第七章 思い出を取り戻したい少女
その日の午後、結衣はいつもより早く来た。
沙耶が店の掃除をしていると、裏口のノック音がした。開けると結衣が立っていた。ランドセルを背負っていなかった。手ぶらで、コートだけ着ていた。学校帰りではない時間だった。
「今日は早いね」
「学校、休んだ」
沙耶は少し驚いたが、顔に出さないようにした。
「どこか具合が悪い?」
「違う」
結衣は中に入って、いつものカウンターの端の椅子に座った。ランドセルがない分、小さく見えた。足をぶらぶらさせながら、カウンターの木目を指でなぞった。
「何かあったの?」
「べつに」
べつに、と言う時は大抵何かある。それは大人でも子どもでも同じだった。沙耶はそれ以上すぐに聞かず、お湯を沸かした。結衣はホットチョコレートが好きだった。牛乳を温めて、ミルクチョコレートを溶かしたもの。この店に置いてあるのは、いつの間にかそうなった。
カップを出すと、結衣は両手で包んだ。
「ありがとう」
「どういたしまして」
しばらく沈黙があった。沙耶はカウンターを挟んで向かい側に立ち、棚の埃を拭いた。急かさなかった。急かすと逆効果なことは、結衣を見ていて分かっていた。
しばらくして、結衣が打ち明けた。
「おばあちゃんが、死んだ」
沙耶は手を止めた。
「いつ?」
「三日前。病院で」
「そうか」
「わたし、おばあちゃんのこと、あんまり覚えてなくて」
結衣はカップを見ながら伝えた。視線が落ちていた。
「遠くに住んでたから、会ったのって小さい時で。でもお母さんが泣いてて、それ見てたら、わたしも悲しくなって」
「泣いた?」
「うん。でもなんかそれが、変な感じで」
結衣は眉をひそめた。
「おばあちゃんのことで泣いてるんじゃなくて、お母さんが悲しそうだから泣いてる気がして。そういうのって、ちゃんと悲しんでることになるのかなって」
沙耶は少し考えた。
「なると思う」
「ほんとに?」
「誰かの悲しみをもらって、自分も悲しくなる。それはちゃんとした悲しみだと思う」
結衣はしばらくカップを眺めていた。
「おばあちゃんのこと、もっと覚えてたら良かったな」
沙耶はその言葉を聞いて、西田のことを思った。思い出を売った人が、失ったことだけを感じて泣いていた。結衣は逆だった。思い出が少なくて、足りないと感じている。
多すぎても苦しく、少なすぎても苦しい。
思い出というものは、ちょうどいい量にならないものなのかもしれない、と沙耶は思った。
結衣が帰ったのは夕方の六時頃で、それから一時間後に店を開けた。
今夜は何となく重たい夜になる気がした。根拠はなかった。ただ、結衣の話を聞いた後の空気が、まだ店の中に残っている気がした。
七時半頃、扉が開いた。
入ってきたのは、若い女性だった。
二十代前半だろうか。背が低く、髪を後ろで一つに結んでいた。黒いダウンコートを着ていて、手袋をしていた。扉を開けてすぐに立ち止まり、店の中を見回した。初めて来た人間の目つきだったが、どこか違う色があった。緊張というより、覚悟のような色だった。
「いらっしゃいませ」
女性は沙耶を見た。
「ここって、本当に売り買いができる店、ですか」
「はい」
「思い出も」
「売ることはできます」
女性の目が、少し揺れた。
「買うことは、できますか」
沙耶は少し間を置いた。
「何を買いたいのですか」
「自分が売った思い出を、取り戻したい」
クロが現れるまでの間、沙耶は女性にお茶を出した。
女性は椅子に座って、手袋を外した。手が少し震えていた。寒さからか、緊張からか、あるいは両方か。
「以前、ここに来たことがあるんですか?」
沙耶は尋ねた。
「二年前です」
「思い出を、売ったんですね」
「はい。でも、後悔してます」
女性は手のひらを見ながら言った。
「売ったことは覚えてないはずなんですけど、なんか、ぽっかり空いてる感じがあって。何か大事なものがあったはずなのに、何なのか分からなくて」
