第六章 人生を買う男
その人は、何かを手放しに来た顔ではなかった。
三十歳前後。落ち着いた顔立ちで、紺色のスーツをきちんと着ていた。髪は短く、乱れていなかった。疲れているようには見えなかったし、切羽詰まっているようにも見えなかった。この店に来る客の多くが持っている、追い詰められたような気配が、この男にはなかった。
「営業、始まりましたか」
声も落ち着いていた。
「はい、どうぞ」
男は会釈して、中に入った。どこに座るか迷う様子もなく、奥のテーブルではなく、カウンター席に座った。これも珍しかった。客はほとんどがテーブル席を選ぶ。クロと向き合うために。カウンター席を選ぶのは、佐伯くらいだった。
「何か飲みますか」
「コーヒーをもらえますか。ブラックで」
沙耶はコーヒーメーカーを動かしながら、男を観察した。直接見るのではなく、カウンターの磨かれた面に映る姿を見た。男はカウンターの上に両手を置いて、店の中をゆっくり見ていた。棚の空っぽな部分も、天井も、壁も。初めて来た人間の目つきだったが、怯えていなかった。
「初めてですか?」
「ここには、はい」
含みのある言い方だったが、沙耶はそれ以上聞かなかった。コーヒーをカップに注いで、カウンター越しに差し出した。男は受け取って、一口飲んだ。
「美味しいですね」
「豆にこだわっているわけではないんですが」
「そういうことじゃなくて」
男はカップを置いた。
「温度が、ちょうどいい」
沙耶は少し驚いた。温度を褒められたのは初めてだった。
クロが現れたのは、七時半頃だった。男はクロを見ても、特に表情を変えなかった。クロの方も、この男を見て何かを言うことはなかった。ただ、いつもと少しだけ違うことがあった。クロが奥の椅子に座る前に、一瞬だけ男を見た。何かを確認するような目だった。沙耶はその視線に気づいたが、意味は分からなかった。
「何か、ご用件は」
クロが尋ねた。
「買いたいものがあります」
クロは少し間を置いた。
「売る方ではなく」
「はい」
沙耶は手を止めた。
この店では、売ることと買うことの両方ができる。沙耶はそれをクロから聞いていた。ただ、この三年で買いに来た客は、一人もいなかった。売りに来る人間はいる。夢を諦めた青年も、寿命を手放した父も、思い出を売った老人も、皆が何かを手放しに来た。
買いに来た客は、初めてだった。
「何を、買いたいのですか」
クロが尋ねると、男はコーヒーカップを両手で包んで、少し考えてから答えた。
「寿命です。それから、未来の可能性と、思い出も」
沙耶はクロを見た。クロの表情は動かなかった。
「三つとも、ですか」
「三つとも」
「それは、ご自分のためですか」
男は少し間を置いた。間の取り方が自然だった。焦っていないし、隠しているわけでもない。ただ、どう言えばいいかを考えているような間だった。
「守りたい人がいます」
クロは頷いた。
「分かりました」
それだけで、クロは値の話を始めた。沙耶は帳簿を開きながら、男の横顔を見た。守りたい人がいる。それが誰なのか、沙耶には分からなかった。この店では、客の事情を深く聞くことはしない。ただ、気になった。
今夜初めて来た男が、なぜ三つも買うのか。
男の名前は、神崎正真だという。
神崎はカウンターに戻り、残っていたコーヒーを飲んだ。取引の前と後で、様子はほとんど変わっていなかった。売った側の客は何かが変わる。目が変わるか、肩の高さが変わるか、声の重さが変わるか。でも神崎は変わらなかった。もともと持っていたものを、手に入れた。それだけのことだから、変わるものが特にないのかもしれなかった。
「またいつでも、来て下さい」
クロは言った。
「はい。また来ます」
神崎は迷わず答えた。また来る、という言い方が、一度だけ来る客の言い方ではなかった。
クロが奥に引いた後、神崎はしばらくカウンター席に座っていた。帰る様子がなかった。沙耶はカウンターを挟んで向かい側に立ち、グラスを磨いた。
しばらく沈黙が続いた。
佐伯がいない夜だった。今夜は来ないかもしれない、と沙耶は思っていた。こういう夜は珍しくなかった。
「ここは、長く続いている店なんですか」
