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ドクター・レフトハンドは「いたしません」

掲載日:2026/10/03

帝王大学医学部附属病院、第一手術室。

張り詰めた無菌の冷気の中、心電図の規則正しい電子音だけが規則正しく刻まれている。


「血圧低下! 80の50! 総胆管の奥から激しい出血です!」

「ガーゼで圧迫しろ! 吸引器もっと深く! くそっ、術野が見えん……視野が狭すぎる!」


術者を務める消化器外科の教授、堂島の手が微かに震えていた。

患者は政界の大物議員。難易度の高い膵頭十二指腸切除術の最中に、予期せぬ破変血管を傷つけたのだ。右手用の持針器を握りしめ、止血ポイントを探そうとするが、角度が悪すぎて器具が届かない。

右利きの人間にとって、この解剖学的な深部は最大の「死角」だった。


「だめだ……この角度からは縫合針が入らん! 右からじゃ無理だ!」

「教授、このままでは心停止します!」


手術室がパニックに染まりかけたその時、自動ドアがスーッと音もなく開いた。


ゴム手袋を両手にはめ、冷たい無機質な瞳をした女がぬっと現れた。

フリーランスの消化器外科医、神代氷花(かみしろ ひょうか)。

感情の起伏が一切顔に出ず、患者の命にも同僚の出世にもミリ単位の興味を示さないため、医局では陰で「心臓に氷が詰まったサイコパス」と囁かれている女だ。


堂島教授は藁にもすがる思いで叫んだ。


「神代! 助かった、すぐに助手に入れ! 私の右側に立って、この出血点が見えるように鉤(こう)を引っ張るんだ! あと、ついでに教授選の推薦状も預かっているからな!」


氷花は手術台の前にすっと進み出ると、血だまりの底をのぞき込んだ。

その顔には焦りも、憐憫も、恐怖もない。あるのは、ただ精密機械を観察するような底知れぬ静寂だけだった。


氷花は首を小さく横に振った。


「堂島教授」

「な、なんだ早くしろ!」

「右側に立つこと、ならびに教授選への加担。**――いたしません**」


「なっ……!?」

絶句する堂島を無視し、氷花は無造作に術者の立ち位置――患者の左側へと回り込んだ。


「右から狙うから見えないんです。脳の構造が単一方向で不便ですね。そこ、どいてください。邪魔です」


氷花は堂島を肘で無慈悲に押し退けた。

器械出しの看護師が慌てて器具を差し出すが、氷花はそれを見もせずに弾いた。


「右手用のペアンなんてゴミです。特注のレフトハンド(左利き用)の持針器とモスキートを」


看護師が震える手で渡した黒塗りの器具を、氷花は**左手**で軽やかに受け取った。

親指と薬指が器具のリングに吸い付くように滑り込む。


左利きの外科医は、日本の医学界ではしばしば厄介者扱いされる。器具の多くは右利き用に作られ、手術の立ち位置や手順もすべて右利き基準でマニュアル化されているからだ。

だが、右利きの人間が「絶対に手を出せない角度」が存在する。


氷花の左手が、迷いなく血の海へと潜り込んだ。

ためらいの欠片もない。まるで泥水の中に落ちた硬貨を拾い上げるような、冷徹で合理的な指の動き。


手首が信じられない角度にしなり、左利きの鋭利なアプローチが、死角の裏側に隠れていた微小な血管の裂け目をピンポイントで捉えた。


カチッ。


金属音が静かに響き、出血がピタリと止まる。


「吸引。……術野クリア」

氷花の声は氷のように平坦だった。

左手で持針器を高速で旋回させ、目にも留まらぬ速さで髪の毛より細い糸を縫合していく。右手はただ、組織を完璧な力加減で固定するためだけに添えられている。まさに「右手は添える手、左手は肉を裁く手」。


