第十六章 沙耶の選択
四月が深まった。
路地の木の葉は、今月に入ってからさらに濃い緑になっていた。春の初めの、少し透き通るような緑ではなく、しっかりと色を持った緑だった。葉の一枚一枚が、自分の重さを持ち始めていた。沙耶はその変化を毎晩確認しながら、今年の春は去年と違う、とはっきり感じていた。
去年の春も、この木はここにあったはずだった。
でも沙耶は、去年の春の木のことを覚えていない。見ていたかもしれない。毎晩この路地を通っていたのだから、見ていたはずだった。でも意識していなかった。今年初めて、この木を本当に見ている気がした。
枕元のノートに書くことが、また少し変わっていた。
夢の断片から、少しずつ文章になってきた。断片が断片のままでなく、つながりを持ち始めていた。冬の道があって、神崎の背中があって、転んで、手を引かれる。その順番が、ようやく見えてきた。夢の中で、沙耶は七歳だった。七歳の自分が、冬の道を歩いている。隣に誰かがいる。
その誰かが、神崎だと分かるようになっていた。
四月の第三週の夜、沙耶は店を開ける前に少し早く来て、カウンターの中に一人で座っていた。
営業前の時間に、こうして一人でいることは珍しくなかった。でも今夜は、考えごとがあって早く来た。
今夜のことを、クロに話そうと思っていた。
話さなければならないと思っていた、と言う方が正確かもしれない。神崎に感謝を届けた夜から、沙耶の中で何かが動いていた。母のことも、神崎のことも、全部を聞いた。受け取った。でも受け取っただけで終わりではない、という感覚が、ずっとあった。
自分が、何かをすべき時期が来ているような気がしていた。
それが何なのかを、今夜クロに話したかった。
クロが現れたのは、六時半頃だった。
営業前の時間にクロが来ることは珍しかった。沙耶が早く来ていることに気づいたのか、あるいは今夜来ることが分かっていたのか。クロのことだから、どちらでもありそうだった。
「早いですね」
「話があって」
「知っています」
「知っていたんですか」
「なんとなく」
クロはカウンターの内側に入って、沙耶の向かいに立った。今夜のクロは、最初から聞く準備ができている顔をしていた。
「何でしょうか」
「この店のことを、少し整理したいんです」
「整理」
「はい。私は三年間くらい、ここで働いてきました。母のことも、神崎さんのことも、全部知りました。自分の人生が何で出来ているかも、分かりました。それを受け取って、今は自分の人生を自分のものとして生きていく、という段階に来ていると思っています」
「そうですね」
「でも、この店にいることと、自分の人生を生きることが、今少し、重なっていない気がして」
クロは少し間を置いた。
「重なっていない、というのは」
「この店にいることが、正しいのかどうか。今の私にとって、この店にいることが、前に進むことなのか、立ち止まることなのか、分からなくなっています」
沙耶はそこで少し止まった。
言葉にしてみると、自分が何を感じているかが、少しはっきりした。
「離れることを考えていますか」
「考えています。でも、それが正しいのかどうか分からない。離れたいのか、離れるべきなのか、その二つも、まだ区別できていない」
クロはしばらく黙っていた。
今夜の沈黙は、いつもと種類が違った。答えを探している沈黙ではなく、何かを渡す前の間のような沈黙だった。
「一つ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「この三年間、何が変わりましたか。あなた自身の中で」
沙耶は考えた。
「自分の人生に執着がなかった。来た頃は、ここにいる理由もよく分からなくて、他に行く所がないからここにいる、という感じでした」
「今は」
「今は、ここにいる理由が分かっています。でも理由が分かったからこそ、次の段階があるような気がしています」
「次の段階」
「この店で学んだことを、この店の外で使う段階、というか。外に出て、自分の人生を、自分の力で生きる段階」
クロは頷いた。
「それは正しい感覚だと思います」
「正しい感覚ですか」
「この店は、ある人が必要な時期に必要なものを見せます。あなたは三年間、必要なものを見てきた。見終えたなら、次の場所へ行く時期が来るかもしれません」
「それは、離れていい、ということですか」
「離れていい、というより」
クロは言葉を選んだ。
「あなたがそう感じているなら、その感覚を信じていいと思います」
沙耶は少し間を置いた。
「クロさんは、私がいなくなっても困りませんか?」
クロは少し笑った。今夜初めて、クロが笑った。
「困ります」
「困るんですか」
「三年間、あなたにいてもらいました。それは私にとっても、大切な時間でした」
沙耶は驚いた。クロがそういうことを言うのは、初めてだった。