沙耶はそれを聞いて、息が止まりそうになった。
失ったことだけが残る。
クロが言っていた言葉が、今夜また戻ってきた。この女性は、売ったことを覚えていない。でも失った感覚だけがある。だから取り戻しに来た。
クロが奥から出てきた。
女性はクロを見て、少し緊張した様子を見せた。それでも逃げなかった。
「お名前を聞いてもいいですか」
「高原、みずきです」
「高原さん。二年前にここで、思い出を売られた」
「はい」
「覚えていないのに、なぜ取り戻したいと思ったんですか」
みずきは少し間を置いた。
「夢を見るんです」
「夢を」
「眠ってる時に見る夢で、誰かと話しているんです。顔は見えなくて、声も聞こえないんですけど、楽しそうにしている自分がいて。目が覚めると、何も覚えていない。でも楽しかったという感覚だけが残ってて」
クロは静かに聞いていた。
「最初は普通の夢だと思ってたんですけど、同じ夢を何度も見て、これは夢じゃないんじゃないかと思って。でも何の思い出なのか、全然分からなくて」
「それで、ここに来た」
「この店のことを、どこかで聞いたことがあった気がして。でも記憶がはっきりしなくて、合ってるのかも分からなかったんですけど、来てみました」
クロはしばらく黙っていた。
沙耶はカウンターの中から、クロを見ていた。クロがこれほど長く黙ることは珍しかった。客の話を聞いてすぐに答えることが多い。今夜は違った。何かを考えているのか、あるいは言葉を選んでいるのか。
「高原さん」
クロはようやく言葉を出した。
「はい」
「一度売ったものは、戻らない」
みずきの顔が、かすかに歪んだ。
「それは、どんなものでも、ですか」
「どんなものでも」
「取り戻す方法は、何もないですか」
「ありません」
みずきはテーブルを見た。両手が、また少し震えていた。でも泣かなかった。覚悟を持ってきた人間の強さが、そこにあった。
「そう、ですか」
「申し訳ありません」
クロが謝るのを、沙耶は初めて聞いた。
謝るということは、クロにとっても今夜の答えは違う意味を持っているのかもしれない、と沙耶は思った。ルールだから仕方ない、という諦めではなく、本当に申し訳ないと思っている声だった。
「一つだけ聞いてもいいですか」
みずきは尋ねた。
「どうぞ」
「わたし、何を売ったんですか」
クロは少し間を置いた。
「誰かとの思い出、としか言えません。帳簿に残るのは種類だけです。どんな思い出だったかまでは書きません」
沙耶は帳簿を思った。日付、名前、売買内容。それだけを記録している。詳細は書かない。書く必要がないと思っていたが、今夜初めてそれを後悔した。
「誰か、か」
みずきはつぶやいた。
「その人のことを、思い出せないんですけど、いるんですよね、きっと。わたしが売ってしまった思い出の中に」
「いると思います」
「その人は、わたしがその思い出を売ったこと、知ってるんですかね」
クロは答えなかった。
沙耶も答えられなかった。
その人が誰であれ、思い出は二人のものだった。みずきが売った思い出は、みずきの中からは消えた。でも相手の人間の中には、まだあるかもしれない。相手はみずきとの思い出を持っていて、みずきはそれを持っていない。その非対称が、沙耶には静かに痛かった。
みずきはしばらく、席を立たなかった。
帰れない、というより、もう少しここにいたい、という雰囲気だった。沙耶はお茶を一杯足した。
「ありがとうございます。取り戻せないのは分かりました。でも、来て良かったです」
みずきの声が少し落ち着いていた。
「どうしてですか?」
沙耶は訊いた。
「ぽっかり空いてる感じの、理由が分かったから。何かを失ったんだって分かったから」
「それで楽になれますか?」
「楽にはならないですけど」
みずきはそう言って、少し考えてから伝える。
「理由が分からないままの方が、ずっと怖い気がして」
「何を売ったか、決める前にもっとよく考えれば良かったですか?」
