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マルコスの場合 前

 彼は取るに足らぬ労働者だった。気のいい妻と、素直で可愛い娘に恵まれて、人並みに幸せな毎日を送っていた。バターを塗り付けたトーストと、熱いコーヒーが彼の一日の始まりの定番だ。妻の編み物の経過報告と、娘の覚えた新しい言葉の報告に耳を傾けながら、パンの最後の一切れをコーヒーで流し込むと、肘の部分が10回も破けては、その度に妻が布を当てて縫い直してくれた馴染みの上着を指に引っ掛けて担いで家を出る。玄関口に掛けられたハンチングを前後ろにギュッとかぶり込むのも忘れない。何もかもが予定通り。何もかもが変わらない、ささやかで、幸せな毎日。


「よおマルコス、顔に何か付いてるぜ」


 陽気に彼に話しかけたのは同僚のミゲルだ。背が低く、目が丸くて大きく開いていて、実際の年よりも幼く見える。ミゲルとマルコスは古い付き合いだ。


「こいつは俺の目だよ、ミゲル」


マルコスの目が非常に細く、ほとんどつむっているように見えることから、ミゲルは毎日、挨拶代わりにこう茶化すのだ。


「毎日毎日よく飽きないね、お前も」

「なぁに、お前の目があんまり細いもんだから毎日驚いちまうんだ」

「今日は12番坑らしい」

「そうだったな」


 二人は街の外れの炭坑に勤めていて、毎日同じ穴で働き、同じ穴で飯を食い、そしてまた各々の家に帰っていく。そんな生活をもう十何年も繰り返している。お互い、その生活に不満は無かった。マルコスはやりがいのある仕事に誇りを持っていたし、守るべき家族があった。ミゲルに家族はいなかったし、仕事に大したプライドは無かったが、くたくたになるまで働いた後に、仲間達と酒を飲むのが大好きだった。


「どうにもな、この穴もかなり採りつくしちまった感があるな」

切り出したのはミゲルだ。

「そう、だな。掘っても掘ってもボタばっかりだ」

「そろそろ新しい穴を開けんといかんね」

「そうは言ったって、ここいらはもう穴だらけだ、今さら新しい穴を開けるったって」



ゴーーーーーーーーーーーーーーーン


大時計の音が、坑道の中に響き渡った。


「5時だぜ」

「そうだな」


 二人は朝からずっと、喋りながらも手を動かし続けてきた。しかし確かに、二人掛かりで採掘できた石炭の量は、ひと月前を遥かに下回っていた。


「俺のおしゃべりは今日は“並”だったろ?」

ミゲルが言った。

「まあな。むしろ今日は静かな方だったさ」

マルコスが答えた。


 採掘量の目に見える減少、それは今までにいくらもあった出来事だった。しかしその度に彼ら炭坑夫は新しい坑道を拓き、それを乗り切ってきた。しかしこの12番坑が開通したのは3年前、今ではこの街には21本の坑道が走っていた。もうこれ以上は街の地盤に影響が出る。状況は思わしくなかった。


「まあ、主任に相談だな」

マルコスはいつだって冷静な男だ。

「そんなことより、早く酒が飲みてえや」

ミゲルは目先のことしか考えていないようだった。


—————————集合————ッ!


「おっと、丁度号令だぜ」


 さっきまでの憂慮はどこへやら、もう酒のことしか頭にないといった風のミゲルを見て、マルコスは小さく溜め息をついたが、その顔は笑っていた。こんな能天気な男だからこそ、自分のような堅い人間と相性がいい、二人で一人、ずっと昔からそうだった。



「…………であるからして、今月いっぱいで閉鎖となる!」


今、なんて言った?


「諸君には非常に申し訳ないと思う。しかし取れんもんは取れん。掘れんもんは掘れんのだ。仕事がないからには君たちにはもうここで働いてもらうことはできない。残りの三週間、せめてものけじめ、この炭坑への別れのけじめと思って、精一杯、職務に励んでくれ!」


…………


「チックショオ、来月からどうやって生きてけっつうんだ」

「落ち着けよ、ミゲル」

「馬鹿野郎、おめえも文句の一つでも垂れてみやがれ」

「文句を言って石炭が増えるならいくらでも言うさ」

「くっそたれめ、お利口ぶりやがって!口じゃ偉そうなことほざいたってよ、目は泣いてるぜ」

「!」


 ミゲルに言われるまで気付かなかった。ミゲルをたしなめていたつもりが、自分の目から一筋の涙が流れていることに。ミゲルのように感情に任せてわめき散らせればどれだけ楽だろう。どれだけ心は軽くなるだろう。だが心は何の解決ももたらさない。解決をもたらしてくれるのは仕事だけだ。来月から一体何を食って生きていけば、いや、自分はまだいい。妻は、娘は。考えれば考えるほど、喉に熱いしこりが溜まっていくようだ。今にもこの酒場のテーブルに突っ伏して泣きだしてしまいそうだった。しかしマルコスはグラスを掴み、ビールを思い切り喉に流し込むと、大きく息をついて平静を取り戻した。


「泣いたって石炭が戻るわけじゃないさ」


 強がるマルコスを見て、ミゲルは大袈裟に「ケッ!」と言ってビールを飲み干した。


「おかわり!おーーい姉ちゃん!おかわりだよ!」


 店の女性は忙しなく走り回っている。今日は随分混んでいる。それもそのはず、来月失業の宣告を受けた炭坑夫達が皆、やり場のない怒りや不安を酒で溶かすために、酒場に詰めかけているのだ。今夜はどの店もこの調子だろう。



…………


「じゃあな。マルコス、また明日」

「ああ、気をつけろよ。ふらふらしてるぞ」


 友との別れも、いつもより少し名残惜しい。おぼつかない足取りの友が確かに家の方向へ歩き出したのを確認すると、マルコスも家路につく。マルコスは酒に強い方であるし、感情に流されてやけ酒をする類いの男でもないから、足がふらつく程にアルコールを摂取した、という訳はないのだが、やはり気落ちしているのか、その足取りはいつもより力無い。



「おかえりなさい。今日は少し、遅かったのね」

「ただいま、エマ」

「パパ、おかえり」


「なんだ、まだ起きていたのか」

「この子ったら、あなたが帰ってくるのを待つって聞かないのよ」



 眠りそうになるのをずっと我慢していたのだろう、重たいまぶたを擦りながら、とてとてと駆け寄って来る娘を抱き上げて、マルコスは強く抱きしめた。


「ただいま。エリシア」


 抱き上げられた娘は眠いのも忘れて、嬌声を上げながら父の首に飛びつく。

 不意に、マルコスの目から涙が溢れる。


「あ、あら……あなた?」

「パパー、泣いてるの?」


「うっ、くっ。…………うう、うああっ……!」


 なんという醜態だ。妻と娘の前で、嗚咽を漏らしながら、弁解すらできない。涙が俺の意志とは無関係に堰を切ったように流れ出てくる。きっと不安でしょうがないんだ。俺も。これからの生活が。家族に負担をかけてしまうかもしれないこれからが。ミゲルのことを笑えやしない。


 変わらない毎日が、音を立てて崩れ始めていた。


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