「でも、困るからといって、あなたを引き止める理由にはなりません。あなたの人生は、あなたのものです。私が決めることではない」
七時になって、店を開けた。
今夜は早い時間から客が来た。四十代の女性が、未来の可能性の一部を売りに来た。沙耶は対応しながら、クロと交わした言葉を頭の中で繰り返していた。
客が帰って、しばらくして佐伯が来た。
「今夜は早いな」
「少し、考えごとがあって」
「また何か、大事なことか」
「そうかもしれません」
佐伯はコーヒーを受け取って、いつもの席に座った。
「聞くか?」
「聞いてほしいです」
佐伯は少し驚いた顔をした。沙耶が自分から聞いてほしいと言ったのは、珍しかった。いつもは佐伯が察して、聞く形だった。
「どうした」
「この店を、離れることを考えています」
佐伯はコーヒーカップを置いた。
「そうか」
「変ですか」
「変やない。ただ、急やな」
「急ではないんです。ずっと、少しずつ感じてきたことが、今月はっきりした感じで」
佐伯はしばらく黙っていた。考えている沈黙だった。
「この店を離れて、どうするつもりや」
「まだ決まっていないです。昼間の仕事を探すか、何か新しいことを始めるか。でも、まずこの店を離れることが先な気がしています」
「まずこの店を離れる、か」
「夜だけの生活を、変えたい、ということかもしれません」
「ずっと夜だけやったもんな」
「はい。でも最近、昼間の温度が気になるようになって」
「昼間の温度?」
「夜の空気の中に、昼間の熱が残っているんです。それに気づくようになってから、昼間の世界を、ちゃんと生きてみたいと思うようになりました」
佐伯は少し間を置いてから、言った。
「それは、ええことやと思うぞ」
「そうですか」
「俺は昼も夜も走っとるから、どちらも分かるけど。昼間の世界は、夜とは違うもんがある。それを知るのは、悪くないと思う」
九時を過ぎて、神崎が来た。
今月はまだ来ていなかったから、今夜が四月初めての来店だった。先月より顔色が良かった。春の空気が、確かに神崎の体に良い影響を与えているようだった。
「こんばんは」
「こんばんは」
コーヒーを頼んで、いつものカウンター席に座った。今夜は佐伯もいる。三人が、それぞれの場所にいる。この配置も、今では自然だった。
「今夜は顔色が違いますね」
神崎は沙耶に言った。
「どう違いますか」
「少し、決めた人の顔をしています」
佐伯が横から言った。
「この店を離れることを考えとるらしいぞ」
「佐伯さん」
「どうせ言うつもりやったやろ」
沙耶は少し苦笑した。否定はできなかった。神崎にも言うつもりだった。
「そうなんですか」
神崎は沙耶を見た。
「考えています」
神崎は少し間を置いた。
「いつ頃、ということは決まっていますか」
「決まっていないです。でも、春のうちには、と思っています」
「春のうちに」
「この春が、そういう時期な気がしていて」
神崎は頷いた。
「いい時期だと思います」
「そうですか」
「春に出るのは、いいです。夏でも秋でもなく、春が一番いい」
「なぜですか」
「始まりの季節だから。出るのも、始まりだから、合っていると思います」
沙耶は神崎のその言葉を聞いて、少し安堵した。
離れることへの不安が、ないわけではなかった。三年間ほどいた場所から出ることへの、漠然とした怖さがあった。でも神崎が春がいいと言ったことで、その怖さが少し小さくなった。
十時を過ぎて、佐伯が帰った。
帰り際に、いつものように「また来る」とだけ言った。それ以上は言わなかった。沙耶が離れることへの、感傷的な言葉は何もなかった。それが佐伯らしかった。でも扉を出る前に、一度だけ振り返って、沙耶を見た。何も言わなかったが、その目で十分だった。
神崎と二人になった。
「一つ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「離れることを決めた理由を、もう少し聞かせてもらえますか」
沙耶は少し考えた。
「自分の人生を、自分のものとして生きる段階に来た気がして、と言えば、きれいすぎますが」
「きれいすぎない言い方では」
「怖くなくなったから、かもしれません」
「怖くなくなった」
「来た頃は、自分の人生に執着がなかった。執着がなかったのは、怖くなかったからではなくて、怖さを感じる余裕もなかったから、だと今は思っています。ここで三年間ほど、人が何かを手放す場面を見てきて、人が何かを守ろうとする場面も見てきて、自分の人生が何で出来ているかも知った。それで、初めて自分の人生が怖くなった」
「怖くなったから、出ようとしている」
「怖いものに、向き合える気がしてきたので」
神崎は少し間を置いた。
「それは、成長と呼んでいいと思います」
「成長というのは照れますが」
「照れなくていいと思いますよ」
沙耶は少し笑った。
「神崎さんは、反対しないんですか」
