然さが無いよう、再び腕に捕まらせて貰いながら医務室へと歩き続けた。そう言えば給湯室の奥の壁に何かがぶつかった音が聞こえたけど、あれはどうなったんだろう?壁はどうなってた?そう言えば廊下に穴を開ける雨だって降ってた。あれ、どうなってたんだろう?ああでも、誰も何も言っていなかったんだから何も無かった状態になっているのかも、けど。
「他にも痛むのか?」
「え?」
「何か、眉間に皺が寄ってたから」
「意識が戻ってから時間が経ったから、痛みを認識できるようになって来たのかもな」
「あ、ああ、ええそう、そうなんです」
「え、痛いのか?歩いて大丈夫か?」
「ええ、足は大丈夫。あの、先輩、こっちの手首が痛くなって来て」
「倒れた際左手を付いたんだろうな。そっちだけで大丈夫か?」
「はい、大丈夫です。足に痛みはありませんので、あの、一人で医務室に」
「また倒れたら大変だろ?それに、医務室はすぐそこだから」
同僚がそう言って前を指さし、確かにすぐそこにある医務室のドアへと歩き出した。
「ああ、戻る時は俺が付き添うから戻っていいぞ」
先輩のその言葉が聞こえた瞬間、握っていた同僚の腕をぎゅっと握ってしまった。
お願い、置いて行かないでと思いながら見上げると、同僚は一度眉間に皺を寄せた後先輩に向かって口を開いた。
「俺、仕事片付いてたんで大丈夫ですよ。後は任せて下さい」
にこりと笑った同僚がそう言うと、今度は先輩がぎゅっと眉間に皺を寄せたが、そのまま引き下がってくれて仕事に戻って行った。その背中をほっと胸を撫で下ろしながら見送った後、医務室で立ち眩みがして気絶したと伝えれば、休んでから帰宅か家族に連絡を取って誰かに迎えに来て貰えと言われ。
何時だろうかと時計を見てから「家族に連絡します」と伝えた。
「実家だったっけ?」
「弟の大学がここの近くだから」
「ああ、二駅先の?」
「うん、そう。講義が終わってればそろそろ帰る時間だから」
一緒に暮らしている弟が今朝、今日は四限目に出ると言っていたはずだ。今四時半少し前だから、上手く行けば丁度良い時間だと思う。
『もしもし?』
「あの、お願いがあるんだけど」
『どうした?』
「会社に迎えに来てくれないかな?」
『何、クビにでもなったん?』
「ちっげーよっ!ああいや、会社で倒れちゃって」
『マジで?だからダイエットとか無駄な事すんじゃねえって言って』
「無駄じゃねえっ!ってか来てくれないと凄く困るんだけど」
『行くよ。ああ丁度来たから後二十分くらい』
「ありがと」
弟の声の向こうから電車の音が聞こえたから、丁度ホームにいたらしい。
何と言うグッドタイミング、でかした弟っ!
「あの、弟が迎えに来てくれ……。何?」
「え、いや、お前、意外と崩れた言葉を使うんだなと」
「忘れて」
「あ……、ああ、うん、わかった」
兄と弟に挟まれたお蔭で、負けないようにと頑張っていたので言葉遣いが悪いのは良く解っている。思わず出てしまったのは、とんでもないぐらいに動揺しているからで、普段は外にいる時にこの言葉遣いをした事はない。
とにかく、さっき自分が体験した事を誰かに言いたくて堪らないのだけど、会社の誰かに言ってはいけない事だけは理解していた。だって、誰があの人達の仲間なのか解らないから。
「君、これを彼女の上司に提出してくれるかな?」
「ああはい、解りました」
退社時間には早い為、早退になるからその為の書類を同僚に渡してくれる。
荷物を取りに行く為立ち上がり、同僚に気遣われながら部署に戻ると私が倒れていた事を既に知っていたらしく、大丈夫かと声を掛けられた。
「はい、あの、大丈夫だとは思うのですが念の為きちんと病院に行って来ます」
「ああそうだね、その方が良い」
「それで、申し訳ないのですが明日お休みさせて頂いても大丈夫でしょうか?」
「構わないよ。明後日には週末になるし、きちんと休むと良い」
