第二章 未来を売る青年
男の名前は、橘 凌と言った。
二十五歳。職業欄には「アルバイト」と書くしかない生活を、もう三年続けているらしかった。クロが静かに問いかけ、男がぽつりぽつりと答えていく。沙耶はカウンターの中から、その様子をなるべく気配を消して見ていた。
直接見るのは、あまり良くない気がしていた。
理由はうまく言えない。ただ、この店に来る客たちは、見られることに慣れていない。人生の何かを手放しに来る人間が、堂々としているはずがなかった。だから沙耶はいつも、視線を少しずらして、それでも全部を聞いていた。
「音楽を、やっていたんですね」
クロの言い方は過去形だった。
橘は小さく頷いた。
「高校の頃から。ギターで、自分で曲も作って。バンドも組んでたんですけど、三年前に解散して。それからは一人で」
「一人で続けていた」
「続けてたというか。続けようとしてたというか……」
語尾が消えた。
沙耶はグラスを磨く手を止めないようにしながら、橘の横顔を見た。うつむきがちで、ギターケースをまだ膝に抱えている。手放せないのだろう、と思った。手放せないものを持ちながら、手放したいものを売りに来ている。
「才能がないと、分かったんです」
橘は伝えた。声は穏やかだったが、投げやりでもなかった。ただ、疲れていた。長い時間をかけて、ゆっくりと疲れ切ったような声だった。
「自分で分かったんですか」
クロは尋ねる。
「周りにも言われましたし、自分でも分かります。音楽って、好きなだけじゃ駄目なんですよね。好きな気持ちが強くても、それと才能は別の話で」
「なるほど」
「才能がある人は、努力の方向が違う。僕はずっと間違った方向に走り続けてた気がして。それに気づいたのが、去年くらいで」
クロは頷いた。相槌を打つだけで、余計なことは言わなかった。それがクロのやり方だった。客に語らせる。引き出すのではなく、ただそこにいる。沙耶も最初はそのやり方の意味が分からなかったが、今は少し理解できる気がした。
語ることで、人は整理する。来る前から決めていたとしても、声に出すことで初めて、自分が何をしようとしているか分かる。
「未来の可能性を、売りたい」
橘は改めて言った。
「ミュージシャンになれる未来の可能性です。もうそれを持ち続けるのが、しんどくて」
しんどい、という言葉が店の中に静かに落ちた。
佐伯がコーヒーカップをソーサーに置く音がした。窓際の席から、彼がこちらを見ているのが分かった。何も言わなかった。
クロが値をつける場面を、沙耶はまだ慣れた顔で見られない。
クロは白い紙を一枚、テーブルに置く。そこに数字を書く。何の単位なのか、沙耶には説明されなかった。ただ、客はその数字を見て、だいたいの場合は少し考えて、頷く。
今夜も、橘はその紙を見て、しばらく黙っていた。
「これが、僕の未来の可能性の値段ですか」
「現時点での、です」
「安いですね」
クロは答えなかった。
橘は笑った。自嘲でもなく、悲しんでいるわけでもない、奇妙な笑い方だった。
「分かりました。売ります」
沙耶は帳簿に記録した。日付。客の名前。売買の内容。受け渡しの時刻。それだけだ。何も判断しない。ただ記録する。それが沙耶の役割だった。
クロが何かを取り出した。小さな器だった。磁器のような質感で、蓋がついている。沙耶は三年間くらい、この器が棚のどこにあるのかを見つけられたことがなかった。クロが取り出すたびに、どこから来るのか分からなかった。
クロは器を橘の前に置いた。
「右手を、そこに触れて下さい」
橘は少し躊躇ってから、器の蓋に右手を乗せた。
何も起きなかった。音も、光も、煙も出なかった。ただ、橘が目を細めた。何かを感じたのかもしれない。あるいは何も感じなかったのかもしれない。数秒後、クロが頷いて、橘は手を離した。
「終わりですか」
「終わりです」
「思ったより、あっさりしてる」
「そういうものです」
橘はギターケースを床に置いた。さっきまで手放せなかったのに、今は自然に手が離れた。沙耶はその変化を見ていた。
しばらく、誰も何も言わなかった。
橘はテーブルの木目を指でなぞるように見ていた。クロは立ち上がり、奥の扉へと戻っていった。何か用がある時だけ現れて、用が済めば消える。それもいつものことだった。
沙耶は迷ってから、カウンターを出た。
「何か、飲みますか」
