第八章 未来を買う男
十一月の半ばになると、路地の端に植わっている細い木が葉を落とし始めた。
沙耶は毎晩、その木の前を通って店へ向かう。最初に気づいたのは、一週間ほど前だった。緑だったはずの葉が黄色くなっていて、それから茶色くなって、今週に入ってからは地面に落ちる量が増えた。誰かが掃くわけでもなく、石畳の上に積まれていく。雨が降ると湿って、路地が少し滑りやすくなる。
沙耶は毎晩、その葉を踏んで店に来る。
音が好きだった。湿っていない夜は、歩くたびに乾いた音がする。自分が歩いているという感覚が、足の裏を通じてはっきり分かる。体が弱かった子どもの頃、外を歩くことが思うようにできない時期があった。だから今でも、歩いているという感覚を無駄にしたくなかった。
店の鍵を開けながら、沙耶はそんなことを考えていた。
今夜は何かある、という感覚が、また少しあった。
七時を過ぎて、最初に来たのは神崎だった。
先月と同じ時間に、同じコートを着て、同じカウンター席に座った。
沙耶がコーヒーをブラックで用意すると、「ありがとうございます」と言った。それも先月と同じだった。
「また来ましたね」
「言った通りに」
「同じものを買いに来ましたか」
「はい。今夜も三つ」
沙耶は帳簿を開いた。神崎正真、購入内容、寿命・未来の可能性・思い出。今夜で二度目になる。クロが来るまでの間、神崎はコーヒーを飲みながら窓の外を見ていた。落ち着いた横顔だった。焦りも迷いもない。ただここにいる、という佇まいだった。
「毎月来るつもりですか?」
沙耶は尋ねた。
「来られる間は」
「来られる間、というのは」
神崎は少し間を置いた。
「続けられるうちは、ということです」
沙耶はその答えをもう少し聞きたかったが、そこへクロが来た。神崎はクロを見て、軽く頷いた。クロも同じように頷いた。
その光景を見た瞬間、理由もなく胸の奥がざわついた。ほんの些細な仕草のはずなのに、見過ごしてはいけないもののように思えた。
初めて会う人間同士の挨拶ではなかった。何度か会ったことがある人間の、簡略化された挨拶だった。でも神崎が来たのは先月が初めてのはずだった。
沙耶は少し引っかかったが、今夜はそれを聞く機会がなかった。
神崎の取引が終わって、クロが奥に引いた後、八時半頃に次の客が来た。
三十代半ばの男だった。中肉中背で、ジャケットにジーンズという格好だった。特に目立つ所がない外見だったが、目だけが違った。何かを決めてきた人間の目だった。迷いを全部、来る前に置いてきたような目だった。
「いらっしゃいませ」
「ここで、未来を買えると聞いたんですが」
買う方の客が続いた。沙耶はそれを少し意外に思いながら、「はい」と答えた。
「座って下さい」
男は奥のテーブルに座った。神崎はカウンターでコーヒーの二杯目を飲んでいた。二人は特に会話しなかった。
クロが再び現れた。
男の名前は、村越健二といった。三十六歳。会社員。それをクロが確認すると、男はすぐに本題に入った。
「未来を買いたい」
「どんな未来ですか」
「もう一度、挑戦できる未来です」
クロは少し間を置いた。
「何に挑戦したいのですか」
「会社を辞めて、自分で店を開こうとしていました。三年前に。準備もしていたし、物件も決まっていた。でも直前で怖くなって、やめた。あの時踏み出せていたら、今どうなっていたか」
「それが、欲しい未来ですか」
「欲しいというか」
村越は少し言葉を選んだ。
「あの時、どうして踏み出せなかったのかを、もう一度やり直したい。踏み出せる自分に、なりたい」
クロは静かに聞いていた。
「もう一度挑戦したい、という気持ちそのものは、今もあるんですか」
「あります。でも今は、また同じように怖くなる気がして。踏み出せなかった癖が、もう自分の中に染みついてる気がして」
「それで、未来を買いに来た」
「変えられるなら、変えたい」
クロが値をつける時、沙耶はいつもカウンターの中から見ている。
白い紙に数字を書いて、客に見せる。それだけの動作なのに、毎回少し違う緊張感がある。今夜の村越は、紙を受け取って、数字を見て、少し眉を上げた。
「思ったより高いですね」
「未来は、値がつけにくいものです」
