はじまりの星
――ゆっくりと息をはくのよ。
……そうだったわ……
けさらんは、語りかけてくるなつかしい母さんの言葉に、ゆっくりとため息をつきました。それは思いでのなかから、おぼろげなかたちをとって話しかけてくるのでした。
☆★
ぱさらんを見失ってから何にちが過ぎたのでしょうか。
この水鏡の世界のなかで、世界のはじまりをいっしょに見つけに行こうと二人で旅立ったまではよかったのですが、いつの間にかどこまでもうす緑に生い茂る入りくんだ水草の森にまよい込んでしまって、気がつけばふたごの妹のぱさらんの姿が見えなくなっていました。
――どちらがはぐれたの。
……いいえ。それはどうでもいいこと……
――探しなさい。終わりのないはじまりを。
……はじまり……
今、けさらんは水草の森を抜けて、ただ砂ばかりが広がるところにいました。砂はただ白くて、水の流れがそこに変化しつづけるもようを描いては消し、また描いてはかき乱しています。さしこんでくる陽の光は、青みをおびて透きとおっていました。
けさらんがじっと漂っていると、ふいに澄んだ音色が聞こえてきました。懐かしいような、遠いような、こころに沁みてくるようなその音色は、どうやら上のほうから近づいてくるようでした。
見上げると、はるか上のきらきらと輝く水面のほうから、銀色の楽器のようなものがゆらゆらと落ちてくるのが見えました。それは小さいハープみたいに見えました。小さな魚たちがその弦をつつくたびに、一つ、また一つと小さい澄んだ音が鳴りました。その音たちは、だれが作ったのでもない不思議なメロディーとなってあたりに響いていたのでした。
――あれは水鏡の妖精のハープなのですよ。
……そうなの……
けさらんは、じっとそのメロディーを聴いていました。やがてハープは、けさらんのちょうど胸のまえあたりに、まるで手にとってくださいとでも言うように、静かに落ちてきたのでした。
――さあ、取って。
……
けさらんはハープをその手に取り、よく見てみました。それは曇りなく銀に光っていて、けさらんを映していました。その顔は思いでの母さんのおもかげにも見えるのでした。
けさらんが銀色の弦に触れると、いつまでも聞いていたいような澄んだ一つの音があたりに響きました。
――。
……ほんとうに好い音色……
気が付けば、けさらんはそのハープを奏でるともなく奏でていました。持っているだけで、触れているだけで、けさらんの手はまるで自分の手ではないようにハープの名手となるのでした。ときに哀しくて切ない、ときに明るくて楽しい、ときに優しくて、ときに激しい、夢のような旋律を奏でるのでした。
――まわりをごらんなさい。
……
気が付けば、まわりをたくさんの魚たちや、海亀たちや、金づちのような頭をした鮫や、男の人魚たちが取り巻いていました。その姿は、うっとりとハープの音に聞きほれているようであり、また何かを待っているようでもありました。
けさらんが手を止めると、取りかこんでいた彼らはまるで夢からさめたようにはっとして、てんでちりぢりに去っていきました。でも、若い男の人魚の一人だけが残ってこちらを見ています。やがて、ゆっくり泡をはきながら、
「そのハープで探すものを探せばいいよ。」
と、口にしたきり、さっときびすを返して泳ぎ去っていきました。
――もうすこし待ちましょう。
……待てばなにがあるの……
けさらんは待つことをあまり知りません。いつも漂っていて、待たなくても何かが現れたり、起こったりするのでした。それでも、けさらんは少し待ってみました。待っているうちに、だんだんとハープを持ったけさらんは水面に近づいていきました。
日がすっかりと落ちました。金赤の残りが消えて、紫と群青のとばりが下りてきます。ずいぶんと水面近くに浮かんできたけさらんには、星の灯が見えました。
――さあ、もうすぐよ。
……なあに?……
やがて、天に星の川が現れました。満天の星空を分かつ光の帯です。けさらんが見上げていると、天の川の遥か向こう岸あたりが、ざわざわしているようでした。それはどうやら天の川のこちら側へと飛んでくる、虹色に光を放つカササギの群れのようでした。カササギたちは次々に数を増して、それが虹の橋になっていくのでした。
