第三章 寿命を売る父
雨が降り始めたのは、夜八時を過ぎた頃だった。
細い雨だった。音もほとんどなく、気づいたら窓ガラスが濡れていた。沙耶は店の入口に傘立てを出しながら、空を見上げた。雲が厚く、月も星も見えなかった。こういう夜は、客が来るような気がした。根拠はない。ただ、この三年ほどでそう感じることが何度かあった。
傘立てを置いて、店の中に戻った。
佐伯はまだ来ていなかった。クロも奥にいる。沙耶は一人でカウンターに立ち、湯を沸かした。今夜は何か温かいものを用意しておいた方がいい気がした。これも根拠のない感覚だったが、この店で働いていると、そういう感覚が少しずつ研ぎ澄まされていく気がした。
沙耶はそれが少し怖かった。
この店に染まっていくような感覚があった。それが良いことなのか悪いことなのか、誰にも聞けなかった。クロに聞けば何か答えるだろうが、クロの答えはいつも、沙耶に考えさせる形をしていた。答えを教えてくれたことは、一度もなかった。
八時半頃、扉が開いた。
入ってきた男は、濡れていた。
傘立てに気づかなかったのか、あるいは傘を持っていなかったのか。スーツの肩が雨に濡れ、靴も湿っていた。三十代後半に見えた。体格は普通で、顔立ちは平凡だったが、目だけが違った。眠れていない人間の目をしていた。奥の方が、乾ききっているような目だった。
「いらっしゃいませ」
男は沙耶を見て、一度だけ頷いた。
「ここが、その店ですか」
「はい」
男は入口近くに立ったまま、店の中を見回した。佐伯の定席には今夜まだ誰もいない。丸テーブルが二つ、静かに置かれている。棚には何もない。明かりは暖色で、外の暗さとは少し切り離された空間に見えるはずだった。
「座って下さい。濡れていますね。タオルを持ってきます」
「いや、大丈夫です」
「遠慮しないで下さい」
男は少し戸惑った顔をしたが、沙耶がすでにカウンターの下からタオルを出していたので、受け取った。肩を拭いながら、奥のテーブルに座った。
沙耶は温かいほうじ茶を淹れた。今夜、湯を沸かしておいて正解だった。
男の名前は、田中征一と言った。
三十八歳。工場勤務。沙耶がそれを聞いたのではなく、クロが現れた時に男が自分から名乗った。まるで診察室で医師に告げるような、事務的な口調だった。
「娘が、病気なんです」
田中は伝えた。クロと向かい合い、両手をテーブルの上に置いて、まっすぐ前を見ていた。
「どんな病気ですか」
クロは穏やかな声で尋ねた。
「難しい病名で、私には正確には言えないんですが。要するに、治療費がかかる。保険ではまかなえない部分があって、先生には一つ、手術の選択肢があると言われています。成功率は高くないが、やらないよりはいい、と」
「お子さんは今、何歳ですか」
「八歳です」
沙耶はカウンターの中から、それを聞いていた。
八歳、という言葉が静かに重かった。沙耶は帳簿を開いたまま、手が止まった。記録をしなければならないのに、今夜初めてペンが動かなかった。
「手術費用が足りない。親族には頭を下げました。銀行にも行きました。でも足りない。あと少し、足りない。どこで聞いたのか覚えていないんですが、この店のことを知って」
「足を運んでくださった」
「笑われると思ってました」
「笑いません」
クロの声は平坦だったが、否定の響きがなかった。田中の肩が、ほんの少し下がった。
「寿命を、売れると聞きました。本当ですか?」
「本当です」
「自分の寿命を売って、そのお金で娘の手術費用に充てられますか?」
「できます」
田中は一度、深く息を吸った。
「いくら売れますか?」
値のつけ方を、沙耶はまだ完全には理解していなかった。
クロが紙に数字を書く。その数字が何を根拠にしているのか、説明されたことがなかった。ただ、客がその数字を見て、納得する場合が多かった。反論することもあれば、驚くこともある。だがだいたいの場合、どこかで腑に落ちたような顔をした。
今夜、田中は紙を受け取って、少しの間それを見ていた。
「五年、ということですか」
「五年分の寿命で、ご希望の金額になります」
田中は計算するように視線を動かした。三十八歳から五年。四十三歳で寿命が尽きることになる。娘が今八歳なら、手術が成功したとして、彼女が十三歳になる頃には父親がいなくなる。
沙耶はそこまで考えて、考えるのをやめた。
自分が考えることではなかった。
「分かりました。売ります」
「よろしいですか」
「娘が生きていれば、それでいいです」
迷いのない声だった。迷いがないのが怖いとも言えたが、沙耶には、迷いがない理由が分かる気がした。この人はずっと迷ってきたのだろう、と思った。ここに来るまでの時間が、すでに答えを出しきった時間だったのだろうと。
クロが器を取り出した。
白い磁器の小さな器。いつも同じもののように見えるが、沙耶には確信がなかった。
「右手を」
田中は右手を器の蓋に乗せた。
数秒。
何も起きなかった。
ただ、田中の顔が少し変わった。目が、緩んだ。眠れていない人間の目が、少しだけ柔らかくなった。それは取引が終わった安堵なのか、何か別のものなのか、沙耶には分からなかった。
クロが頷いて、田中は手を離した。
