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夜だけ開く人生の店 ――寿命・未来・思い出、売買できます  作者: 明石竜


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第十七章 最後の客

 四月の最終週になった。

 今月末でここを離れると決めてから、沙耶は毎晩を少し違う目で過ごすようになった。カウンターを拭く時、帳簿を開く時、お茶を淹れる時。いつもと同じ動作なのに、最後に向かっているという感覚が、動作の一つひとつに少し重なった。

 重さは、悪いものではなかった。

 むしろ、丁寧になった。三年間ほどやってきたことを、もう一度ちゃんとやっている感じがした。毎日当たり前にやってきたことが、最後に向かうにつれて、当たり前ではなくなっていく。

 路地の木は、四月の終わりになってさらに葉を増やしていた。葉の重なりが深くなって、街灯の光を全部通さなくなっていた。木の下に、葉の影が落ちるようになっていた。

 今月末が最後の夜になる。

 今夜はその二日前だった。


 七時に店を開けた。

 今夜は、最初から何かが違う気がしていた。空気の質が違う、と言えばいいのか。いつもの夜の静けさとは少し違う、張りのある静けさだった。

 クロはまだ奥にいた。

 佐伯は、今夜は来ないかもしれないと沙耶は思っていた。なんとなく、今夜は佐伯のいない夜だという気がしていた。この三年で磨かれた感覚が、そう言っていた。

 七時半を過ぎた頃、扉が開いた。

 入ってきたのは、若い女性だった。

 二十代後半だろうか。落ち着いた服装で、コートを着ていた。春の夜にしては厚めのコートだった。髪は肩のあたりで切りそろえていて、目が静かだった。静かな目というのは、暗い目とは違う。何かをちゃんと見ている目だった。