わずか三分。

修羅場と化していた術野は、まるで最初から何も起きなかったかのように整然と縫い合わされていた。


心電図の波形が落ち着きを取り戻す。

麻酔科医がふうっと長い息を吐き、助手たちが呆然と立ち尽くしていた。


「ば、バケモノか……。あの深部を、ブラインドに近い位置から左手一本で結紮するなんて……」

堂島教授は青ざめ、額の脂汗を拭いながら、プライドを取り繕うように言った。


「う、うむ……よくやった神代。さすがだな。これであの議員への顔も立つ。よし、あとは君が閉腹しておいてくれ。それから今夜、学会の打ち上げの席を用意してある。私の隣に座る栄誉を授けよう」


氷花は左手から器具をカランとトレイに落とした。

そして、血塗れのグローブをパチンと音を立てて脱ぎ捨てると、ゴミ箱へ放り込む。


その瞳には、救命した達成感も、教授へのへつらいも、人間らしい温かみすら何一つ宿っていなかった。


「閉腹作業、ならびに学会の無駄話への同席」


氷花は堂島の顔を、まるで解剖台の標本を見るような冷たい目で見据えた。


「**――いたしません**。私の左手は、面白いパズルを解くためだけにあるので。ただ肉を縫い合わせる単純作業は、その辺の右利きの方々でお好きにどうぞ」


踵を返し、足音も立てずに手術室の出口へと向かう氷花。


「ま、待て神代! 組織の輪を乱す気か! これだから左利きの変わり者は困るんだ! 君には医者としての心、情というものがないのか!?」


堂島の怒声が背中に浴びせられる。

自動ドアの前で氷花はピタリと足を止め、わずかに首だけを傾げて振り返った。

その口元が、ゾッとするほど美しく、狂気を孕んだ三日月形に歪む。


「情? そんな無駄なノイズがあるから、血管の一本も止められないんですよ。……お大事に」


プシューと音を立ててドアが閉まり、女外科医の白衣が夜の廊下の闇へと消えていった。

残された手術室には、完璧に修復された内臓の静かな拍動だけが、不気味なほど正確に続いていた。


◇◇◇


手術室を後にした氷花は、医局へ戻る気など端からなく、地下の薄暗い資料室へと足を向けた。


ここには、電子化されて久しい今では誰も見向きもしない古い医学書が、埃をかぶって眠っている。

スチール棚の最奥。氷花が手を伸ばしたのは、紺色の重厚な背表紙が並ぶ一角――かつて日本チバガイギーが発行した、フランク・H・ネッター博士の『医学図譜集』だった。


絶版となって久しいその大著を、氷花は**左手**一本で引き抜く。

ずしりと手首にかかる紙の重み。革張りの匂い。ページをめくれば、半世紀近く前のものとは思えない鮮烈な原色で描かれた、神技のような解剖イラストが目に飛び込んでくる。


(ふふ……やっぱり、これが一番落ち着く)


他の子どもたちがアンデルセンやグリム童話の絵本を胸に抱いて眠っていた頃、開業医だった祖父の書斎で、氷花の愛読書はこの図譜集だった。

赤く脈打つ動脈、静謐な青の静脈、鮮やかな黄色で枝分かれする神経網。

シンデレラのガラスの靴よりも、膵頭十二指腸動脈の複雑なアーケードのほうが、幼い氷花には遥かに美しく、神秘的なおとぎ話の迷宮に見えた。


毎日毎日、寝転がって眺め続けた色彩。

いつしか氷花の脳内には、皮膚の一枚下にある世界が、三次元の鮮明なパノラマとして常駐するようになっていた。


すれ違う医師や看護師の顔を見ても、彼女の目には表情など映らない。

皮膚の下を走る顔面動脈の拍動、頸動脈洞のカーブ、鎖骨の裏を潜り込む神経叢が、ネッター博士の描いた極彩色の立体模型のように透けて浮かび上がる。人間とは、骨と肉と血管で組み上げられた、精巧で静かなパズルに過ぎないのだ。


