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夜だけ開く人生の店 ――寿命・未来・思い出、売買できます  作者: 明石竜


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最終章 人生の価値

 四月の最終日、沙耶は昼間に路地へ来た。

 午後二時だった。こんな時間にこの路地を歩くのは、三年間で初めてだった。夕方に起きて夜に来る生活だったから、この路地の昼間の顔を、沙耶は知らなかった。

 来てみて、少し驚いた。

 同じ路地だった。石畳も、街灯も、細い木も、店の建物も、全部同じだった。でも光が違った。夜は街灯一つの光だったが、昼間は空全体から光が来ていた。影の向きが違う。石畳の色が違う。木の葉の緑が、夜に見るより明るかった。葉の一枚一枚が、光を通していた。

 夜に見てきた木が、昼間はこんな顔をしていた。

 店の建物を見た。昼間の店は、夜とは違って見えた。夜は明かりが灯っていて、それが路地の暗さの中で光っていた。でも昼間は明かりがなく、ただの古い小さな建物だった。表札もなく、看板もなく、どこにでもある路地の一角に見えた。

 これが、自分が三年間ほどいた場所の昼間の顔だった。

 沙耶はしばらく、そこに立っていた。

 今夜、最後の夜が来る。


 夕方に起きて、いつもより丁寧に身支度をした。

 理由は自分でもよく分からなかった。特別なことをしようと思っていたわけではなかった。ただ、手が丁寧に動いた。コートを着る時も、鍵を手に取る時も、いつもより少し時間をかけた。

 路地へ向かいながら、今夜のことを考えた。

 最後の夜にやることは、決まっていた。店を開けて、客が来れば対応する。来なければ、本を読む。夜が明ける頃、鍵を閉める。それだけだった。特別なことは何もなかった。

 でも、今夜だけは違う気がしていた。

 何かが起きる、という感覚があった。根拠はなかった。でも、この三年間で磨かれた感覚が、そう言っていた。

 路地の木の前で立ち止まった。

 昼間に見た葉が、今夜は夜の光を受けていた。昼間と同じ葉なのに、光の当たり方で全く違う顔をしている。同じものが、見方によって違う。それをこの木から学んだのも、今年のことだった。

