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夜だけ開く人生の店 ――寿命・未来・思い出、売買できます  作者: 明石竜


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第五章 売らなかった女性

 十一月になった。

 夜の空気が変わった。湿気が抜けて、乾いた冷たさが路地に満ちるようになった。沙耶は店に来る時、コートを一枚増やした。それだけで季節が変わったと分かる生活だった。昼間は眠っていて、夕方に起きて、夜に店へ向かう。太陽をほとんど見ない日々が続いていた。

それを不満に思ったことは、あまりなかった。

子どもの頃から、沙耶は日の当たる場所が少し苦手だった。明るすぎる場所では、自分の輪郭がはっきりしすぎる気がして、落ち着かなかった。夜の方が、自分がどこまでなのか曖昧になれて、楽だった。この店が夜だけ営業していることは、沙耶にとって最初から違和感がなかった。もしかしたら、クロが沙耶をここに置いた理由の一つだったのかもしれない。考えても分からないことなので、沙耶は考えるのをやめた。 


 十一月に入って最初の週、沙耶が店を開けると、空気がいつもより乾いていた。冬の手前の乾燥した空気で、息をすると喉の奥が少しひりついた。沙耶はカウンターに湯を沸かしながら、加湿器でも置いた方がいいかもしれないと思った。クロに言えば用意してくれるかどうか、少し考えて、やめた。この店に加湿器は似合わない気がした。

 理由はうまく言えないが、そう思った。

 七時半頃、扉が開いた。

 入ってきたのは、若い女性だった。

 二十代半ばだろうか。黒いダウンコートを着ていて、マフラーを首に巻いていた。髪は後ろで束ねていて、顔が出ていた。顔立ちは整っていたが、今夜はその顔に疲れが乗っていた。目の下が少し暗く、頬に張りがなかった。若いのに疲れている、という印象だった。

 それでも、背筋は伸びていた。

 崩れていなかった。疲れていても、姿勢だけは保っている。そういう人間がいる。意識してではなく、癖として保っている。教師か、あるいは人前に立つ仕事をしている人間の姿勢だと、沙耶は思った。

「いらっしゃいませ」

 女性は沙耶を見て、少し頷いた。

「ここで、寿命を売れると聞いたんですが」

 確認するような言い方だった。信じていないのではなく、合っているかどうかを確かめている声だった。

「はい。座ってください」


 クロが現れるまでの間、沙耶は女性にお茶を出した。

 女性は受け取って、「ありがとうございます」と言った。丁寧な言い方だった。疲れていても、礼儀が抜けない人間だった。

「お仕事は何をされていますか?」

「小学校の教師です。二年目で」

「そうですか」

「先生って言うと、みんな大変そうですねって言うんですよね」

女性は少し苦笑した。

「大変なんですけど、大変なのは最初から分かってたことで、だから大変さが理由じゃなくて」

「大変さが理由ではない」

「なんか、もっと根っこのところで、疲れてる気がして」

 沙耶は頷いた。それ以上聞かなかった。続きはクロが来てから、という感じがした。

 クロが現れたのは、八時頃だった。

 女性はクロを見て、少し身構えた。でも逃げなかった。来ると決めて来た人間の、踏みとどまる力があった。

「名前まで聞くんですか?」

 女性は少し驚いた様子で、クロを見た。

「確認が必要なので」

 クロは言う。

 女性の名前は、永橋葵といった。二十六歳。都内の小学校に勤めている。

葵はテーブルの上に両手を置いた。手が少し荒れていた。教師の手だと思った。毎日何かを書いて、何かを配って、子どもたちと接している手だった。

「寿命を売りたいんです」

 クロは頷いた。

「理由を、聞かせてもらえますか」

「仕事に疲れた、というのは本当のことですけど……」

葵は少し言葉を探している様子だった。

「それだけじゃなくて、なんか、人生に意味を感じなくなってきていて」

「意味を感じない」

「毎日、子どもたちと一緒にいるんです。三十人くらいの子どもたちと。その子たちはみんな、キラキラしてるんですよ。将来何になりたいとか、これが好きとか、あれをやってみたいとか。未来に向かって走ってる感じがあって」

 葵はそこで少し止まった。

「子どもたちには未来があるのに、私の未来はどこにあるんだろうって」

 その言葉が、店の中に静かに落ちた。

 沙耶はカウンターの中から、葵の横顔を見た。二十六歳。子どもたちの未来を毎日見ながら、自分の未来が見えなくなっている。それは矛盾しているようで、矛盾していない。近くにあるものが眩しいほど、自分が持っていないものが際立つ。