クロは言う。
「高い理由がありますか」
「踏み出せる未来を買うことと、踏み出すことは、別のことです。未来を買っても、行動するかどうかは、あなた次第になります。その不確かさが、値に出ます」
村越は紙をもう一度見た。
「未来を買っても、またやめるかもしれない、ということですか」
「可能性としては、あります」
「それでも、買えますか」
「売ることはできます」
村越はしばらく考えた。沙耶は村越の横顔を見ながら、未来の可能性を売っていった橘凌のことを思った。村越は逆に、未来を買おうとしている。売ることと買うことは、どちらが勇気のいることなのだろうと思った。答えは出なかった。
「分かりました。買います」
器が出てきた。
村越は右手を蓋に乗せた。数秒後、手を離した。
変化は、橘の時とも西田の時とも違った。
村越は少し背筋が伸びた。顔の力が変わった。緩んだのではなく、整った、という感じだった。来た時にあった「決めてきた目」が、少し別の色になった。覚悟というより、準備が整った、という色だった。
「何か変わりましたか?」
しばらくして沙耶は訊いた。
「なんか、軽い気がします」
「軽い」
「肩じゃなくて」
村越は少し考えた。
「頭の中が、軽いというか。ずっとあの判断を引きずってた気がしてたんですけど、それがないというか」
「それは、良かったです」
「でも……これで本当に動けるかは、正直まだ分からないです」
「クロさんも言っていましたね。行動するかどうかはあなた次第だと」
「そうですね」
村越はテーブルの上に両手を置いて、少し考えた。
「なんか、変な話ですよね。未来を買ったのに、自分で動かないと意味がない」
「変じゃないと思います」
沙耶は主張した。
「どうしてですか」
「未来って、もともとそういうものじゃないですか。あるかどうかじゃなくて、どう動くかで変わるもの。だから買っても保証にはならないし、動かないと意味がないのは当然で、それはこの店で買う前から同じだったと思います」
言ってから、また少し余計だったかもしれないと思った。でも村越は怒った様子もなく、むしろ少し笑った。
「そうですね。買う前から同じだった」
「すみません、余計なことを」
「いや、それが聞けて良かったです」
村越が帰ったのは、九時過ぎだった。
扉が閉まった後、神崎がカウンターでコーヒーカップを置いた。
「面白いことを言いましたね」
沙耶は少し驚いた。神崎は聞いていたのだろうが、そこまで聞こえていたとは思っていなかった。
「余計でしたか」
「余計じゃない。でも、この店の店員らしくない」
「店員らしくない、というのは」
「未来を買いに来た人に、買う前から同じだったと言うのは、この店を否定しているようで」神崎はそう言って、少し間を置いた。
「でも多分、正しいことだと思います」
沙耶は神崎を見た。
「神崎さんは、どう思いますか。買うことに意味はありますか?」
「あると思っています」
「でも保証ではない」
「保証を求めて買っているわけじゃないので」
神崎はカップを両手で包んで、少し遠くを見るような目をした。
「守りたいものがある時、できることを全部やりたい。それが届くかどうかは別として」
沙耶はその言葉を、少しの間、頭の中に置いた。
できることを全部やりたい。届くかどうかは別として。
それは、今夜の村越とは違う動機だった。村越は変わりたかった。神崎は届けたかった。同じく買う側の人間でも、買う理由がまるで違う。
「守りたい人は、この店のことを知っていますか?」
沙耶が尋ねると、神崎は少し考えた。
「知らないと思います」
「知られたくないですか?」
「知らせたくない、ということではないですが」
神崎は言葉を選んだ。
「知らせる意味がない、というか。知った所で、その人が何かできるわけではないので」
「でもあなたがやっていることを、知らないままでいる」
「そうですね」
沙耶はそれが、少し寂しいことだと思った。でも神崎は寂しそうではなかった。淡々としていた。淡々としていることが強さなのか、あるいは感じないようにしているのかは、沙耶には分からなかった。
九時半頃、佐伯が来た。
今夜は遅かった。扉を開けて、神崎がいることに気づいて、「また来とるな」と言った。