カツ、カツ、カツ――。


廊下に響く耳障りな足音が、静寂を破った。

血相を変えた堂島教授が、資料室の扉を乱暴に開け放つ。息を切らし、ネクタイを歪ませていた。


「神代! こんなところにいたのか! 大変だ……閉腹した議員の腹腔ドレーンから、再出血の兆候が出た!」


氷花は図譜集のページから目を離さず、左手の人差し指でパラリと紙を滑らせた。


「知っていますよ。あの位置、変異血管の副肝動脈が門脈の真裏を通っていたはずです。教授が閉じる際、右手で無理に引っ張った鉤が組織を擦過したんでしょう。雑ですね」


「なっ……! な、ならなぜそれをオペ中に言わなかった!?」

「言いましたよ。『単純作業はその辺の右利きの方々でお好きにどうぞ』と。ご自分の右手の限界を自覚できないのは、私の責任ではありません」

「ぐっ……! 頼む、もう一度開腹して止血してくれ! 君のあの左手のアプローチでなければ、あの裏側には届かない! 謝礼ならいくらでも積む、私の論文の筆頭著者にしてやってもいい!」


権威の仮面をかなぐり捨ててすがりつく堂島を、氷花は初めて正面から見据えた。

その瞳は、まるで標本瓶に浸けられたホルマリン漬けの臓器を見るように、透明で、冷え切っていた。


氷花はバサリと図譜集を閉じた。


「堂島教授」

「お、おう、引き受けてくれるのか!?」


氷花は口角をわずかに引き上げ、氷のような微笑を浮かべた。


「教授の保身のための再手術、ならびに名義貸しの共著論文。**――いたしません**」


「な、なんだと!? 患者が死ぬんだぞ! お前には医者の倫理がないのか!」


「倫理?」

氷花は首を傾げた。

その左手が、教授の胸元――ちょうど白衣のポケットあたりをトンと指先で突いた。


「ネッター博士の絵本には、どこにも『教授の出世のためにメスを握れ』なんて書いてありませんでした。私の頭の中のパノラマは、完璧で美しいんです。あなたの汚い欲で濁った術野になんて、私の左手は一ミリも入れたくありません」


氷花は図譜集を脇に抱えると、教授の横をすり抜けた。


「あ、でも……もし患者さんが本当に危なくなって、あなたが土下座して『右利きの無能でした』と全フロアに院内放送してくださるなら、考えてあげてもいいですよ」


「き、貴様ぁぁぁっ!」


背後で響く絶叫を聞き流しながら、氷花は夜の廊下を軽やかに歩いていく。

左手の指先を器用に動かし、ポケットの中で小さなチタン製の持針器をカチリと鳴らした。


彼女の頭の中には、いつだって美しく調和のとれた、完璧な人体のパノラマだけが広がっている。

そこには情も、涙も、忖度も、何ひとつ必要なかった。


◇◇◇


常夏の島、オアフ島。ワイキキの華やかな喧騒から遠く離れたハワイ大学マノア校の医学部キャンパスは、深い緑の山風に包まれていた。


地下にある広大な解剖実習室――。

漂うホルマリンとフェノールの独特の刺激臭。エアコンが強烈に効いた無機質な空間には、ステンレス製の解剖台が整然と何十台も並んでいる。


白いシーツをめくれば、そこに横たわる数々の献体(カダバー)。

皮膚は防腐処理によって硬化し、生前の肌色を失っているが、メスを入れれば筋膜の白い輝き、深部を走る大腿動脈、そして複雑に絡み合う腕神経叢が、驚くほど静かに、ありのままの姿をさらけ出していた。


外科医向けの臨床解剖セミナーに参加していた神代氷花は、**左手**に持った鋭利なピンセットで、慎重に結合組織を剥離していた。


周囲の若手医師たちは、その異様な光景とホルマリンの臭気に顔を青ざめさせ、時折ハンカチで口元を押さえている。中には耐えきれずに室外へ飛び出していく者すらいた。


だが、氷花の瞳は違った。

澄み切ったガラス玉のように、ただひたすらに静かだった。


(……ああ、やっぱり本物は綺麗)


