第四章 思い出を売る老人
その日の夕方、女の子が店に来た。
営業前の時間だった。沙耶がカウンターを拭いていると、裏口の方からノック音がして、開けると小学生が立っていた。近所に住む女の子で、名前を結衣といった。十歳。ランドセルをまだ背負っていたから、学校の帰りに寄ったのだろう。
「こんにちは」
「こんにちは。結衣ちゃん、今日は早いね」
「掃除当番じゃなかったから」
結衣は裏口から中に入り、カウンターの一番端の椅子に座った。この子が初めてここに来たのは、去年の秋だった。店の外から明かりを見ていた、と言った。魔法屋みたいだから入ってみたかった、と。沙耶は営業前だったので断ろうとしたが、結衣があまりにも当然のような顔で入ってきたので、そのままにしてしまった。
それから時々、こうして来るようになった。
「クロさんは」
「まだ来てないよ」
「そっか」
結衣はランドセルを椅子の横に置いて、カウンターに両肘をついた。小さな手のひらで頬を支えて、店の中を見回す。この子はいつも、店の中を丁寧に見る。棚の空っぽな所も、テーブルの木目も、天井の染みも、全部を見る。
「ねえ、沙耶さん」
「何」
「今日、学校で先生が言ってた」
「何を」
「思い出って、なくならないって」
沙耶は手を止めた。
「どういう文脈で」
「ふんいき?」
「授業で、そういう話になったの?」
「道徳で。おじいちゃんが死んじゃった子の話で、先生が、思い出はずっと残るって言ってた」
沙耶はカウンターを拭く手を再開させた。
「そうだね」
と言いながら、今夜の客のことを思っていた。クロから聞いていた。今夜は予約のような形で、事前に連絡があった。七十二歳の老人が来る。思い出を売りたいと言っている、と。
予約は珍しかった。この店に来る客のほとんどは、ふらりと現れる。分岐点に立った人間の前に店が現れる、というのがこの店の性質らしかった。それが事前に分かること自体、少し変だと沙耶は思ったが、クロに尋ねると「たまにあります」とだけ言った。
「なくならないのかな」
「思い出が?」
「うん。先生はそう言ってたけど、わたし、なんか違う気がして」
「どうして」
「だってわたし、三歳の頃のことぜんぜん覚えてないもん。なくなってるじゃん」
沙耶は少し考えた。
「それは忘れているだけで、なくなったとは違うかもしれない」
「忘れてたら、おんなじじゃない?」
「同じかもしれないし、違うかもしれない」
結衣は不満そうに頬を膨らませた。大人はすぐそういうことを言う、という顔だった。沙耶は少し可笑しかったが、笑わなかった。
「難しい話をするね、結衣ちゃんは」
「だって気になるもん」
しばらくして、結衣は帰った。宿題があるから、と言って、ランドセルを背負い直した。扉を出る前に振り返って、「また来る」と言った。沙耶は「気をつけて帰ってね」と答えた。
店に一人になって、沙耶は結衣の問いをもう一度頭の中で転がした。
忘れていたら、なくなったのと同じか。
今夜の客が来る前に、その答えが少し変わるかもしれないと、沙耶はなんとなく思った。
老人が来たのは、夜九時を回った頃だった。
七十二歳には見えなかった。もう少し上に見えた。背筋は曲がり、杖をついていた。しかし目は澄んでいた。皺の中に、静かに光るものがあった。着ているのは古い紺色のジャケットで、きれいにアイロンがかかっていた。来る前に、ちゃんと身支度をしてきた人の服だった。
「いらっしゃいませ」
老人は沙耶を見て、少し目を細めた。
「若い店員さんじゃな」
「店主代理です」
「ほう」
老人は杖をつきながら、ゆっくりと奥のテーブルへ向かった。沙耶は先に椅子を引いた。老人は礼を言って、腰を下ろした。杖を椅子の横に立てかけて、テーブルの上に両手を置いた。節くれだった手だった。長く何かを続けてきた手だった。
「元教師でいらっしゃるんですね」
クロから聞いていた情報だったが、老人は驚かなかった。
「よく分かったのう」
「少し聞いていたもので」
「三十年以上やっとった。中学の国語じゃ」
老人は手のひらを見ながら言った。
「もうずいぶん前のことじゃが」
沙耶はお茶を用意した。老人の前に置くと、「ありがとう」と丁寧に言った。両手で湯呑みを持って、一口飲んだ。
「温かいのう」
「雨上がりで冷えているかと思って」
「気が利くのう」