 店の鍵を開けた。


 七時に店を開けた。

 今夜も、最初の一時間は誰も来なかった。沙耶はカウンターを拭いた。帳簿を整えた。棚の埃を取った。いつもと同じことをした。

 七時半頃、クロが出てきた。

「今夜で最後ですね」

「はい」

「何か、特別にしたいことはありますか」

「特別なことは、何もないです。ただ、いつも通りに過ごしたいです」

「分かりました」

 クロはカウンターの内側に立って、いつものように棚を整え始めた。今夜のクロは、多くを話さなかった。沙耶も多くを話さなかった。二人でいつもの夜と同じように過ごした。

 八時頃、扉が開いた。

 神崎だった。

「こんばんは」

「こんばんは」

 神崎はコーヒーを頼んで、カウンター席に座った。コートを脱がずに、沙耶が用意したコーヒーを受け取った。一口飲んで、「ちょうどいい温度です」と言った。

「今夜来ると思っていなかったです」

「最後の夜だと聞いていたので」

「クロさんから」

「はい。来た方がいいと思って」

 沙耶は少し笑った。

「ありがとうございます」

 神崎はコーヒーを飲みながら、窓の外を見た。四月の終わりの夜の路地を、静かに見ていた。

「顔色が、また良くなりましたね」

「春のおかげです」

「春はいい季節ですね」

「そうですね。始まりと終わりが一緒に来る季節だから、少し複雑ですが」

「複雑ですが、嫌いじゃないです」

「私もです」


 八時半頃、佐伯が来た。

 扉を開けて、神崎がいることを確認して、「揃っとるな」と言った。

「今夜は最後だと知っていましたか」

沙耶は尋ねた。

「知っとった。だから早く来た」

 佐伯はいつもの席に座って、コーヒーを頼んだ。今夜は普段より早い時間だった。早く来た、という言葉が、今夜の佐伯なりの言い方だと沙耶は思った。

「三人揃うのは珍しいな」

佐伯は言った。

「そうですね。あまりなかった」

 神崎は言う。

「あんた、最初に来たのはいつやったか」

「去年の十一月です」

「もう半年か。早いな」

「早かったです」

 佐伯はコーヒーを受け取って、一口飲んだ。

「俺はここに来て何年になるか、数えてないけど。まあ長い」

「佐伯さんは、これからもここに来ますか?」

沙耶は尋ねた。

「来るよ。コーヒーが美味い間はな」

「次の店主代理が、コーヒーを美味しく入れてくれるといいですね」

「まあ、お前ほどじゃないかもしれんけど」

「温度のことですか」

「温度のことや」

 神崎が少し笑った。佐伯も笑った。沙耶も笑った。今夜の笑いは、先月の最後の取引の夜の笑いとは少し違った。あの夜は、重いものが一段落したあとの軽さだった。今夜は、ただ、この場所と時間を一緒に楽しんでいる笑いだった。


 十時を過ぎた頃、客が来た。

 五十代の男性だった。落ち着いた服装で、静かな目をしていた。いつもの客と同じように、少し迷いながら扉を開けた。

 沙耶が案内して、クロが対応した。

 男性は、記憶の一部を売りたいと言った。仕事での失敗の記憶だった。持ち続けるのが辛い、しかし全部なくしたいわけでもない、一番辛い場面だけを手放したい、と言った。橘青年の時とも、西田老人の時とも違う依頼だった。でも、この店に来る人が持ってくるものの重さは、いつも同じだと沙耶は思った。重さの種類が違うだけで、重さそのものはいつも本物だった。

 取引が終わって、男性が帰った。

 沙耶は帳簿に記録した。この帳簿に書く最後の記録になった。男性の名前、売買の内容、受け渡しの完了。それだけを書いた。

 書き終えて、沙耶は帳簿をそっと閉じた。

 三年分の記録が、この帳簿にある。日付と名前と売買内容。それだけが並んでいる。でもその一行一行の後ろに、一人ずつの人間がいる。何かを手放した人間が、一人ずつ。

 この帳簿は、次の店主代理が使う。

 次の人も、同じように記録していく。日付と名前と売買内容。それだけを。


 十一時を過ぎて、佐伯が立ち上がった。

「そろそろ行くわ」

「ありがとうございました。三年間、来てくれて」

「礼を言われることでもないけどな。俺はコーヒーを飲みに来とっただけやから」

「それでも、ありがとうございます」

 佐伯はコートを着ながら、少し沙耶を見た。

「お前、変わったな、この三年で」

「変わりましたか?」

「来た頃は、なんか、ここにいる理由を探しとるような顔をしとった。今は、ここにいた理由が分かっとる顔をしとる」

「そうですね。分かりました」

「それでええんとちゃうか」

「そうだと思います」

 佐伯は扉へ向かいながら、振り返った。今夜は少し長く振り返っていた。

「次の仕事が決まったら、教えてくれ」

「はい」

「コーヒーを飲みに行く」

「その時、温度が合っているといいですが」

「合っとらんかったら、また文句を言う」

 佐伯は笑って、扉を出た。

 四月の夜の空気が入ってきて、また閉まった。


 神崎と二人になった。

 しばらく、何も言わなかった。神崎はコーヒーを飲んでいた。二杯目だった。沙耶はカウンターの中に立って、棚を見ていた。明日からは誰かが新しくここに立つ。その人が棚を使う。沙耶はもうここに立たない。