幼い頃、チバガイギーの『医学図譜集』を擦り切れるほどめくり、頭の中に焼き付けたネッター博士の極彩色のパノラマ。

いま目の前にあるのは、紙の上の二次元ではなく、かつて誰かの喜びや悲しみを乗せて血を通わせていた、本物の立体の小宇宙だ。


胸腔を開いた瞬間、肺尖部に残る古い炎症の痕や、石灰化したリンパ節が顔を覗かせる。

膿の溜まった痕跡すら、生前のその肉体が懸命に病魔と戦い、生き抜いた精緻な記録として、静謐な美しさを放っていた。


「ヘイ、ドクター・カミシロ。君の左手の剥離スピード、尋常じゃないな」


指導教官である大柄なアメリカ人解剖学教授が、感嘆の声を漏らしながら近づいてきた。

右手用のハサミやピンセットを左手で難なく操り、神経一本すら傷つけずに最深部の血管を浮き彫りにしていく氷花の指先は、もはや解剖ではなく精密な彫刻のようだった。


「右利き用に固定された解剖手順なんて、ただの怠慢です。左からアプローチしたほうが、この胸管の走行は一目瞭然でしょう?」


氷花は感情の籠もらない平坦な声で返した。教授はおかしそうに肩を揺らし、「クレージーでワンダフルなレフティだ」と笑った。


セミナーが終わり、解剖台のシーツが再び静かに戻されていく。

冷たいステンレスの上に整然と眠る、名前も知らない異国の献体たち。

彼らは自らの死後、その肉体をすべて見知らぬ他者の刃の前に差し出し、未来の医療のために「沈黙の教師」となってここに横たわっているのだ。


生前、どんな人間だったのか。

何を愛し、何を憎んだのか。

そんな情緒的なことには、氷花はこれっぽっちも興味がなかった。

ただ――。


(死んで灰になって、狭い壺の中でただのカルシウムの塊になるなんて、あまりにも退屈で無駄すぎる)


氷花は、ゴム手袋を外した自分の**左手**をじっと見つめた。

白く、しなやかで、生きている人間の肉を正確に切り裂き、縫い合わせるために研ぎ澄まされた自分の指先。

皮膚を透かせば、その下には今も規則正しく拍動する橈骨動脈と、寸分の狂いもなく組み合わさった腱が走っている。


この体も、いつかは心臓が止まり、ただの冷たい肉塊になる。

その時、これを燃やして消してしまうなど、冒涜以外の何物でもない。


(私のこの左手の深層筋、変異血管、神経の分岐……全部、誰かに見せてあげたい。……ううん、解剖台の上で、私のパズルを誰かが解き明かそうとして頭を抱える姿が見たい)


日本に帰ったら、すぐに手続きをしよう。

医科大学に無条件で自らの遺体を提供する組織――**「白菊会」**。


死後、自分の肉体がホルマリンに浸され、解剖台の上に晒されることを想像して、氷花の薄い唇が、ゾクリとするほど艶やかに歪んだ。


「私の死体を開腹する人は、きっと苦労するでしょうね。……なにせ、右利きの教科書通りにはできていませんから」


冷え切った解剖教室を出ると、ハワイのまばゆい陽光が降り注いでいた。

南国の熱気の中、氷花は白衣のポケットに左手を突っ込み、どこまでも乾いた、軽やかな足取りで歩き出した。


◇◇◇


窓の外では、秋霖の冷たい雫がガラスを濡らしていた。

神代氷花は、ハワイから戻ったばかりの自室で、古びたチバガイギー版の図譜を机の端に押しやり、一通の書類に目を通していた。


帝王大学病院・消化器外科の懲戒免職処分通告書。

名目は「度重なる指示不服従、ならびに協調性の欠如」。記名欄には、あの堂島教授の震えるような達筆が並んでいる。

議員の術後出血の責任をすべて氷花になすりつけ、自らの過誤を隠蔽するための、あまりにも露骨で卑劣な立ち回りだった。さらに堂島は、医師会のあらゆるルートに手を回し、「あの女を雇うな」と悪評をばら撒いていた。