 沙耶は最初に客の目を見る癖が、いつの間にかついていた。

「いらっしゃいませ」

 女性は沙耶を見た。少し間を置いてから、挨拶した。

「こんばんは」

 声も静かだった。落ち着いた声だった。初めてここに来る客の多くが持っている、緊張の色がなかった。

「座って下さい」

 沙耶が言うと、女性は奥のテーブルに座った。コートを脱がずに、テーブルの上に両手を置いた。

「何か飲まれますか」

「いいえ、大丈夫です」

 その時、クロが奥から出てきた。

 女性はクロを見た。クロも女性を見た。今夜のクロの目に、何か違うものがあった。沙耶は気づいたが、今夜はそれを確かめる余裕が先になかった。


 クロが女性と向き合って座った。

 沙耶はカウンターの内側から、いつものように見ていた。帳簿を開いた。今夜の日付を書いた。

「何をお求めですか」

 クロが尋ねると、女性は少し間を置いた。

「確認したいことがあって来ました。取引ではなく」

「どんな確認ですか」

「この店は、もうすぐなくなりますか」

 沙耶は手が止まった。

 クロは少し間を置いた。

「なくなる、というのは語弊があります。ただ、この場所からは移動します」

「移動する」

「はい。この場所での役割が、間もなく終わります」

 女性は頷いた。確認できた、という頷き方だった。

「それならよかった」

「よかった、というのは」

「この店が、ここに居続けると思っていたので。でも移動するなら、それは正しいことだと思って」

 クロは少し間を置いた。

「あなたは、この店のことを知っていたんですか」

「少しだけ。ここに関係のある人が、私の周りにいたので」

 沙耶はカウンターの中で、女性を見た。関係のある人が周りにいた。それはどういう人なのか。客として来た人なのか、あるいは別の何かなのか。

「一つ、聞いてもいいですか」

女性はクロに尋ねた。

「どうぞ」

「今夜、この店に来たのは、会いたい人がいたからです」

「誰に」

「この店の、店主代理の方に」


 沙耶は少し驚いた。

 女性が自分に会いに来た。クロではなく、自分に。

「私ですか」

沙耶はカウンターから声をかけた。

 女性は沙耶を見た。

「はい」

「どうして」

「お伝えしたいことがあって」

 沙耶はカウンターを出て、女性のテーブルに近づいた。クロが少し椅子をずらして、沙耶が座れる場所を作った。沙耶は女性の向かいに座った。

 近くで見ると、女性の顔に見覚えがある気がした。どこかで会ったことがあるのか、あるいはただそう感じているだけなのか、分からなかった。

「どなたですか?」

「名前は、今は言えないんですが」

「今は」

「はい。ただ、お伝えしたいことは、名前がなくても伝えられるので」

 沙耶は少し考えた。名前を言えない理由が何なのか、問い詰めようとは思わなかった。この店では、言えないことがある。それは当たり前のことだった。

「聞きます」

 女性はテーブルの上に置いた両手を、少し動かした。何かを整えるような動作だった。

「あなたは、もうすぐここを離れると聞きました」

「はい」

「離れることは、正しい選択だと思います」

「どうして、あなたにそれが分かるんですか」

「あなたのことを、少し知っているから」

「少し知っている、というのは」

「あなたがどういう人生を送ってきたか、どういう選択をしてきたか。それを、遠くから見ていた人間が、私の周りにいたので」

 沙耶は少し間を置いた。

「神崎さんですか」

 女性は否定しなかった。否定もしなかったが、肯定もしなかった。ただ、少し目が動いた。


 女性は続けた。

「あなたに伝えたいのは、一つのことです」

「はい」

「あなたは、自分の人生が誰かの上に乗っていることを、知っていますね」

「知っています」

「それを知った上で、自分の人生を生きようとしている」

「はい」

「それは、正しいことだと思います。でも」

「でも」

 女性は少し間を置いた。

「知っていることと、信じることは、違います」

 沙耶は女性を見た。

「知っていることと、信じること」

「あなたは、自分の人生が誰かの上に乗っていると知っています。でも、自分の人生を信じているかどうかは、まだ分からない。知っているだけでは、まだ半分です」

「どういう意味ですか」

「誰かが渡してくれたものの上に乗っているから、自分の人生は価値がある。そう知ることはできます。でも、渡してくれた人がいなくても、あなた自身の人生には価値がある。そこまで信じられているかどうか」

 沙耶は少し黙った。

 渡してくれた人がいなくても、自分の人生には価値がある。

 そこまで、信じられているか。

「まだ、できていないかもしれません」

「正直に言ってくれてありがとうございます」

「でも、どうすれば信じられるようになりますか」

「それは、時間がかかることだと思います。この店を出て、自分の足で歩いて、転んで、また立って。そういう時間を積み重ねて、少しずつ信じられるようになる。誰かが教えてくれるものではないです」

