第九章 神崎の秘密
十二月になった。
路地の細い木は、すっかり葉を落としていた。枝だけになった木が、夜の空に向かって伸びている。沙耶はその木を見るたびに、枝だけになっても木は木だと思った。葉がなくても、幹があって、根がある。見えない部分で、ちゃんと地面と繋がっている。
そういうことを考えるのは、この仕事を始めてから増えた。
昼間に眠って、夕方に起きて、夜に歩いて店へ向かう。その道の間に、いろいろなことを考える。客のことを考えることもあるし、自分のことを考えることもある。子どもの頃の記憶を辿ることもある。ただ、辿れる範囲が狭かった。
沙耶の記憶は、十歳より前が薄かった。
病気がちだったせいかもしれない。薬を飲んでいた時期の記憶は、全体的に靄がかかったようで、輪郭がはっきりしない。何かがあったはずなのに、何があったのか分からない。そういう記憶が、子どもの頃にはたくさんあった。
今夜も、葉のない木の前を通って、店へ向かった。
神崎が来たのは、七時を少し回った頃だった。
先月が二度、今月に入ってからすでに一度来ていた。つまり今夜が、今月二度目だった。このペースで来続けているのは神崎だけだった。佐伯は常連だが、買うでも売るでもない。神崎は来るたびに同じものを買う。
コートを脱いで、カウンター席に座って、コーヒーを頼んだ。沙耶がそれを用意する間、神崎は窓の外を見ていた。十二月の夜の路地は、より暗く、より静かだった。
「今夜も、同じものを」
「はい」
沙耶はコーヒーをカウンターに置いた。神崎は受け取って、一口飲んだ。
「少し、お聞きしていいですか」
沙耶は話しかけた。
「どうぞ」
「先月から来てくださっていますが、毎回同じものを大量に買っています。守りたい人のため、とおっしゃっていましたね」
「はい」
「その量は、どのくらいになりますか?」
神崎は少し考えた。
「自分でも、正確には分からないです。でも、かなりになっていると思います」
「買い続けることに、終わりはありますか」
「あると思います」
「どういう意味ですか」
神崎はコーヒーカップを置いた。
「終わりが来た時に、分かることだと思っています」
また、今は言えない、という意味の答えだった。沙耶はそれを追わなかった。追っても今夜は答えが変わらないと、もう分かっていたから。
クロが現れて、取引が始まった。
今夜の神崎の購入量は、これまでで一番多かった。クロが値を示すと、神崎はそれを見て少しだけ眉を動かした。驚いた、というより、確認した、という感じだった。
「これだけ、ということですか」
「今回は、これだけになります」
「分かりました」
取引が終わった後、神崎はいつものようにカウンターに戻った。でも今夜は、少し様子が違った。コーヒーを飲まずに、カウンターの木目を見ていた。沙耶は声をかけるべきか迷って、声をかけた。
「コーヒー、冷めますよ」
神崎は顔を上げた。
「ああ、すみません」
「どうかしましたか」
神崎は少し間を置いた。今夜の間の置き方は、いつもより長かった。
「少し、考えていました」
「何を」
「終わりのことを」
沙耶は息をのんだ。
「終わりというのは」
「さっき聞かれましたね。買い続けることに終わりはあるかって」
神崎はコーヒーカップを手に取った。
「今夜の取引の量を見て、少し実感しました。終わりが近いかもしれない」
「それは……あなた自身の、ということですか」
「そうかもしれないです」
答え方が直接的ではなかったが、否定でもなかった。沙耶は何を聞けばいいか、どこまで聞いていいか、分からなかった。ただ、今夜は聞かなければいけない気がした。いつも聞けずに帰らせてしまう。今夜も同じにしていいのか。
「守りたい人のために、自分の何かを削っているんですか」
沙耶が尋ねると、神崎はカップを持ったまま、少し沙耶を見た。
「そう見えますか」
「見えます」
「正確には違います。削っているというより、使っている」
「使っている」