氷花を陥れ、医者としての未来を奪おうとする悪意。

世間一般の基準に照らせば、相手を法廷に引きずり出すか、あるいはその汚い手口を告発して社会的に破滅させる「復讐劇」が始まるところだろう。


だが、氷花の心は凪いでいた。

怒りも、恨みも、ましてや悔しさすらない。

復讐とは、相手の蒔いた毒を自ら飲み干し、相手と同じ濁った泥水に飛び込む行為だ。そんな非合理で脳のシナプスを無駄遣いする作業に、一秒たりとも費やす気は起きなかった。


「……愚かな人」


氷花は書類を無造作に折りたたみ、ゴミ箱へ放り込んだ。

彼女の視線は、机の中央に置かれた「白菊会」の献体登録用紙へと戻る。

人間が抱く面子や保身、他者を蹴落とそうとする浅ましい執着。それらの感情が、いかに血圧を上げ、冠動脈を狭窄させ、自らの肉体を内側から蝕んでいくか。堂島の浅黒い顔色と、オペ中に見せた指先の微細な震えを思い返せば、解剖学的な結論はとうに出ていた。


氷花は左手でペンを走らせ、白菊会の同意欄に署名した。

そして、ふと目を閉じ、静かに息を吸い込む。


彼女が胸の内で向けたのは、呪いではなく、透き通るような冷徹な祈りだった。


(神様――あるいはこの精緻な人体を創り上げた摂理よ。願わくは、あの哀れな堂島教授の心臓が、自らの毒と恐怖で破裂する前に、ほんの少しの知恵と平安を得られますように)


敵を憎むことは、相手の精神に支配されることだ。

だが、その哀れな魂のために祈り、自らの手で裁くことを手放すとき、人はもっとも自由で、誰にも侵されない高みに立つ。

復讐は神のもの。裁きは、神が作った人体の緻密な摂理が、いずれふさわしい時に下すだろう。氷花が手を下すまでもない。


二週間後。


氷花が非常勤の当直バイトを引き受けた郊外の救急センターに、ホットラインのけたたましいサイレンが鳴り響いた。


「救急搬送要請! 帝王大の堂島教授だ! 自宅で突然倒れた! 急性大動脈解離、スタンフォードA型! 心タンポナーデを併発している!」


ストレッチャーで運び込まれてきた堂島は、かつての傲慢な威厳など見る影もなく、蒼白を通り越して土気色になり、苦悶に顔を歪めていた。

閉じた瞼の隙間から、血走った目が恐怖に泳いでいる。

自分を失脚させようと躍起になり、連夜の根回しとストレスで血管を限界まで苛み続けた結果だった。


「……し、神代……」

酸素マスクの奥から、掠れた声が漏れる。

堂島は、かつて自分が無慈悲に切り捨て、泥を塗った女の顔を認識した。絶望の色がその瞳に走る。見捨てられる。ここで仕返しに殺されても文句は言えない――そう確信したように、身体を縮こまらせた。