「一つ、聞いていいですか」

「どうぞ」

「離れることへの、不安はありますか」

 沙耶は少し考えた。

「あります。三年間くらい、夜だけ生きてきたから、昼間の世界がどういうものか、あまり覚えていない。これから昼間の世界に出ていくことへの、漠然とした怖さがあります」

「怖いのに、出ていく」

「怖いものに向き合える気がしてきたから、と前に言いました。それは今も変わっていないです。ただ、怖さそのものは、正直にあります」

 神崎は頷いた。

「怖さがあることは、正しいことだと思います」

「怖さが正しいのは、なぜですか」

「怖くないということは、まだ本当のことが分かっていないということかもしれないから。怖いということは、ちゃんと見えているということだから」

 沙耶はその言葉を、少し頭の中に置いた。

 怖いということは、ちゃんと見えている。

「それを聞いて、少し楽になりました」

「それは良かったです」

「神崎さんは、怖いと感じることがありますか」

 神崎は少し間を置いた。

「あります」

「どんな時に」

「何もできなかったことを、思い出す時に」

「事故のことですか」

「はい。あの時、間に合わなかったことを、今でも思い出すと、少し怖くなります。また間に合わなかったらどうしよう、という怖さが、今でもある」

「それが、買い続けることにつながっていたんですか?」

「一部は、そうかもしれないです」

 沙耶は少し考えた。

「間に合わなかったことを、ずっと気にしてくれていたんですね」

「気にするというより、忘れられない、という感じです」

「それは、優しさだと思います」

「優しさですか」

「忘れられないから、できることをしようとした。それは、優しさの形だと思います。間に合わなかったことへの後悔が、あなたを動かしてきた。その動かされ方が、優しさの形をしていた」

 神崎は少し間を置いた。

「そういう言い方は、してもらったことがなかったです」

「そうですか」

「自分では、後ろめたさから動いていると思っていたので」

「後ろめたさと優しさは、似ている気がします。どちらも、誰かのことが気になっているから、動く。動き方が同じなら、どちらから来ていても、届くものは届くと思います」


 十一時半を過ぎた頃、神崎が立ち上がった。

「そろそろ行きます」

「はい」

「最後に、と言うのは照れますが」

「言って下さい」

 神崎は少し笑った。

「この三年間、というよりも、この半年間、ありがとうございました」

「こちらこそ。来てくれなければ、何も分からないままでした」

「来て良かったです」

「来月も来て下さい。コーヒーを飲みに」

「来ます」

 神崎はコートを着た。扉に向かいながら、振り返った。

「一つだけ」

「はい」

「昼間の世界は、思ったより広いです」

「広い」

「夜だけ生きていると、世界が狭く見える。昼間は、世界が全部見えます。最初は眩しいかもしれないですが、慣れると、広さが好きになると思います」

「そうですね」

「私も最初は」

神崎はそう言って、少し止まった。

「私も最初は、昼間が得意じゃなかったです。でも今は、昼間の方が好きかもしれない」

「昼間の神崎さんは、どういう人ですか」

「同じ人間ですが」

神崎は少し笑った。

「少し、力が抜けているかもしれません。夜は少し構えてしまうので」

「では、昼間に会えるといいですね」

「いつかそういう機会があれば」

 扉が開いた。四月の夜の空気が、最後に入ってきた。神崎の背中が路地に見えて、角を曲がって消えた。


 店にクロと二人になった。

 今夜最後の時間だった。

 沙耶はカウンターの内側に立って、店の中を見回した。丸テーブルが二つ。椅子が四脚。棚には何もない。明かりは暖色で、窓の外は四月の夜だった。三年間ほど、毎晩見てきた光景だった。

「クロさん」

「はい」

「この店にいて、一番学んだことは何ですか、私は」

 クロは少し間を置いた。

「何だと思いますか」

「人生の価値のことだと思います」

「どういうことですか」

「人生の価値は、自分だけで決まるものではない、ということです。誰かが売って、誰かが買って、誰かが渡して、誰かが受け取って。そういうことが積み重なって、一人の人間の人生ができている」

「それが、この店で学んだことですか」

「でも、それだけではなかった気がします」

「どういう意味ですか」

「誰かの上に乗っているからといって、自分の人生の価値が誰かによって決まるわけではない、ということも学んだ気がします。受け取ったものは本物だけれど、受け取った自分の中で、それをどう生かすかは、自分が決めること。それが、人生の価値の、もう一つの側面だと思います」

 クロは少し間を置いてから、言った。

「この店を開いていた意味が、今夜分かりました」

「私が来たからですか?」

「あなたが来て、三年間ほどいて、今夜そう言って出ていくから、分かりました」

「クロさんにとっても、学ぶことがあったんですか?」

「あなたが学ぶことと、私が見ることは、同時に起きていました。この店は、客だけのためではなかったと、今夜確かに思います」


 沙耶は帳簿を手に取った。

 明日からはここに置いていく。次の人が使う。でも最後に、一度だけ開いた。

 最初のページから少しだけ見た。三年ほど前の日付から始まっている。最初の記録は、沙耶が初めて帳簿をつけた夜のものだった。日付と、客の名前と、売買の内容。それだけが並んでいる。