「反対する理由がないです」
「私がここを離れれば、来ても私がいない」
「沙耶に会いに来ているわけではないので」
「コーヒーを飲みに来ている」
「コーヒーを飲みに来ています。コーヒーは、次の店主代理が入れてくれると思うので」
沙耶は少し驚いた。
「次の店主代理のことまで考えているんですか」
「この店は続きます。あなたがいなくなっても」
「そうですね」
「続く店に、次の人が来る。私はコーヒーを飲みに来る。それだけです」
神崎が帰る前に、クロが出てきた。
今夜は三人が揃った形になった。沙耶と神崎とクロ。この三人で話すことが、この店では一番大切な時間だった気がした。
「今夜、決めましたか」とクロは沙耶に聞いた。
「決めました」
「いつにしますか」
「今月末にしようと思います。春のうちに」
「分かりました」
クロはそれだけ言った。引き止めなかった。長い言葉もなかった。ただ、分かりました、と言った。その簡潔さが、クロらしかった。
「引き継ぎのことは」
「私が対応します。あなたは心配しなくていいです」
「帳簿は」
「置いていって下さい。次の人が使います」
「そうします」
神崎はコートを着ながら、三人を見た。
「なんか、卒業式みたいですね」
「卒業式」
「三人揃って、こういう話をしているのが」
「卒業式にしては、地味ですね」
「この店らしくていいと思います。派手じゃない方が、この店には合っている」
神崎に言われ、沙耶は少し笑った。確かに、と思った。この店には、派手な別れは似合わない。静かに、ただ決めて、静かに出ていく。それがこの店のやり方だった。
神崎が帰った。
店に沙耶とクロだけになった。
「最後に、一つだけ聞いてもいいですか?」
「どうぞ」
「クロさんは、人生を売った側の存在だと聞いたことがあります。自分で言ったわけではないですが、そういう気がしていて」
クロは少し間を置いた。
「正確には、違います。でも、遠くもないです」
「どういう意味ですか」
「私は、人生を売った人間が行き着く場所の、管理をしています。売ったことを忘れた人間の、残りの時間を見守る立場です」
沙耶は少し間を置いた。
「売った人たちを、見守っている」
「はい」
「忘れたまま生きている人たちを」
「はい」
「それは、辛くないですか」
クロは少し間を置いた。
「辛いかどうかは、分からないです。ただ、それが私の役割なので」
「役割、か」
「あなたも、役割があってここにいました。役割が変わるから、出ていく。私は役割が変わらないから、ここにいる。それだけのことです」
沙耶はその言葉を聞いた。
役割が変わる。
この三年間ほど、沙耶の役割はここで見ることだった。売買を記録して、客を迎えて、人生の断片が行き来する場所に立つこと。でも今、その役割が終わろうとしている。次の役割は、ここの外にある。
「クロさんのことを、忘れないと思います」
「忘れてもいいです」
「忘れてもいい」
「忘れても、ここにいた時間は消えないから。忘れたことと、なくなったことは違うと、あなたは知っているはずです」
沙耶は少し笑った。
「そうですね。知っています」
「だから、忘れてもいいです。ただ」
「ただ」
「今夜、覚えていてくれれば十分です」
今夜覚えていれば十分。その言葉が、静かに沙耶の中に落ちた。
今夜だけでいい。今夜この場所にいた記憶が、今夜の沙耶の中にある。それで十分だと、クロは言った。
人生を売った人が忘れても、渡したものは残る。クロが言い続けてきたことだった。沙耶がここを離れて忘れても、ここにいた時間は消えない。
そういうことだった。
鍵を手に取った。
今月末まで、あと何日かある。まだ最後の夜ではない。でも今夜、決めた夜だった。
明かりを一つずつ消した。
四月の夜の中に、店が静かに沈んでいった。
路地に出て、木の前で立ち止まった。葉が、夜の街灯を受けて光っていた。濃い緑だった。ここまで来るのに、冬があって、芽吹きがあって、春があった。一枚一枚の葉が、その時間の上にある。
沙耶の三年間も、そういうものだったと思った。
来た頃は、何もなかった。知らないことばかりだった。でも毎晩ここに立って、人が何かを手放す場面を見て、人が何かを守ろうとする場面を見て、自分の人生の話を聞いた。その全部が積み重なって、今夜この決断がある。
離れることは、終わりではない。
この店で受け取ったものを持って、次の場所へ行く。受け取ったものは、持っていける。消えない。
沙耶は空を見上げた。
四月の夜空は、どこまでも続いていた。冬の夜空より明るく、どこか近かった。
来月になれば、この路地をこうして歩くことがなくなる。でも今夜は、まだここにいる。今夜だけでなく、あと何日かある。
それで十分だと思った。
今夜の空気を吸いながら、沙耶は家へ向かった。
四月の夜の、冷たさと温かさが混じった空気の中を、自分の足で歩いていった。