老人は沙耶を見た。品定めするような目ではなく、ただ見た。
「あんたも、何か抱えとるような顔じゃな」
沙耶は少し驚いた。
「そうでしょうか」
「長く教師をやっとると、生徒の顔で大体わかるようになる。何か重たいものを持っとる顔というのがある。あんたはそういう顔じゃ」
沙耶は答えなかった。否定する気にもなれなかった。
その時、奥の扉が開いてクロが現れた。
老人の名前は、西田文雄と言った。
クロと向かい合って、西田は静かに話した。急がなかった。言葉を選びながら、しかし迷っているわけでもなく、ただ丁寧に話した。教師をしていた人間の話し方だった。
「妻が死んで、四年になる」
「奥様が」
「うん。長い病気じゃった。最後の二年は、ほとんど病院で過ごした。わしも毎日通った」
「それは」
「辛くはなかった。そばにいられたから。辛かったのは、その後じゃ」
西田は湯呑みを置いた。
「妻との思い出が、多すぎての」
クロは黙って聞いていた。
「若い頃から一緒にいたから、どこを向いても思い出がある。台所で料理をしていた姿とか、雨の日に縁側で本を読んでいた姿とか。そういうのがの、全部残っとる」
「それが、辛い」
「思い出すたびに、もうおらんということを確認させられる気がして」
西田は穏やかな声で伝えた。
「思い出は宝だと、わしも長く信じとった。教師として生徒にもそう言ってきた。でも今は、思い出があることで毎日苦しい。矛盾しとるかの」
「矛盾していないと思います」
クロは言う。
「そうか」
「宝であることと、重荷であることは、同時に成り立ちます」
西田は少し間を置いて、頷いた。
「わしは、妻との思い出を売りたい」
「全部ですか」
「全部は無理じゃろうと思うとる。だからの、一番苦しいものだけでいい。毎朝、目が覚めた時に真っ先に浮かぶ光景がある。それだけ売ってほしい」
「どんな光景ですか」
西田は少し目を細めた。
「妻が笑っている顔じゃ。台所の窓から朝日が差し込んでいて、妻が振り返って笑っている。何でもない朝の光景じゃが、なぜかそれが一番苦しい」
沙耶はカウンターの中で、帳簿を持ったまま動けなかった。
何でもない朝の光景。それが一番苦しい。沙耶には経験がなかったが、なぜそうなのかは分かる気がした。特別な場面ではないから、かえって消えない。日常の中にあったものだから、日常のたびに蘇る。
「承りました」
値段の話は短かった。西田はクロが示した数字を見て、「そんなもんか」と言った。高いとも安いとも言わなかった。ただ、そんなもんか、と。
「売ります」
西田が伝えると、器が出てきた。白い磁器。西田はそれを見て、「きれいなもんじゃな」と言った。それから右手を蓋に乗せた。
沙耶は見ていた。
西田の手が器に触れている数秒間、老人の顔が少し変わった。何かをたぐり寄せるような表情になった。目が遠くを見た。そして、また戻ってきた。
クロが頷いた。
西田は手を離した。しばらく、西田はそのまま座っていた。何かを待っているように見えた。あるいは、何かが変わったことを確かめているのかもしれなかった。
それから西田は、穏やかな声で言った。
「どうして涙が出るんじゃろう」
沙耶は息をのんだ。
西田は自分の頬に手を当てていた。涙が出ていることに、自分で気づいていなかったようだった。気づいてから、不思議そうに指先を見た。
「おかしいのう。何も悲しいことはないのに」
クロは何も言わなかった。
沙耶も言えなかった。
売ったのだから、西田はもうその光景を覚えていない。台所の窓から朝日が差し込んで、妻が振り返って笑っている、あの朝の光景を。でも体は、何かを失ったことを知っていた。覚えていないのに、失ったことだけが残っている。
それで涙が出ていた。
「おかしいのう」
西田はもう一度言った。今度は笑いながら言った。不思議なものを見る目をして、自分の涙を不思議がっていた。
西田が帰る前に、沙耶はもう一杯お茶を淹れた。
西田は受け取って、ゆっくりと飲んだ。急いでいる様子はなかった。帰りたくないのかもしれないし、ただゆっくりした性分なのかもしれなかった。
「あんたは、長くここで働いとるのか」
「三年くらいになります」
「若いのに」
「よく言われます」
「楽しいか」
沙耶は少し考えた。
「楽しいかどうかは、よく分からないです。でも、来てよかったと思っています」