だが、氷花の瞳には、冷笑も、報復の歓びもなかった。


「血圧測定。急速輸液、心嚢穿刺の準備を」


氷花の声は、秋の夜気のように澄み切っていた。

左手で手際よく手袋をはめ、滅菌された針を手に取る。


「ど、どうして……私を助ける……? 私は君を……破滅させようと……」


途切れ途切れに問う堂島を、氷花は静かに見下ろした。その眼差しは、神が創りたまいし複雑な人体の神秘をただ敬虔に見つめる、いつもの無機質で清らかな光を宿していた。


「飢えている敵にはパンを与え、病める者にはメスを振るう。……ただそれだけのことです」


氷花の左手が、迷いなく堂島の胸郭へと伸びた。

右利きの医師たちがおののく難解な角度から、寸分の狂いもなく、心嚢に溜まった暗赤色の血液を抜き去っていく。

急速に減圧され、心臓が再び力強い拍動を取り戻した。


「あなたの過ちと、私の医療は関係ありません。あなたがどう生き、どう変わるかは、あなたと神の問題です。私は私の仕事を、私の左手を全うするだけ」


氷花はトレイに注射器を置くと、呼吸を取り戻した堂島を見下ろし、小さく微笑んだ。

それは皮肉でも嘲笑でもなく、迷える哀れな被造物を見守るような、底知れぬ静謐さを湛えた微笑みだった。


「生きて、反省してください、堂島教授。あなたの心臓の解剖図は、まだ完全に破綻してはいませんから」


堂島の目から、ポロポロと涙がこぼれ落ち、胸のシーツを濡らした。

恨みと報復の連鎖を断ち切られた男の魂が、完膚なきまでに砕かれ、そして救われた瞬間だった。


手術室の自動ドアが開き、氷花は夜明けの光が差し込む廊下へと歩き出した。

右手は何も持たず、左手はポケットの中で静かに休んでいる。

空を見上げれば、雲の切れ間から、洗い清められたような朝の光が世界を柔らかく包み込んでいた。


◇◇◇


病院の通用口を出た氷花は、ひんやりとした朝の空気を深く吸い込んだ。


夜勤明けの気だるさを微塵も感じさせない足取りで、彼女はふと立ち止まる。

アスファルトの道沿い、色づき始めたハナミズキの枝先が、冷え込み始めた朝風にカサカサと小さく音を立てて揺れていた。


緑からくすんだ紅へとグラデーションを描く葉の影に、艶やかな楕円形の、小さな赤い実がいくつも実を結んでいる。


氷花は白衣のポケットから左手を引き抜くと、しなやかな指先でその一粒にそっと触れた。

指の腹に伝わる、硬く、冷たく、みずみずしい植物の皮膚の感触。


(……きれい)


彼女の頭の中に広がる解剖パノラマが、人体の枠を超えて、目の前の樹木へと静かに重なっていく。

土の底深くから吸い上げられた水が道管を昇り、光合成の恵みが師管を伝って隅々まで行き渡り、細胞がひとつずつ整然と分裂して結実した、生命の幾何学。


そこには怒りも、復讐も、手柄を奪い合おうとする浅ましさもない。

春に無垢な花を咲かせ、夏に青葉を茂らせ、秋が来れば文句ひとつ言わずに葉を落とす準備をし、次の生命を宿した赤い実を世界に差し出す。


ただ、与えられた命の軌道を寸分の狂いもなく巡っているだけ。


「神様が作ったパズルは、人間よりずっと素直ですね」


氷花は小さく呟き、ふっと唇を綻ばせた。

その笑みは、手術室で見せるあの凍りつくような嘲笑ではなく、秋の陽光に透ける朝露のように透明で、どこまでも無害なものだった。


背後から、救急センターの自動ドアが開き、小走りで追いかけてきた看護師が息を切らしながら呼び止める。


「か、神代先生! 堂島教授のご家族が到着されて……先生に直接、土下座してお礼を言いたいと……! それに、教授も意識が戻って、先生に謝罪したいとおっしゃっています!」


氷花はハナミズキの実から指を離すと、振り向きもせずに歩き出した。

左手を白衣のポケットに滑り込ませ、秋風に黒髪を揺らす。


「お礼も、謝罪も。――お受けいたしません」


さらりと風に乗ったその声には、冷たさすら残っていなかった。

ただ、不要な夾雑物をすべて削ぎ落とした研ぎ澄まされた刃のような、心地よい軽やかさだけがあった。


「私はただ、壊れかけたパズルのピースを元の位置に戻しただけです。……実が赤くなるのと同じように、当たり前のことをしたまでですから」


驚いて言葉を失う看護師を置き去りにして、氷花はどこまでも澄み切った秋空の下を歩いていく。


頭上では、赤い実を揺らすハナミズキが、何事もなかったかのように朝の光を浴びて輝いていた。





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― 新着の感想 ―
ブラックジャックと、私失敗しませんからっていう米倉涼子の女医 を思い出しました。 作者は医療も精通しているんですね。 どうせなら、大金を要求する主人公なら面白いと思いました(笑) 僕は左利きなんで、…
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