「そうですね」

「ただ、一つだけ、覚えておいてほしいことがあります」

「はい」

「あなたがどこで何をしていても、誰かがあなたのことを思っています。知らない場所から、思っている人がいます」

 沙耶はその言葉を聞いた。

 知らない場所から、思っている。

 神崎が二十年ほど、知らない場所からそうしていた。沙耶が知らない間、ずっとそうしていた。今この女性が言っていることは、そういうことの延長にある気がした。

「あなたは、どういう人ですか?」

 沙耶が尋ねると、女性は少し笑った。今夜初めて、笑った。

「言えないことが多くて、すみません」

「言えないことがあっても、来てくれたことには理由があるんですよね」

「はい」

「その理由だけ、聞かせてもらえますか」


 女性は少し間を置いた。

 窓の外の路地に、四月の風が通っていた。葉の揺れる音が、かすかに聞こえた。

「あなたのことを、ちゃんと送り出したかったから、来ました」

「送り出す、というのは」

「この店を出ることへの、見送りです。正式に見送れる立場ではないですが、誰かに見送られた方がいいと思って」

 沙耶は少し間を置いた。

「誰かに見送られた方がいい、と思ってくれたんですね」

「はい」

「ありがとうございます」

 女性は頷いた。

「一つだけ、私からも聞いていいですか?」

「どうぞ」

「あなたは、この店に来たことが、初めてですか」

 女性は少し間を置いた。

「初めてです。でも、ここのことは知っていました」

「知っていた」

「大切な人が、長くお世話になった場所なので」

 大切な人が、長くお世話になった場所。

 沙耶は女性の顔を、もう一度見た。静かな目。落ち着いた声。初めて来たはずなのに、どこかで見たことがある気がする感覚。

 何かが、頭の中で動いた。

 でも今夜は、それを確かめなかった。確かめる必要がない気がした。今夜は、この女性が言ったことを受け取るだけでいい。


 八時を過ぎて、女性は立ち上がった。

「もう行きます」

「もう少しいてもいいですよ」

「いいえ。言いたかったことは言えたので」

 コートを整えながら、女性は沙耶を見た。

「最後に一つ」

「はい」

「この店を出た後、春の昼間を歩いてみて下さい」

「昼間を」

「この路地を、昼間に通ってみて下さい。夜とは違う顔をしていると思います。あなたが知らなかった、この場所の顔です」

 沙耶は少し驚いた。

「なぜそれを」

「夜だけいた場所の、昼間の顔を知ることは、大事だと思うので」

 沙耶は頷いた。

「そうします」

 女性は扉に向かった。扉を開ける前に、クロに向かって少し頭を下げた。クロも頷く。二人の間に、言葉がなかったが、何かが通った。

「ありがとうございました」

誰に向けているのか、はっきりしない言い方だった。店全体に向けているような言い方だった。

 扉が開いた。四月の夜の空気が入ってきた。

 そして閉まった。


 店に沙耶とクロだけになった。

 しばらく、二人とも何も言わなかった。

「クロさん」

「はい」

「あの人は、誰ですか?」

 クロは少し間を置いた。

「今夜は、答えられません」

 沙耶は少し苦笑した。

「まだ、答えられないことがあるんですね」

「答えられないのではなく、今夜は、あなたが受け取ることの方が大切なので、答えない方がいいと思っています」

「受け取ること」

「あの方が伝えてくれたことを、あなたの中に置いておく時間が、まず必要です。答えが出れば、それを考える方向に気が向いてしまうので」

「そういうものですか」

「そういうものです」

 沙耶は少し考えた。

「一つだけ、聞かせて下さい」

「どうぞ」

「あの人は、また来ますか」

 クロは少し間を置いた。

「分かりません。でも」

「でも」

「今夜、来た意味はあったと思います。あなたにとっても、あの方にとっても」


誰なのかは分からない。

ただ、神崎の人生が、私だけで出来ているわけではないことは分かった。


 九時を過ぎて、佐伯が来た。

 今夜は来ないかもしれないと思っていたが、来た。扉を開けて、店の中を一度見回して、沙耶だけがいることを確認した。

「今夜は静かやな」

「少し前まで、客がいました」

「どんな客や」

「不思議な客でした」

「この店には、不思議な客しか来ないやろ」

「そうですね。でも今夜は、少し特別な感じがしました」

 沙耶は笑った。

「どう特別やったんや」

「見送りに来てくれた、という感じで」

 佐伯はコーヒーを受け取りながら、沙耶を見た。

「あと二日か」

「はい」

「早いな」

「早いですね」

「寂しいか」

 沙耶は少し考えた。

「寂しくないとは言えないですが、それより、次が楽しみな気持ちの方が大きいです」

「それでええな」

「佐伯さんは、寂しいですか?」

 佐伯は少し間を置いてから、「まあな」と言った。

「でも俺はまだここに来るし、次の店主代理もここにいる。ただ、お前がいなくなるのは、少し違う感じがする」

「どう違う感じですか?」

「三年間、ここに来るたびにお前がいた。それが当たり前になっとった。当たり前がなくなるのは、何でも少し寂しいもんや」

「そうですね。私も、佐伯さんがここに来ることが当たり前になっていました。それはなくならないですよね、私がいなくなっても」

「ここに来ることはなくならんよ。コーヒーが飲める間はな」

「それで十分です」

 佐伯はコーヒーを飲んだ。今夜は少しゆっくり飲んでいた。いつもより時間をかけて飲んでいた。急いで帰ろうとしていなかった。


 十時過ぎに佐伯が帰った。

 帰り際に、「次の店にも来てやるよ」と言った。

沙耶が「次の店、というのは」と聞くと、「お前が働く次の場所や」と言った。

「どこに行くか、まだ決まっていないですよ」

「決まったら教えろ。コーヒーを飲みに行く」

「コーヒーがあるかどうか分かりませんが」

「あれば飲む。なければ別の何かを飲む」

 そう言って、佐伯は扉を出た。

 沙耶は少し笑った。

 佐伯がいなくなってから、クロと二人でしばらく過ごした。今夜は特別な話はなかった。沙耶がカウンターを拭いて、クロが棚を整えた。いつもと同じ時間だった。

「今夜の客のことを、少し考えました」

「どんなことを」

「あの人が言っていた言葉です。知っていることと、信じることは違う、と」

「はい」

「私は、自分の人生が誰かの上に乗っていると知っています。でも、渡してくれた人がいなくても、自分の人生には価値がある、ということは、まだ信じ切れていないかもしれない」

「そうですね」

「それは、時間がかかることだと言っていました」

「そうだと思います」

「でも、今夜あの人が来てくれたことで、少し変わった気がします」

「どう変わりましたか」

「信じるための第一歩が、どこにあるか、少し分かった気がして」

「どこにありますか」

「自分を見送ってくれる人がいる、ということを、受け取ることだと思います。誰かが来てくれた。それを素直に受け取ること。それが最初の一歩な気がして」

 クロは少し間を置いた。

「それは、正しいと思います」

「正しいかどうかは、これから分かることですが」

「そうですね。でも、そう思えることが、すでに一歩です」


 今夜の記録を帳簿に書いた。

 客、女性。名前不明。取引なし。見送りのため来店。

 それだけを書いた。名前が分からないから、名前の欄は空白だった。空白のある記録は、三年間で初めてだった。でも、今夜はそれでいいと思った。名前のない優しさ、と神崎が言っていた。名前のない見送りがあっても、おかしくはない。

 鍵を手に取った。

 あと二日。

 明かりを一つずつ消した。

 四月の夜の中に、店が静かに沈んでいった。

 路地に出て、木の前に立った。葉が、今夜も街灯の光を受けて光っていた。濃い緑だった。十二月に葉が全部落ちていた時、この木はただの枝だった。でも根は残っていた。春になれば、また葉が出ることが、根には分かっていた。

 沙耶も、根があれば次の葉が出る。

 この三年間が、根になる。見えなくなっても、消えない。地面の中で、次の場所でも生きていくための養分になる。

 空を見上げた。

 四月の夜空は、どこまでも続いていた。

 あと二日。あと二日で、沙耶はこの路地を夜に歩くことがなくなる。でも、昼間に来ることができる。この場所の、昼間の顔を見ることができる。

 今夜の女性が言っていた言葉を思い出した。

 この路地を、昼間に通ってみて下さい。

 そうしよう、と思った。

 家へ向かいながら、沙耶は四月の夜の空気を吸った。冷たさと温かさが混じった空気。昼間の熱が、まだ残っている空気。

 あと二日、この空気を吸いながら、この路地を歩く。

 そう思いながら、歩いていった。

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