「何年売りますか」

クロが尋ねると、葵は少し間を置いた。

「……十年」

「十年ですね」

「はい。それだけ売れば、少し楽になれる気がして。今の重さが、少しなくなる気がして」


 クロが値を示す前に、葵が尋ねた。

「一つだけ、聞いていいですか」

「どうぞ」

「もし売ったら、その時間って、誰かが使うんですか?」

 クロは少し間を置いた。

「使われます」

「誰かが、ということですか」

「はい」

「知らない誰かが?」

「はい」

 葵はその言葉を受け取って、少し黙った。

 沙耶は葵を見ていた。何かが葵の中で動いている気がした。さっきまでの、売ると決めて来た顔が、少し変わっていた。何かを考えている顔になっていた。

 葵は両手をテーブルから離して、膝の上に置いた。

「じゃあ、やめます」

 クロは穏やかな声で尋ねた。

「理由を聞いていいですか」

 葵は少し考えてから、伝えた。

「私の時間を、誰かにあげるほど、私の人生は悪くない気がしてきた」

 店の中が、静かになった。

 葵は続けた。

「知らない誰かに渡るって聞いたら、なんか、それはちょっと違う気がして。自分が嫌になってたわけじゃなかったんだな、って気づいて」

「自分が嫌だったわけではなかった」

クロは言った。

「疲れてたんですよね、多分。疲れると、全部嫌になる。でも、全部を捨てたいわけじゃなかったみたいで」

 葵は少し笑った。今夜初めての笑いだった。自嘲でも、照れでもなく、自分で気づいたことへの、少し驚いたような笑いだった。

「それに、子どもたちに未来を大事にしろって言ってるのに、自分だけ捨てるのはちょっと格好悪いですね」

教室で笑っている子どもたちの顔を、葵は一瞬だけ思い出したようだった。

 沙耶はカウンターの中から聞いていた。

 格好悪い。

 その言葉が、他のどんな言葉よりも、葵らしかった気がした。深刻な理由でも、哲学的な気づきでもなく、格好悪い。でも、その言葉の中に、葵が教師である理由が全部入っている気がした。

 子どもたちの前で格好悪くいたくない。それは、子どもたちのことをちゃんと見ているから出てくる言葉だった。三十人の子どもたちの未来を、本当に大事だと思っているから、自分の未来を捨てることが格好悪く感じる。

 疲れていても、それだけは残っていた。

「帰ります。来て、少し話せて良かったです」

「そうですか」

クロは言った。

「売らなくても、ここに来ていいんですか」

「いいです」

「そうか」

葵は少し軽い声だった。来た時より、確かに軽かった。

「また来るかもしれません。コーヒーとか、ありますか」

「あります」

沙耶が答えた。

「じゃあ、今度はコーヒーを飲みに来ます」

 葵はマフラーを巻き直して、立ち上がった。椅子を少し戻してから、沙耶を見た。

「店員さんも、お疲れじゃないですか」

 沙耶は少し驚いた。

「私ですか?」

「なんか、少し疲れた顔をしてたから。余計なお世話ですね、すみません」

「いいえ、ありがとうございます」

「お互い、頑張りましょう」

 葵は軽く頭を下げて、扉へ向かった。


 扉が開いて、閉まった。

 十一月の乾いた空気が一瞬だけ流れ込んで、また静けさが戻った。

 沙耶はカウンターの中に立って、帳簿を開いた。今夜の記録をどう書くか、少し考えた。取引は成立しなかった。売買はなかった。でも、今夜葵はここに来た。それは確かなことだった。

 来客。永橋葵、二十六歳。依頼内容、寿命十年の売却。対応、取引不成立。本人の意思により、売却を撤回。

 それだけを書いた。

 書きながら、葵が言った言葉を繰り返した。

 私の時間を、誰かにあげるほど、私の人生は悪くない気がしてきた。

 人生は、売ることで軽くなることもある。あの父親は寿命を売って、娘のために軽くなった。あの青年は未来を売って、抱えていたものを手放した。でも今夜の葵は、売ろうとして、やめた。売らないことで、何かを守った。

 売ることで軽くなることもある。でも、売らないことで守られることもある。

 どちらが正しいとは言えなかった。どちらも、その人にとっての本物の選択だった。この店は、正しい選択を教える場所ではない。ただ、選択の場所に立ち会う場所だ。

 その人は、人生を持ったまま帰っていった。


 帳簿を閉じようとしたとき、扉が開いた。

冷たい空気が店の中に流れ込んだ。

 沙耶は顔を上げた。

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