「どうしてか聞いてもええか」
「他に行く所がなかったので。でも今は、ここにいる理由が少しずつ分かってきている気がして」
「ほう」
「気がしているだけかもしれませんが」
西田は頷いた。
「わしも教師を長くやって、最初は食うためだった。でも三十年続けたのは、やっぱり何かあったんじゃと思う。最初の理由と、続ける理由は違うものじゃ」
沙耶はその言葉を、胸の中でゆっくり繰り返した。最初の理由と、続ける理由は違う。
「先生をされていて、良かったと思いますか?」
「思うよ」
西田はすぐに答えた。
「妻に出会えたのも、教師をしとったからじゃ。同じ学校に勤めとった」
沙耶は黙った。
妻との思い出を売りに来た人が、妻との出会いを良かったと言っている。それは矛盾していなかった。苦しいから手放したくても、良かったという気持ちは残っている。思い出を売っても、そこから生まれた時間は消えない。
売れるのは、光景だけだ。
「一つ聞いていいですか?」
「なんじゃ」
「思い出を売って、楽になれると思いますか?」
西田は少し考えた。
「分からんのう。でもの、このまま持ち続けるのも違う気がして。宝を重荷にしたまま残りの時間を過ごすのは、妻に申し訳ないような気がしてのう」
「奥さんに」
「あの人はのぅ、わしに元気でいてほしかったじゃろうから」
沙耶は頷いた。それ以上は何も言えなかった。言う必要もないと思った。
西田は杖を手に取り、ゆっくりと立ち上がった。沙耶は椅子を引いた。
「ありがとうのう」
「お気をつけて」
「あんたも」
西田は沙耶を見た。
「その重たそうな顔、いつかは軽くなるといいのう」
沙耶は何も言えなかった。西田は笑って、杖をつきながら扉へ向かった。扉が開いて、夜の空気が一瞬流れ込んで、また閉まった。
店に静寂が戻った。
沙耶はしばらく、扉を見ていた。
今夜の記録を帳簿につけなければならなかった。西田文雄、七十二歳。売買内容、特定の記憶。受け渡し完了。それだけ書けばいい。でも手が、少しの間動かなかった。
結衣が今日言っていた言葉を思い出した。
忘れてたら、おんなじじゃない?
違う、と今なら言える気がした。忘れることと、なくなることは違う。西田は台所の朝の光景を忘れた。でも妻を愛していたことは、売っていない。妻に出会えて良かったという気持ちも、売っていない。涙が出たことも、消えない。
覚えていないのに、何かが残る。
それが何なのかを、沙耶はうまく言葉にできなかった。ただ、この店で起きることが、単純な売り買いではないことは分かった。何かを手放しても、全部はなくならない。あるいは、覚えていなくても、体がまだ知っている。
クロが奥から出てきた。
「今夜は、どう思いましたか」
初めて、クロが自分から問いかけてきた。いや、先週もそうだったか、と沙耶は思った。毎週聞かれている気がするが、毎週答えが違う。
「思い出を売っても、涙は売れないんですね」
「そうですね」
「体は覚えているんですか、売った後も」
「正確には、失ったことだけが、残ります」
沙耶はその言葉を繰り返した。
失ったことだけが残る。何を失ったかは分からない。でも失ったという感覚だけがある。それは残酷にも思えるし、あるいは、それがあることで人は何かを守っているのかもしれない。
「この店のルールを決めたのは、あなたですか?」
沙耶が尋ねると、クロは少し間を置いた。
「私ではないです」
「では誰が」
「それは、まだ答えられません」
まだ、という言葉が引っかかった。今は答えられない、ではなく、まだ答えられない。いつかは答えられる、ということか。あるいは、沙耶がいつかその答えにたどり着く、ということか。
沙耶は帳簿を閉じた。
窓の外は雨上がりの静けさで、路地の石畳が濡れて光っていた。街灯の明かりが水たまりに映って、揺れていた。
この店のことを、私はまだよく知らない。知るたびに、何かが重くなる。でも同時に、何かが少しずつ、形を持ってくる気がする。それが何なのかは、まだ分からない。
ただ、西田が帰り際に言った言葉だけが、静かに残っていた。
最初の理由と、続ける理由は、違うものじゃ。
私がここにいる理由は、まだ分からない。でもきっと、最初の理由とは違うものになっていく。そういう予感が、今夜だけは、確かにあった。