「また来ました」
神崎は答えた。
「今日も買うたんか」
「今日も」
「懲りんな」
「懲りないです」
佐伯は笑いながらいつもの席に座った。神崎との会話は、いつも妙にテンポが良かった。初めて会った夜からそうだった。互いに余計なことを言わない者同士が話すと、こういうテンポになるのかもしれない、と沙耶は思った。
「今夜は他に客は来たか」
佐伯が沙耶に訊いた。
「一人来ました。未来を買いに」
「買う方が続くな」
「そうですね」
「売る方と買う方、どっちが多い」
「圧倒的に売る方です。買いに来る人は、今月初めて見ました」
「この人が来てから変わったんか」
佐伯は神崎の方を見た。
「何か呼び込んどるんちゃうか」
「そういうことはないと思いますが……」
沙耶は主張する。
「どうかな。呼び込んでいるかもしれないですよ」
佐伯はそう反論した。
「どういう意味ですか?」
沙耶は尋ねる。
「この店が、何かの引力で動いているとしたら、来る人の種類も少しずつ変わることがある気がして。売る人が多ければ、買う人が来やすくなる、というか。需要と供給みたいなもんか」
佐伯は呟いた。
「そういうことかもしれません」
沙耶が言うと、佐伯はコーヒーを受け取りながら、少し考えた。
「でもそれやと、この店は仲介業みたいなもんやな。人生の」
「そうかもしれないですね」
神崎は言った。
沙耶はその会話を聞きながら、少し引っかかった。
仲介。売る人と買う人がいて、この店はその間に立っている。クロが値をつけて、器で受け渡しをして、帳簿に記録する。それだけのことを、三年間くらいやってきた。でも今まで、仲介という言葉を当てはめて考えたことがなかった。
売った人の人生は、どこへ行くのか。
買った人の手に渡るとすれば、神崎が買い続けている寿命や未来や思い出は、もともと誰かのものだったということになる。
神崎が帰ったのは十時を過ぎた頃で、佐伯はその少し後に帰った。
店に一人になって、沙耶は帳簿を閉じた。
クロが奥から出てきた。今夜は少し遅い登場だった。
「今夜は、どう思いましたか」
「村越さんのことを。未来を買っても、行動するかどうかは本人次第だと言いました。それは正しかったですか?」
「正しかったと思います」
「でも、そういうことを言うのは、この店の仕事じゃない気がして」
「仕事の範囲は、決まっていないです」
「決まっていない」
「売買の手続きをすることは、仕事です。でもそれだけが仕事だとは、私は思っていません」
沙耶はクロを見た。
「じゃあ、他に何が仕事なんですか」
クロは少し間を置いた。
「それは、あなたが決めることです」
またそういう答えだった。沙耶が自分で考えるように仕向ける言い方。でも今夜は、それが前より少し腑に落ちた。
この店の仕事を、私はまだ全部は知らない。
でも三年間ほど、毎晩ここに立っていて、少しずつ分かってきていることはある。客が売り買いするのは、人生の断片だ。でも本当に変わるのは、断片ではなく、その人がここに来たという事実そのものかもしれない。
「一つ、聞いてもいいですか?」
沙耶は尋ねた。
「どうぞ」
「神崎さんが買っているものは、誰が売ったものですか?」
クロは、今夜も少し長く黙った。
「今は、答えられません」
「まだ、ですか」
「まだ、です」
沙耶は窓の外を見た。十一月の夜は深く、路地の石畳に落ちた葉が、風でゆっくり動いていた。
神崎が買い続けている。寿命を、未来を、思い出を。守りたい人のために。その人が誰なのか、クロは知っているはずだった。でも今は言えない。
まだ。
その言葉が今夜も引っかかった。前回も同じ言葉だった。まだ答えられない。まだ、ということは、いつかは答えられる。あるいは、沙耶がいつか自分で気づく。
気づくために、何かが足りないのだろうと思った。
ただ、今夜の神崎の言葉だけが、まだ沙耶の中に残っていた。
できることを全部やりたい。届くかどうかは別として。
その言葉の重さを、沙耶はまだ測り切れていなかった。測れるようになった時、何かが分かる気がした。それがいつなのかは、分からなかった。
ただ、近づいている気はした。
それだけは、確かだった。