その後のことを、沙耶はずっと忘れられないと思う。
田中はテーブルの上に両手を置いたまま、しばらくそこにいた。クロはいつものように奥に引いた。沙耶は何も言えないまま、カウンターの中に立っていた。
田中が口を開いたのは、五分ほど経ってからだった。
「そういえば……」
声が、少し違った。
さっきまでの声より、軽かった。重さが抜けたというより、何かを置いてきたような声だった。
「私、今日ここに来たんでしたっけ?」
沙耶は息をのんだ。
田中は首をかしげながら、店の中を見回した。不思議そうな顔だった。迷子のような顔、と言った方が近かった。
「なんか、急に眠くなってきて。すみません、仕事帰りに少し疲れが出たのかな」
「……はい」
沙耶はそれしか言えなかった。
田中は立ち上がって、タオルをカウンターに返した。
「お茶、ありがとうございました」
と言って、財布を出した。
「いいえ、お代はいただいていないので」
「そうでしたっけ。すみません、なんか、頭がぼうっとしていて」
田中は苦笑して、財布をしまった。そのまま扉の方へ歩きかけて、ふと振り返った。
「あの、一つだけ聞いていいですか」
「はい」
「私、なんでここに来たんでしょう?」
沙耶は答えられなかった。
田中は少し笑った。笑い方は穏やかで、怯えてはいなかった。ただ、自分でも理由が分からないことを、不思議がっているだけのような笑い方だった。
「まあ、いいか。雨宿りでもしてたんですかね。ありがとうございました」
扉が開いて、閉まった。
雨の音が一瞬だけ大きくなって、また静かになった。
しばらく、沙耶は動けなかった。
帳簿が開いたままだった。田中征一、三十八歳。売買内容、寿命五年分。受け渡し完了。記録は終わっていた。でも手が止まっていた。
クロが奥から出てきた。
「知っていましたか?」
沙耶は尋ねた。
「何をですか」
「忘れること。売った人が、売ったことを忘れるということ」
「ルールです」
クロはきっぱりと言った。
「教えてくれなかった」
「知る必要があると思いましたか」
沙耶はすぐに答えられなかった。必要があるかどうかより、知りたかった。知っていれば、もう少し違う顔で見送れたかもしれない。あるいは、何かを言えたかもしれない。そう思ったが、何を言えたというのかは分からなかった。
「田中さんは、娘さんを助けるために寿命を売って、そのことを覚えていない。娘さんが助かっても、なぜ自分がお金を持っているのか、なぜ体が弱くなっていくのか、分からないまま生きていく」
「そうです」
「それは、残酷じゃないですか?」
クロは少し間を置いた。
「残酷だと思いますか」
「思います」
「では、覚えていた方が良かったと思いますか」
沙耶は今度も、すぐに答えられなかった。
覚えていたら。田中は毎日、自分が五年を手放したことを思い出す。娘の顔を見るたびに、自分の残り時間を計算する。それは、別の意味での重さだった。忘れることで、彼は純粋に娘の回復を喜べるかもしれない。何も背負わずに、ただ父親でいられるかもしれない。
どちらが正しいのかは、分からなかった。
「分からないです」
「それで良いと思います」
クロはそれだけ言って、また奥に戻った。
十時を過ぎて、佐伯が来た。
いつもより少し遅かった。傘を傘立てに差しながら、「降ってきたな」と言った。
「少し前から」
沙耶は伝えた。
「客は来たか」
「一人」
佐伯はいつもの席に腰を下ろした。コーヒーを頼んで、沙耶がそれを用意する間、黙っていた。カップを受け取って、一口飲んで、窓の外の雨を見た。
「なんか、顔色悪いぞ」
「そうですか」
「売り買いの内容は聞かんけど、何かあったんか」
沙耶は少し迷った。客の情報を外に出すわけにはいかない。ただ、佐伯は読者のような人だと沙耶は思っていた。この店の外側にいながら、内側をある程度知っている。
「一つ、知らなかったことを知りました」
「この店のことで」
「はい」
「それが、しんどかったか」
「はい」
沙耶は正直に頷いた。
佐伯はコーヒーを飲んだ。すぐに言葉を返さなかった。それが佐伯のやり方で、沙耶はそれが嫌いではなかった。急いで慰めない。急いで解決しようとしない。ただ、そこにいる。
「まあ」
佐伯はしばらくしてから言った。
「知らんよりは知っとった方がええこともあるし、知らん方が良かったこともある。どっちかは、後になってみんと分からんな」
「そうですね」
「ただまあ」
佐伯はカップを置いた。
「知ってしまったことは、もう知らなかったことには戻れんから。あとはそれをどう持つかやな」
沙耶は頷いた。
窓の外では、雨が少し強くなっていた。路地の街灯が、水面に滲んで揺れていた。田中征一が今頃どこにいるのか、沙耶には分からなかった。雨の中を歩いているのか、もう家に帰り着いているのか。娘のそばにいるのか。
忘れたまま、父親でいるのか。
沙耶は帳簿をそっと閉じた。記録は終わっていた。でも今夜のことは、きっとしばらく頭の中に残るだろうと思った。この店のことを、私はまだよく知らない。知るたびに、少し重くなる。それでも明日の夜も、私はここに立っているだろう。
扉は、また誰かに開かれるから。