 一行一行の後ろに、一人ずつの人間がいる。

 何かを手放した人間が、一人ずつ。

 橘凌。田中征一。西田文雄。永橋葵。高原みずき。村越健二。神崎正真。名前のない女性。そして、今夜の男性。

 全員が、この帳簿に残っている。沙耶がここを離れても、帳簿の中には残る。

 沙耶は帳簿を閉じて、カウンターに置いた。

「行きます」

「はい」

「クロさん、三年間、ありがとうございました」

「ありがとうございました。あなたがいてくれて、良かったです」

 沙耶は少し間を置いた。

「この店は、これからどこへ行くんですか?」

「人生が必要な人の前に、現れます」

「今夜から、どこかへ移動するんですか?」

「明日には、別の場所に現れると思います」

「その場所で、また誰かが店主代理になるんですね」

「なると思います」

「その人にも、こういう時間があればいいですね」

「あると思います」


 沙耶は鍵を手に取った。

 今夜最後の、鍵を手に取る感覚だった。三年間くらい、毎晩この鍵を使ってきた。重さを覚えている。金属の冷たさも、形も、全部覚えている。

 明かりを一つずつ消した。

 消すたびに、店が少しずつ暗くなった。最後の明かりを消すと、店は窓から入る外の光だけになった。四月の夜の街灯の光が、窓から差し込んでいた。

 扉を開けた。

 四月の夜の空気が入ってきた。冷たさの底に温かさが混じった、今年の春の空気だった。

 沙耶は店の外に出た。

 振り返った。

 暗くなった店の建物が、路地に静かにあった。表札も看板もない、古い小さな建物だった。夜に明かりが消えると、昼間と同じ顔をしていた。どこにでもある路地の一角に見えた。

 でも、ここに三年間ほどいた。

 ここで、人が何かを手放す場面を見た。人が何かを守ろうとする場面を見た。自分の人生が何で出来ているかを知った。それは全部、この場所で起きた。

 鍵を閉めた。

 金属音が路地に響いて、静かになった。

 鍵はポケットに入れた。明日、クロに返すつもりだった。でも今夜は、まだ持っておきたかった。今夜だけは、まだ自分の手の中にあっていい気がした。


 路地の木の前で立ち止まった。

 四月の終わりの葉が、街灯の光を受けて光っていた。濃い緑だった。一枚一枚が自分の重さを持っていた。

 人生は、売り買いするものじゃない。

 でも誰かの人生で出来ている。

 母が手放したものの上に、神崎が渡してきたものの上に、この三年間で受け取ったものの上に、今夜の沙耶がある。それは消えない。ここを離れても、消えない。

 受け取ったものは、受け取った先に残る。

 クロが何度も言っていた言葉が、今夜は自分のこととして、体の芯まで届いた気がした。

 沙耶は空を見上げた。

 四月の夜空は、広かった。どこまでも続いていた。冬の夜空より明るく、春の空気を通して、星がいくつか見えた。

 昼間の路地の顔を、今日見た。

 明日からは、昼間の世界を歩く。太陽の光の中を、自分の足で歩く。怖いけれど、向き合える。怖いということは、ちゃんと見えているということだから。

 路地を歩き始めた。

 いつもと同じ道を、いつもとは違う気持ちで歩いた。

 角を曲がる前に、一度だけ振り返った。

 路地の奥に、暗くなった店の建物が見えた。木の葉が、風に揺れていた。街灯がひとつ、変わらずそこにあった。

 明日、この路地には店がなくなる。別の場所に現れる。そこで誰かが扉を開ける。何かを手放しに来た誰かが、夜の路地を歩いてくる。

 それは、沙耶には関係のないことになる。

 でも、どこかで続いている。この店が続いていることが、沙耶には分かっていた。

 角を曲がった。店が見えなくなった。

 四月の夜の中を、沙耶は歩いていった。

 冷たさと温かさが混じった空気を吸いながら、自分の足で、昼間の世界へ向かって、歩いていった。

 夜が、少しずつ明けていくような気がした。

 まだ夜だった。でも、どこかに、夜明けの気配があった。

 それだけで、十分だった。


 今夜もまた、誰かが扉を開ける。

                                       (完)

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