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マルコスの場合 後

 結局、あの建物には行かなかった。1000ダガットの誘惑は強烈だったが、どうにもはっきりした理由もわからぬまま大金を手にするのは不安で、妻や娘に楽をさせてやれるならと思いもしたが、細道の前で思いとどまり、そこから炭坑に向かった。

 また数日が経った。昼まで働き、それから職探しをする毎日、なかなか成果は上がらない。職業紹介所の連中の顔も見慣れたもので、名前も知らぬ求職者達と挨拶など交わす始末。突破口はないものか。

 夜、結局めぼしい仕事は見つからず、やはりミゲルの厚意に甘えておくべきだったかなどと考えて家路についていると、不意に大きな男が目の前に立ちはだかった。


「あなた、職業紹介所にいらっしゃいましたね」

「ああ、そうだが」

「お仕事を探していらっしゃるのでしょう」

「そうだが、あんたは?」

「これは申し遅れました、私、管理局の者です」

「!」


 背の高い金髪の男、こいつがミゲルの言っていた男か。長髪を後ろで束ねた髪型に、臙脂色のロングコート、なるほど確かにかなりの社会的地位と教養を備えているといった風だ。話し方も柔和で、交渉に長けている。


「実はご紹介したい仕事があるのです」

「あれだろ、機械に腕を通して脈を測る」

「これは驚きました。よくご存知ですね」

「知人に紹介を受けてね。登録済みだ」

「それは知らずに失礼致しました。その知人というのは」

「職場の元同僚さ。そいつはしょっちゅうそこに行ってるはずだが」

「そうでしたか。ちなみにご登録された上で、あちらへは行かれてない、と?」

「まあな。身の丈に合った働きをして、身の丈に合った稼ぎを得る、それが俺の信条だ」

「ではもうあちらには来ていただけない?」

「もう行く気はないね、申し訳ないが」


 あれ、どうしたんだろう。俺は、暮しが辛くなればあそこに行ってみてもいいかなくらいに考えていたはずなのに、何故だかムキになって「行く気はない」なんて言ってしまっている。おそらくだが、理由はこの男だ。柔和な口調、言葉の端から漏れる教養の気配、文句の付けようのないこの男の態度に俺は「信用しきれないもの」を感じていた。言うなれば「完璧すぎる」。この男の隙のなさに俺は警戒していた。


「ちなみにこの話、他の方には……」

「話してないよ、内密なんだろ」

「ご理解頂けているようで安心しました」

「とにかく俺はまだ仕事探しを辞める気はない。悪いが引き取ってくれ」

「ご立派な信念ですね。では」


 去り際の言葉に引っ掛かるものを感じたが、特になにも言わずにおいた。早く、帰ろう。


「おかえりなさい、あなた」

「ただいま、エマ」

「いいお仕事は見つかりそう?」

「……あー、いや」

「そう……。焦らないでね」


 さっきの出来事を妻に話そうかとも思ったが、とどまった。妻は職探しを応援してくれているし、あんな怪しい話に賛成するはずがない。そうであって欲しい。それに悔しいがあの男はかなりの男前だった。妻に男前の話をするのは、やはり夫としてはなんとなく気後れする。


「実はね……」


 妻が思い切って、という風に切り出した。


「お店を始めたいと思っているの」

「え?」

「お店を開くのよ、あたしたち家族で」

「そんな、急に」

「いいえ、ずっと考えていたの。あなた仕事がないってずっと落ち込んでいたでしょ。幸い何か月分かの生活費はあるし、それなら思い切ってそのお金をお店の開業資金に回してみたらどうかって」

「そん、そん……」


 店なんか開いて、上手くいかなかったらどうするんだ。そう口から出かけて、噛み殺した。妻の顔があまりにも希望に満ちていたから。それに聡明な妻のことだ、リスクのことなぞ腐るくらい考えたに違いない。その上での決心だ。自分が彼女の支えになれなくてどうする。


「何の店をやるんだ?」

「パン屋さんをね、やろうと思うの」

「パン屋か、それは良い。お前が焼くパンはうまいから」


 妻は料理にかなり凝る方で、結婚して家を買う時も、自分の部屋なんかなくてもいいからと言って、その代わりに釜のあるキッチンを所望したくらいだ。


「あなた、炭坑の方は明日が最後の日でしょ?お仕事が終わったら、明日は早く帰ってきて。三人で、お店の相談をしましょ」

「ああ、わかった」



 翌日、私は朝から浮かれていた。仕事がないなら店を開こう、か。思い切りのいい妻に恵まれて幸せだ。店の内装はどうしようか。自分もパン作りのことを勉強し始めなくては、妻は人当たりがいいから、きっと繁盛するに違いない、そんなことを考えている間にあっという間に終業の時刻になった。