橘は顔を上げた。少し驚いたような顔をした。
「あ、はい。じゃあ、お茶か何か」
沙耶は緑茶を淹れて、テーブルに運んだ。それから、少し離れた椅子に腰を下ろした。座ったのは理由がある。立ったままでいると、いつでも離れられる位置にいるように見えてしまう。
橘は湯呑みを両手で包んだ。
「何か、変わりましたか?」
沙耶は尋ねた。
「変わったかどうか、分からないです……ただ、軽い気はします」
「軽い?」
「ずっと、肩のあたりに何か乗ってる感じがしてたんですよね。それがないというか」
「良かったです」
「良かった、って思っていいんですかね」
橘は少し困った顔をした。売ったことを後悔しているわけではなさそうだった。ただ、喜んでいいのかどうか、判断がつかないようだった。
「この店では、そういうことは決めていないので。売ったことがいいことかどうかは、私には分かりません」
「正直ですね」
「嘘をついても仕方がないので」
橘はそれを聞いて、少し笑った。さっきの奇妙な笑い方とは違う、少し柔らかい笑い方だった。
「これから、どうするんだろう」
橘は独り言のように言った。沙耶への問いかけではなかったと思う。ただ声に出た、という感じの言葉だった。
「音楽、好きだったんです。才能がないって分かってても、好きだって気持ちは売ってないんで、まだあるんですよね」
「それは売れるんですか?」
沙耶は思わず尋ねた。
「え」
「好きだという気持ちも、売れるのかと思って」
「売れるんですかね。さっき、それは売りたいとは言わなかったから」
沙耶は少し考えた。
「可能性がなくても、好きなことは続けられる気がします」
言ってから、少し余計だったかもしれないと思った。この店で、客に何かを勧める立場ではない。ただ沙耶は、橘の手がまだギターケースの側面にそっと触れているのを見ていた。置いた後も、離れていなかった。
橘は湯呑みを置いた。
「そうかもしれないですね」
断定ではなかった。でも否定でもなかった。
橘が帰ったのは、十時を少し過ぎた頃だった。
ギターケースを背負い直して、軽く頭を下げて、扉から出ていった。最後まで、何かを後悔しているような顔はしなかった。ただ、少しだけ疲れた顔が、来た時よりも和らいでいた。
沙耶は、扉の向こうを少しだけ長く見ていた。
扉が閉まった後、佐伯が口を開いた。
「ミュージシャン、か」
「ご存知でしたか」
「知らんけど。ギター持っとったから。あいつ、これから音楽やめるんかな」
佐伯は空になったコーヒーカップを見ながら言った。
「分かりません」
「未来の可能性を売ったんやろ」
「売ったのは、ミュージシャンになれる未来の可能性です。好きだという気持ちは、持って帰りました」
佐伯は少し考えた。
「それ、区別できるもんなんか」
「この店では、できるみたいです」
「ふうん」
佐伯はカップをカウンターに戻した。沙耶が受け取って、洗い場に置いた。
「しかし不思議な店やな」
「そうですね」
「三年いて、まだそう思うか」
「毎日思います」
佐伯は笑った。
沙耶も、少しだけ笑った。
その夜、最後の客は来なかった。
十二時を過ぎて、沙耶は帳簿を閉じた。橘凌、二十五歳。売買内容、未来の可能性。受け渡し完了。それだけが、今夜の記録だった。
クロが奥から出てきて、器を棚に戻した。どこに戻したのか、やはり沙耶には見えなかった。
「今夜の客は、どう思いましたか」
クロが珍しく聞いた。
沙耶は少し迷った。感想を求められることは、あまりなかった。
「穏やかな顔で帰りました」
「それだけですか」
「怖くなりました」
クロは沙耶を見た。
「この店が、という意味です。あの人は、確かに軽くなって帰っていきました。でも、彼が諦めようとしていたものを、この店が後押しした気がして」
「後押し」
「後押しが正しいのかどうか、私には分からない。ただ、少し怖かった」
クロは少し考えるような間を置いてから、言った。
「それが分かるうちは、あなたはここにいていい」
どういう意味か、沙耶にはよく分からなかった。
ただ、否定されなかったことで、少しだけ楽になった。
窓の外では、街灯が相変わらず滲むように光っていた。夜はまだ深く、路地には誰もいなかった。沙耶は鍵を手に取り、今夜もこの店のことをよく知らないまま、明かりを一つずつ消していった。