けさらんの手は、知らず知らずのうちにハープを奏ではじめていました。その音色は水の中に響き渡り、やがて水面から天へと沁みだして、天の川の橋を渡って行きます。カササギたちはうっとりとして、しばし目を閉じました。
そのとき、見おぼえのあるだれかが橋を渡ってくるのが見えました。
――やっときたわね。
……ぱさらん!……
ぱさらんは、なんだかのんびりとカササギの橋を渡っています。
赤に青に星は強く輝き、カササギたちの影が、ぱさらんの影が、けさらんのところにまで届くのでした。影は不思議に動きます。あちらからこちらに、またあちらからこちらに。
けさらんが影を見ているあいだに、ぱさらんはずいぶんと近づいてきました。橋のこちらがわの終わりは、ぼんやりと水面に映っているだけでした。
ふと気づくと、いつの間にか、ぱさらんはけさらんのすぐそばに漂っていました。
「ぱさらん。」
「けさらん。」
「なにを見つけてきたの。」けさらんはたずねます。
「それはね……」
ぱさらんが言いかけたとき、二人に声がきこえました。
――はじまるわよ。
……なに?……
……なんなの?……
そのとき、カササギたちの虹色に光っていた橋が、急にかすんで透明になりました。そして、輝く夜空の天の川の星々は、音もなく突然に弾けて花火のように飛び散りました。
――はじまりの光よ。
……!?……
……なにが起こっているの!?……
色とりどりの光線が水の中にも降ってきます。それは、金色と銀色と虹の真ん中のはっきりした色でした。弱くて強くて眩しくて暗い、星の屑たちの光線でした。赤くて青い黄色の光はあちこちに飛び散って、てんできままに踊るのでした。
「わたし、分かったの。」ぱさらんは動き続ける明るみと暗やみの輝きに照らされながら言うのでした。
「終わりのないはじまりのこと。」
「それはなあに。」けさらんはめまいのような光の中でたずねます。
「さいしょの息。赤ちゃんの生まれたばかりの息のこと。」ぱさらんは影になり、光になって続けます。
「さいしょのつぼみの開くとき。初めて咲いた花の瑞々しさ。そして恥ずかしがりの水たまりの初めて映した輝く満月。それからそれから、まだまだたくさん……」
「ぱさらんは果てをみてきたの?」けさらんはたずねます。
光たちはすこしおさまってきました。
――果てはみるものではないわ。
……ただ果ててしまうの?……けさらんには分かりませんでした。
二人の足もとにいた強い光とかすかな光がまっすぐに上へ昇りました。
ハープが鳴っています。けさらんはいつの間にか弾いていました。ころがるような音の珠が連なっていきます。
「わたしがみたのは、眠っていたところ。星のはじまりのまえの眠りだったわ。」ぱさらんは、けさらんの手にあるハープが音に連れて色をさまざまに変えていくようすをみていました。妖精のハープは、黄金色に、紫水晶に、桃色に、青緑に、紅に……ときにくりかえし、ときに思いがけない色にかわりつづけます。
「その音が聞こえたの……だから来たの。」
けさらんも、だまって弾く手を休めずにハープをみていました。水鏡の中で、このハープからは限りない調べが生まれてくるのです。その音たちもまた、終わりのないはじまりであったのです。
「世界はいつもはじまっているのね。」けさらんは言いました。
「「一瞬ごとにはじまりが連なっているわ。」」
「「このハープの音のように。」」
「「世界は一瞬ごとに生まれているの。」」二人の声がそろいました。
――そう。終わらずにはじまるのよ。
「世界の終わりを見ていたあの猫に。」
「教えてあげたい。」
「あなたもまた、はじまり続けているのよって。」
「さっきと同じ今は無いってこと。」
「生まれたての時計は、まだ動いていないけれど……」
――そう。それははじまるのまえの眠りなの。
そのとき、すっかりとおさまった星々の踊りのあとの夜空に一つ、ちかりと一等星が輝きました。そのとなりにだれも見たことのない小さな星がかわいらしく輝いています。ハープの澄みきった流れるような調べは、その新しい生まれたての星の光にむかうように響いていきました。どこまでもどこまでも、遠く遠く、はじまりの星へむかって響いていくのでした。
お読み頂いてありがとうございます。この作品に出てくるハープは、星新一さんの「海のハープ」から着想を得ています。星さんの1000点以上ある作品は、いずれも素晴らしいものです。もし未読なら是非お勧め致します。