神崎が聞いた。
「私が来てから三年です。それより前のことは、よく知らないんです」
「店主代理、って聞きましたが」
「クロさんから、任されています」
「クロさんが、本当の店主ですか」
「そうだと思っています」
神崎は頷いた。それ以上クロのことは聞かなかった。聞かない理由があるのか、単純に興味がないのか、沙耶には分からなかった。
「守りたい人というのは……」
沙耶はそう言ってから、少し迷った。
「すみません、聞くことじゃなかった」
「いえ、聞いてもいいですよ」
「でも、答えたくなければ」
「答えられることと、答えられないことがあります」
神崎はコーヒーカップを置きながら伝えた。
「守りたい人がいる、というのは答えられます。それが誰かは、今は言えない」
「今は、ということは」
「いつか言えるかもしれない」
神崎は沙耶を見た。
真っすぐな目だった。何かを隠している人間の目ではなく、ただ、言える時期ではないということを知っている目だった。
沙耶はそれ以上聞かなかった。
九時を過ぎて、佐伯が来た。
扉を開けて、いつもの席に向かおうとして、カウンターに神崎がいることに気づいた。一瞬だけ足を止めて、それからいつものように窓際の席に座った。
「いらっしゃいませ」
沙耶は言う。
「今夜は先客がいるんやな」
佐伯は沙耶にだけ聞こえる声量だった。
「常連になるかもしれません」
「ほう」
佐伯はコーヒーを頼んだ。沙耶がそれを用意していると、神崎が佐伯の方を見た。
「常連さんですか」
神崎の声は自然だった。初対面の相手に話しかけることに、抵抗がない人間の声だった。
「まあそんなもんです。あんたは初めて?」
「今夜が初めてです」
「買うた? 売った?」
沙耶はコーヒーを持って佐伯の席へ向かいながら、少し緊張した。客の売買内容は、本人が話さない限り外に出さない。それも決まりだった。
しかし神崎は気にした様子がなかった。
「買いました」
この人は、この店の客ではない気がした。
「何を」
「寿命と、未来と、思い出を少し」
佐伯はコーヒーを受け取りながら、神崎を見た。
「三つも。高かったやろ」
「まあまあ」
佐伯は少し笑った。値段のことを聞いたのは冗談めかした調子だったが、神崎が正面から答えたので、佐伯も笑いながら返した。
「俺は売らへんよ。人生なんて」
「そうですか」
「売ったり買ったりするもんちゃう思てる」
「でも来るんですね、この店に」
佐伯は少し間を置いた。
「コーヒーが美味いから」
神崎は笑った。声に出して笑った。この店で笑い声を聞いたのは、沙耶には久しぶりのことだった。
沙耶もカウンターの中で、少し表情が緩んだ。
三人で、しばらく話した。
珍しい夜だった。この店では客同士が話すことは少ない。売りに来た客は内向きで、他の客に構う余裕がない。でも神崎は違った。買いに来た側の人間は、何かを手放す必要がないから、どこか余裕がある。
話題は、とりとめのないものだった。佐伯が夜のタクシーで見た景色の話をした。終電を逃した客が、遠回りをお願いしてきた話。どこにも行けなくて、とにかく走っていてくれと言った客の話。神崎はそれを聞いて、時々相槌を打った。興味本位ではなく、本当に聞いていた。
沙耶はカウンターの中から、その様子を見ていた。
神崎という人間のことが、少し分かった気がした。人の話をよく聞く。でも自分のことはあまり話さない。必要なことは答えるが、余分なことは言わない。それでいて、閉じている印象はない。開いているが、深い所には入れない。そういう人間だった。
「あんたは何の仕事してるんや」
佐伯が尋ねた。
「会社員です。特に面白みのない仕事を」
「そんなもんや。面白い仕事の方が少ない」
「佐伯さんは、タクシーは楽しいですか」
「楽しいとは違うな」
佐伯は少し考えてから伝えた。
「でも、やめたいとも思わん。いろんな人間を乗せるから、飽きない」
「人間に興味があるんですね」
「あるんかな。あるかもしれん」
佐伯はコーヒーを飲みながら、窓の外を見た。
「この店に来るのも、そういうことかもしれんな。売ったり買ったりする気はないけど、ここに来る人間を見てると、なんか、分かることがある気がして」