「はい、ありがとうございます。明日の処理なら普段通りなので特別な事は何も無いと思います。月曜に持ち越しても大丈夫なので、良ければ机の上に置いて頂けるとありがたいです」
一応後輩に何かあったら電話をするよう伝え、更衣室に向かって荷物を持って出て来ると、丁度給湯室で私を覗き込んでいた後輩とバッタリ会ったので、お礼を伝える事が出来てホッとする。先輩と同僚を呼んでくれた子にもお礼を伝えて欲しいと言ってから部署に戻ると、丁度弟が来ていると連絡が来た。
「申し訳ありません、お先に失礼します」
「お疲れ」
「ちゃんと病院行って下さいね」
そうして廊下に出てエレベーターへと乗り込む為に下降ボタンを押した。
同僚にもお礼を言いたかったのだけれど、心配してくれている部署内の人達に説明している間にいなくなっていて、本当は忙しかったのだろうと思ったので、後できちんとお礼を伝える事にした。
チンッと軽快な音がして扉がゆっくりと開いて行くとそこに、先輩が乗っていた。
「……乗らないのか?」
「え……、と、今忘れ物に気付いて」
「待ってるよ」
「い、いえ、他の人に迷惑ですから大丈夫です」
「そ?」
いいから早く行けと思いながら頭を下げた後、部署へと走るように移動し。
ドアノブに手を掛ける前に振り返ってみると先輩がホールに立っていた。焦りまくって部署に飛び込むと、驚いた皆に心配される。
「どうした?大丈夫か?」
「顔色悪いですよ?」
「……あの、本当に申し訳ないのですが、どなたか一緒に玄関まで行って下さいませんか?」
「ああ、君、着いて行ってあげなさい」
「はい」
「ごめんなさい、面倒掛けて」
「いえ、丁度限が良いので。それより体調の方大丈夫ですか?」
「ええ、あの、また立ち眩みがして」
「顔色悪いですから、それは解ります。歩けますか?」
「あの、腕を借りてもいい?」
「構いません」
そうしてまた腕に捕まらせて貰い、心配させてごめんなさいともう一度謝ってから部署を出た。先輩はいなくなっていてほっと溜息を吐き出した後、エレベーターを待つ間、大丈夫かと気遣ってくれている声に答えながら顔を上げていた。
数字の4が光り、チンッと音がして扉が開く時、思い切り腕を握ってしまったら余計に心配を掛けたらしい。大丈夫かと問う声にもう何度目かの大丈夫を発し。
ゆっくりと降りて行くエレベーターに再びほっと息を吐き出した。
エントランスに出れば、見慣れた弟の顔が出迎えてくれてほっとしたせいか、涙が出そうになって慌ててそれを止めた。
「本当にどうもありがとう。あの、皆にも伝えてくれる?」
「勿論。ちゃんと病院行って下さいね?」
「解ってる。ありがとう」
付き添ってくれた礼を伝え、弟と共に玄関を出て駅に向かう為に歩き出した。
「で?何があったんだよ」
「帰ってからにして。今はまだ駄目」
「あっそ。つうか姉が腕にしがみ付いてるとかキモイんですが」
「我慢しろ。私だってしがみ付きたくてしがみ付いて」
「忘れ物はもう無いかな?良かったら乗せて行こう」
恋人のように弟の腕にしがみ付いて歩く私の前に、先輩がニッコリ笑顔で現れた。
「おおっと、え、何、男いねえっつってたのに」
「いる訳ねえだろっ!」
こそっと呟いてきた弟に即答すれば、弟がニヤリと笑う。
「すげえ車ですね。乗り心地良さそうな」
「ああ、まあね」
「……ミモルトゥじゃないですか。金持ちっすねえ」
「君は?」
「どうも、弟です」
「そうなんだ。僕は、」
「あの!」
腕にしがみ付いている私をチラチラと気にしながら、弟と車の話しを始めようとした先輩を遮り、声を張り上げる。
「申し訳ありません、気分が悪いのでこれで失礼します」
「ああすまない。良かったら送って行こう」
「いいえ。気持ちが悪いので車はちょっと」
「……そうか。すまなかった」
幸いなのか、先輩が直ぐに引いてくれたので弟の腕にしがみ付いたまま軽く頭を下げ、二人で駅までそのまま歩いて行き、実家の最寄り駅までの切符を買った。