沙耶は尋ねた。余計な質問だったかもしれないとも思った。でもみずきは答えてくれた。
「多分、あの時のわたしには必要だったんだと思います。売りたいほど辛かったんだと思うので。でも今は、辛くても持ってた方が良かったって思う」
「気持ちが変わったんですね」
「二年で、変わりました」
二年。二十代の二年は、長い。沙耶には、みずきが二年前に何を売ったのか分からない。でも、二年前に手放したかったものを、今は手放さなければ良かったと思っている。それだけで、何かが変わったことは分かる。
「夢は、これからも見ますか」
沙耶への問いではなく、独り言に近かった。
「見るかもしれません。その夢の中の人が、誰なのか分からなくても」
沙耶は答える。
「うん」
「でも楽しかった感覚は残るんでしょう。夢を見るたびに」
みずきは少し間を置いてから、頷いた。
「そうですね」
みずきが帰った後、沙耶はカウンターの内側に立って、帳簿を開いた。
今夜の記録をどう書けばいいか、少し迷った。取引は成立しなかった。売買はなかった。でも今夜、みずきはここに来た。それは記録しなければならないと思った。
来客。高原みずき。依頼内容、売却済み記憶の返還。対応、不可。
それだけを書いた。
クロが奥から出てきて、カウンターの前に立った。
「今夜、初めてルールに疑問を持ちました」
沙耶は打ち明けた。
「どんな疑問ですか」
「一度売ったら戻らない。それは、正しいルールですか」
クロは少し考えてから言った。
「正しいかどうかは、私には判断できません」
「でも、そのルールを守っている」
「守っています」
「なぜですか?」
「売り買いに可逆性があれば、この店は成立しません。一度売ったものが戻るなら、売る意味がなくなる。人は、取り戻せるという前提で手放す。それは本当の意味で手放すことにならない」
沙耶はその言葉を、ゆっくり理解しようとした。
「だから戻らないことに意味がある、ということですか?」
「そう思っています」
「でも、今夜の人は、戻らないと分かっていて来ました。それでも来た。その気持ちは、どこに行くんですか?」
クロは答えなかった。
今夜は答えなかった。珍しいことだった。クロはいつも、何かを言う。短くても、遠回しでも、何かを返す。でも今夜は沈黙だった。
沙耶はその沈黙を、無理に埋めようとしなかった。
窓の外は十一月の夜で、冷えた空気が窓ガラスを薄く曇らせていた。路地には誰もいなかった。みずきが帰っていった方向を、沙耶はしばらく見ていた。
あの人は今夜、取り戻せないと知った。
それでも、来た意味があったと言った。
理由が分かると、怖くなくなる。そう言った。
沙耶は自分のことを思った。自分が今ここにいる理由を、沙耶はまだ知らない。クロに拾われて、この店を任されて、三年が経った。理由が分からないまま、ここにいる。
みずきが言った言葉が、少し刺さっていた。
理由が分からないままの方が、ずっと怖い気がして。
怖いのかどうか、沙耶には分からなかった。怖いという感覚に、まだ慣れていないのかもしれなかった。ただ、知りたいとは思っていた。自分がなぜここにいるのか。自分がなぜ生きているのか。
その問いが、今夜は少しだけ輪郭を持って、沙耶の中にあった。
店を閉める前に、クロが一つだけ言った。
「今夜の疑問は、覚えておいて下さい」
「どういう意味ですか?」
「この先、必要になります」
それだけだった。
沙耶は鍵を手に取った。明かりを消しながら、今夜のことを頭の中で繰り返した。みずきが持っていた空白。取り戻せないと知りながらも来た理由。楽しかった感覚だけが残る夢。
そして、クロが珍しく沈黙したこと。
何かが、少しずつ動いている気がした。この店の時間が、ゆっくりと、でも確かに、何かの方向へ向いている気がした。
それが何なのかは、まだ分からない。
ただ、怖くはなかった。
今夜だけは、それだけで十分だと思った。