「自分にある何かを、誰かに渡すために使っている。削れるものは減っていくけれど、削っているという感覚はないです。渡せているという感覚の方が強い」
沙耶はその言葉をゆっくり聞いた。
削れるものは減っていく。でも削っている感覚はない。渡せているという感覚の方が強い。
「その人のことを、大切に思っているんですね」
沙耶は呟いた。
「思っています」
「その人は、今どんな状態ですか」
神崎は少し笑った。笑い方が、少しだけ違った。いつもは声に出して笑う。でも今夜は、静かに笑った。
「元気ですよ。多分」
「多分、というのは」
「会っていないので」
「会えない理由がありますか」
「会いに行けない、というか」
神崎は言葉を探した。
「会いに行くことが、今は正しくない気がしていて」
「なぜですか?」
「会えば、知られるかもしれないから」
「自分がやっていることを」
「はい」
そこへ、佐伯が来た。
今夜は早めだった。扉を開けて、神崎がいることを確認して、「今夜もおるな」と言った。
「毎回いますよ」
神崎は答えた。
「ほんまやな」
佐伯はいつもの席に座りながら、沙耶を見た。
「コーヒー頼む。今夜は冷えるから熱めで」
「はい」
沙耶がコーヒーを用意する間、佐伯と神崎が話した。
「今日は早いですね」
神崎が言った。
「客が少なかった。十二月は早い時間はそんなでもなくて、深夜になってから混む。忘年会の帰りとかで」
「そうですか」
「あんたはどんな仕事や」
「会社員です」
「前にも聞いたな。面白みがないって言うとった」
「そう言いましたね」
「でも毎月ここに来とるから、それなりに時間はある」
「仕事が忙しくないわけではないですが、これは来ると決めているので」
佐伯はコーヒーを受け取って、一口飲んだ。
「来ると決めている、か。そういう決め方、できる人間と出来ない人間がおるな」
「どういう意味ですか」
「何かを決めて、守れる人間というのは、少ない。たいていはその都度判断して、今日は忙しいからいいか、とか、今日は疲れたからいいか、とかになる。あんたはそうじゃないっていうことや」
「意識してはいないですが」
「意識せんでできるのが、本当にそういう人間やということやろ」
神崎は少し考えてから、頷いた。
「守りたいものがあると、続けられるのかもしれないです」
「守りたいもの、か」
佐伯はカップを置いた。
「前から気になっとったんやけど、あんた、守りたい人がいるって言うとったやろ」
「言いました」
「その人は知っとるんか。あんたがここで毎月こんなことしてること」
「知らないと思います」
「知らせたくないか」
「知らせることが正しいかどうか、分からないので」
佐伯はしばらく黙っていた。考えている沈黙だった。
やがて、こう伝える。
「俺には、子どもがおらんから分からんけど……誰かを守るって、大変なことやな」
「そうですね」
「守られとる方は、気楽でええな」
神崎は少し笑った。
「気楽でいてくれた方が、こっちも楽なので」
沙耶はその会話を聞きながら、帳簿を持ったまま動かなかった。
守られている方は気楽でいい。
その言葉が、ひっかかった。
誰かに守られているとして、その人は自分が守られていることを知らない。気楽でいる。でも守っている方は、こうして毎月ここに来て、自分の何かを削って、それを渡し続けている。
そういう構造が、世界のどこかにある。
この店に関係しているかどうかは別として、そういうことが実際にある。誰かの犠牲の上に、誰かが気楽に生きている。犠牲という言葉は強すぎるかもしれないが、他に言葉が見つからなかった。
沙耶は自分のことを考えた。
自分は、誰かに守られているだろうか。
両親は早くに亡くなった。親戚とはほとんど縁がなかった。この店に来る前の記憶は、薄くて曖昧で、誰かに守ってもらった記憶が特にない。ただ、生きてきた。それだけは確かだった。生きてきた理由が、自分の力だけだったのかどうか。