「何が分かりますか」
神崎は尋ねた。
「うまく言えんけど、人が何を大事にしとるか、かな。売ろうとするものとか、買おうとするものとか、そこに出る気がする」
沙耶は佐伯のその言葉を聞きながら、帳簿を眺めた。
夢を諦めた青年は、未来の可能性を売った。病気の娘を持つ父は、寿命を売った。妻を失った老人は、一番苦しい思い出を売った。そして今夜の神崎は、三つを買った。守りたい人のために。
何を大事にしているか。
確かに、そこに出る。
神崎が帰ったのは、十時を少し過ぎた頃だった。
コートを着ながら、沙耶に言った。
「また来ます」
「お待ちしています」
「同じものを、買いに来ると思います」
沙耶は少し驚いた。
「また、三つとも」
「おそらく」
神崎は会釈して、扉へ向かった。扉を開けかけて、少しだけ振り返った。
「そういえば」
「はい」
「店主代理の方のお名前を、聞いていなかった」
「雨宮沙耶です」
「神崎正真です。よろしくお願いします」
取引は終わっていた。それなのに、帰り際に改めてフルネームを名乗った。沙耶には、それが少し不思議だった。取引相手としてではなく、人として名前を交わしたような感じがした。
扉が閉まった。
佐伯がコーヒーカップを置いた。
「面白い男やったな」
「そうですね」
「買いに来るって、珍しいんやろ」
「初めてでした」
「何のために買うんやろな」
沙耶は神崎が言った言葉を繰り返した。
「守りたい人がいると、言っていました」
「守るために、他人の人生を買う」
佐伯は少し考えるような顔をした。
「それ、どういう仕組みなんや?」
「私にも分かりません」
「クロさんに聞いたら教えてくれるか」
「教えてくれないと思います」
佐伯は苦笑した。
「まあ、あの人はそういう感じやな」
沙耶は帳簿に記録した。神崎正真。購入内容、寿命・未来の可能性・思い出。受け渡し完了。それだけを書いた。でも書きながら、守りたい人、という言葉が頭から離れなかった。
それが誰なのか。
今は言えない、と神崎は言った。いつか言えるかもしれない、とも。
その「いつか」が来るとすれば、神崎はまたここに来る。同じものを買いに来ると言っていた。ならば、また会う。また話す機会がある。
沙耶は帳簿を閉じた。
クロが奥から出てきたのは、佐伯も帰った後だった。
沙耶一人になった店で、クロはいつものようにカウンターに立った。
「今夜の客は、どう思いましたか」
「また聞くんですね」
「毎週聞いています」
「そうですね」
沙耶は少し考えた。
「不思議な人だと思いました」
「どういう意味で」
「売りに来る人は、何かを抱えていて、それを手放したくて来る。でも神崎さんは違った。何かを抱えているのは同じかもしれないけれど、手放す方向じゃなくて、集める方向に動いている」
「それが不思議ですか」
「普通は逆だと思うので」
クロは少し間を置いた。
「守ることと、手放すことは、どちらが重いと思いますか」
沙耶はその問いを、しばらく転がした。
守るために何かを買う。それは自分のものを増やすことではなく、誰かのために持つということだ。誰かの分を肩代わりすることかもしれない。それは、手放すよりも重いかもしれない。手放せば軽くなる。でも守るために持ち続けるのは、軽くならない。
「守る方が、重いかもしれません」
「そうかもしれません」
クロは断言しなかった。
「クロさんは、神崎さんのことを知っていますか?」
クロは沙耶を見た。
「少し」
「少し、ということは」
「今はそれだけです」
またその答えだった。今は、という言葉。今は言えない。今はそれだけ。まだ答えられない。この店の時間は、沙耶にはゆっくり流れているように見えて、クロには違う速度で動いているのかもしれなかった。
沙耶は窓の外を見た。十一月の夜の路地は、冷たく静かだった。街灯の光だけが、変わらずそこにあった。神崎正真が歩いていった方向を、沙耶はなんとなく眺めた。
守りたい人がいる。その言葉の重さが、今夜はまだ、沙耶の中に残っていた。
その人が誰を守ろうとしているのか、私はまだ知らなかった。