「諸君、いままで長い間ご苦労であった!どうか達者で!」

「よおマルコス、最後の日だ。お前も行くだろ」


 そう言って肩を組んで来た同僚が、右手を口にクイクイと傾ける動作をする。


「悪いが今日は帰るよ」

「なんだよ今日も職探しか?見つかってねえのは皆同じさ、心配するな。今日くらい飲んだって罰は当たらねえよ」

「毎日飲んでるだろうが」

「だははっ、ちげえねえが」


 そんなくだらない問答をしながらも、浮かれすぎていたのかもしれない。妻と店を始めることをつい自慢げに話してしまった。


「そんなわけだから、まあ前途多難だろうが、お前達もぜひ寄ってくれよ」

「いいなあマルコス。前途多難つったって、あの美人のカミさんとならどんな困難だって楽しめそうなもんだよ」

「全くだ、ちっとくらい万引きしたって見逃してくれよ」

「馬鹿野郎、さっそく店を潰す気か」

「ははは!おめえのカミさんを口説きに行くぜ」

「お前は来るんじゃねえ!」


 マルコスは生真面目な性格で、あまり仲間とはしゃぐ方ではなかったが、その真面目な仕事ぶりから人望は厚かった。今日は機嫌も良いので、マルコスはいつになく楽しそうに仲間たちと笑い合った。


「お前ら、まだ仕事が決まってないのなら」

「おう?」


「行政区のカイエ・トリスタ通りの細道に言ってみるといい」


「いい仕事があるぜ」


 つい喋りすぎてしまった。長年苦楽を共にした仲間達への餞別のつもりだった。マルコスにしては珍しい、一時の感情の波に流されての迂闊な行動だった。



「ただいま、エマ」




静寂



「・・・・・・?」


「エマー、居ないのか?」


 おかしい。鍵はかかっていなかった。鍵もかけずに外出する程妻は迂闊な女ではない。部屋とトイレも見回ったが、どこにも妻の姿は見当たらない。開いた窓から吹き込む風に、カーテンが揺らめいた。


カラーンッ


 なんの音だろうか。厨房だ。駆け足で厨房に入ると、鍋がボコボコ音を立てて煮えている。鍋は火にかけられたままだ。くるくると鍋のふたが床の上でこまのように回っていた。妻の姿は、そこにもない。


 嫌な予感に、汗が噴き出した。

妻だけじゃない。娘は、娘はどこに行った。鍋を火にかけたまま二人ともどこかへ出かけるようなことがあるものか。杞憂で済んでくれれば構わない。だが直感が、ついさっき仲間達に話した話と、妻と娘の不在を結びつけた。


 <管理局>……!

 俺があの場所を他言したからか?

妻と娘の帰りを待っていられない。あの場所に走った方が早い。


 ハッ、ハッ、ハッ、

息が切れるのも構わない。どうか、どうか無事でいてくれ。

行政区に入った。細道まであと少し。

なにをやっているんだ俺は、ただの思い過ごしであれば、こんな馬鹿みたいな話はない。



・・・・・・!!


「ミゲル!」


「あ・・・?」


 久しぶりに会った友と再会を喜んでいる暇はない。咄嗟にミゲルの肩を掴んで問う。


「なあ、妻と娘を知らないか。なにか妙なんだ」

「いやあ、知らんね」

「鍋が火にかけられたまま、そういうだらしのないことをするはずはないんだ。妻は」

「・・・・・・」

「くそっ、あの施設でいいのか。まあいいそこしかアテがない」

「ただ出かけてるだけじゃないのかい」

「昼には俺が戻ると知っていた!それを書き置きの一つも残さず、鍵もかけずにだ!何かに巻き込まれた可能性が高い!」

「そうかあ」

「暢気だな、お前もあの場所に行くんだろ」

「まあなあ」

「丁度良い、一緒に来てくれ」

「ところでよ」

「ン、なんだ」

「誰だい。お前さん」

「——————————————————ッ!!?」



彼の平穏が、足元から崩れさっていく音がした。




ーーーーーーーーーーーーcontinua


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