沙耶にはそれが、分からなかった。
佐伯が帰ったのは十時頃で、神崎はもう少し残っていた。
店に二人になってから、神崎が尋ねた。
「さっき聞かれたことを、もう少し答えてもいいですか」
沙耶は顔を上げた。
「守りたい人のことを」
「はい」
「答えられることだけ、答えます」
「はい」
神崎はカップを置いた。
「その人は、昔、死にかけたことがあります」
沙耶は動かなかった。
「事故でした。ずいぶん前のことです。でも、助かった」
「助かった」
「奇跡みたいな確率で。医者も首をかしげるような回復で」
「それが、守りたい人ですか」
「そうです」
「なぜ今でも守り続けているんですか。もう助かったなら」
神崎は少し間を置いた。
「助かった命は、ずっと続きます。一度助かれば終わりじゃなくて、その命が続く限り、ちゃんと続いてほしい。それだけです」
沙耶はその言葉を、ゆっくり聞いた。
助かった命は、ずっと続く。
「あなたは」
沙耶は言いかけて、止まった。
「どうぞ」
「あなたは、その人の事故に関係していますか?」
神崎は沙耶を見た。真っすぐな目だった。隠している目ではなかった。ただ、今夜はそこまでだ、と告げている目だった。
「今夜は、ここまでです」
「分かりました」
「でも、いつか話します」
「いつかと言うのは」
「あなたが、ちゃんと準備できた時に」
沙耶は、その言葉の意味が分からなかった。準備というのは、何の準備なのか。聞こうとしたが、神崎はすでにコートを手に取っていた。
「今夜もありがとうございました」
「こちらこそ」
「雨宮さん」
「はい」
神崎は少し立ち止まった。
「何か、自分の過去で分からないことがありませんか?」
沙耶は動かなかった。
「どうして、そんなことを」
「なんとなく、聞いてみたくて」
沙耶は少し考えた。分からないことが、あるかどうか。
「あります。子どもの頃の記憶が、薄い部分があって。何かあったはずなのに、思い出せないことが」
神崎は頷いた。
「そうですか」
それだけ言って、扉を開けた。十二月の冷えた空気が流れ込んで、また閉まった。
店に一人になってから、クロが出てきた。
沙耶は帳簿を閉じながら、クロを見た。
「神崎さんは、私の過去に関係していますか?」
クロは少し間を置いた。
「どうしてそう思いましたか」
「子どもの頃の記憶のことを、聞いてきたので」
「そうですか」
「答えて下さい」
クロは沙耶を見た。いつもより真剣な目をしていた。
「今夜は、答えられません」
「まだ、ですか」
「まだです。でも」
「でも」
「近いです」
近い。
いつかではなく、近い。その言葉は初めてだった。沙耶は息を吸った。
「何が近いんですか」
「あなたが知る日が、近い」
「何を知るんですか」
「自分の人生が、何で出来ているかを」
沙耶はその言葉の意味を、すぐには理解できなかった。自分の人生が何で出来ているか。それは哲学的な意味ではなく、具体的な何かを指しているように聞こえた。
「私の人生は」
沙耶は言いかけた。
「今夜は、ここまでです」
神崎と同じ言葉だった。
沙耶は窓の外を見た。十二月の夜は底冷えがして、路地の石畳が白く光っていた。霜が降り始めていた。葉のない木が、冷えた空気の中に細く立っていた。
自分の人生が、何で出来ているか。
その問いを、沙耶は今夜初めて、自分の問いとして受け取った気がした。今まではこの店の客の話だった。寿命を売った父の話、思い出を売った老人の話、未来を買い続ける神崎の話。どれも、他の人間の人生の話だった。
でも今夜から、少し違う。
自分の人生の話が、どこかで始まっている気がした。けれどその先を思い返そうとすると、そこだけ手を入れられない棚の奥みたいに、暗かった。
沙耶は鍵を手に取って、明かりを消した。
店は静かになった。十二月の夜の中に、小さな建物が、明かりを消して沈んでいった。路地には誰もいなかった。
ただ、葉のない木だけが、根を張ったまま、そこに立っていた。




