第十五章 忘れられた優しさ
四月になった。
路地の木は、すっかり葉を広げていた。三月の終わりには小さく頼りなかった葉が、四月に入ってから一週間で、ずいぶん大きくなった。緑が濃くなって、夜の街灯を受けると、葉の輪郭がはっきり光った。沙耶は毎晩その光を見てから、店に入るようになっていた。
四月の空気は、三月とも二月とも違った。
冷たさの中に温度があった。矛盾した言い方だが、そうとしか言えなかった。夜でも、空気の底に温かいものが混じっていた。冬の夜の空気は、端から端まで同じ冷たさだった。でも四月は違う。冷たい空気の層の下に、昼間の熱が少し残っている。それが夜になっても消えきらずにいる。
沙耶はその違いを、今年初めて感じた。
今まで気づかなかったわけではないかもしれない。でも気づこうとしていなかった。夜だけを生きていた人間が、昼間の温度を夜の空気の中に探している。それが今年の四月の、沙耶の変化だった。
枕元のノートは、三月の終わりから書くものが増えていた。
夢に出てくるものが、少しずつはっきりしてきた。断片が断片のままであることには変わりないが、断片の輪郭が出てきた。子どもの声は、自分の声だと分かるようになった。冬の道は、あの事故の夜の道だと分かるようになった。手を引かれる感覚は、神崎の手だったかもしれないと思うようになった。
確かめる方法はない。でも、そうだと思った。
四月の最初の月曜日、神崎が来た。
来月から来ると言っていた約束を、守ってきた。七時を少し過ぎた時間に、いつものコートを着て、扉を開けた。沙耶は神崎の顔を見て、三月に見た顔より少し良くなっていることに気づいた。顔色が戻っていた。目の下の暗さが薄くなっていた。
「いらっしゃいませ」
「こんばんは」
神崎はカウンター席に座った。コーヒーを頼んで、沙耶がそれを用意する間、窓の外を見ていた。四月の夜の路地を、穏やかな顔で見ていた。
「顔色が良くなりましたね」
「少し、良くなりました」
「春になったから、ですか?」
「春になったことも、あるかもしれないですね」
コーヒーを差し出すと、神崎は受け取った。一口飲んで、「ちょうどいい温度です」と言った。それが今夜の神崎の最初の言葉だった。沙耶は少し笑った。
「今夜は、取引はないんですよね」
「ないです。コーヒーだけ飲みに来ました」
「それだけでいいんです」
「佐伯さんはいますか」
「今夜はまだです。もう少し後で来ると思います」
「そうですか」
神崎はコーヒーカップを両手で包んで、カウンターの木目を見た。何か考えているような目だったが、重い考えではなかった。静かな考えだった。
「一つ、話していいですか」
「どうぞ」
「先月、クロさんに話したことを、あなたに伝えましたか」
「はい。聞きました」
「そうですか」
「なぜ伝えてほしかったんですか」
神崎は少し間を置いた。
「今まで知らせなかったのは、知れば止めようとするから、でした。でも最後のことは、知っていてほしかった。理由は、うまく言えないんですが」
「言ってみて下さい」
「知っていてほしかった、というより」
神崎は言葉を探した。
「今まで渡してきたものの最後として、残るものを渡したかった。渡したことを、あなたが知っていれば、それが残ります。知らなければ、私だけが知っている。それは少し、違う気がして」
「渡したことを、私と一緒に持っていたかった、ということですか?」
神崎は少し間を置いてから、頷いた。
「そういうことかもしれないです」
沙耶はカウンターの内側に立って、少し整えてから伝えた。
「クロさんから聞きました。神崎さんが先月ここに来て、取引をしたことを」
「はい」
「それと、母のことも聞きました」
神崎の手が、少し止まった。
「お母さんのことを」
「はい。母が来た夜のことを、クロさんから聞きました」
「どこまで聞きましたか」
「全部、だと思います。母が迷わずに決めたことも、もっと売れないかと聞いたことも」
神崎はカップを置いた。
「そうですか」
「神崎さんは、知っていましたか。母が来た夜のことを」
「知りませんでした。私は病院にいたので。お母さんがどこへ行ったかは、当時は知らなかった。後になって、クロさんから聞きました」
「後になって、とはいつですか」
「この店のことを知った時です。大人になってから、この店を探して、クロさんに会った時」
「その話を聞いて、どう思いましたか」
神崎は少し間を置いた。
「すごい人だな、と思いました」
「母が」
「はい。私は十二歳で、間に合わなかった。お母さんは、それでもあなたを助けようとした。間に合わなかった私の代わりに、あなたを助けてくれた」
「間に合わなかったのは、事故のことですか」
「はい。私があなたを突き飛ばして庇えれば、あなたは怪我をしなかった。でも間に合わなかった。それはずっと、私の中にあります」
「今でも」
「今でも。間に合わなかったことは、変わらない事実なので」
沙耶は神崎を見た。
「それで、買い続けることにしたんですか。間に合わなかったから、できることをしようと」
「そういうことだと思います」
「でも、間に合わなかったのは、神崎さんが十二歳で、子どもだったからです。それは、責任を感じる必要がないことだと思います」
「頭では分かっています。でも、感じることは別のことなので」
「そうですね」
沙耶は、それ以上言わなかった。頭と感じることは別のこと。それは沙耶にも分かった。母が選んだことは、母が引き受けることにした重さだ、と昨夜考えた。神崎が感じる間に合わなかった感覚も、同じように、神崎が引き受けることにしたものかもしれない。
代わりに背負うことはできない。
八時を過ぎて、クロが出てきた。
神崎はクロを見て、少し頷いた。クロも頷いた。先月、二人で話した夜があったから、今夜の頷き方は少し違う色を持っていた。
「体の調子はどうですか」とクロは神崎に聞いた。
「少し良くなっています」
「春になりましたから」
「そうですね。暖かくなると、楽です」
クロはカウンターの内側に入って、棚を整えた。今夜のクロは、あまり会話に入ってこなかった。沙耶と神崎の時間を作っている、という感じがした。いつもは何かを言う側だったクロが、今夜は静かにそこにいる側だった。
沙耶は神崎を見た。
「一つ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「神崎さんが渡してきたものは、私の中にあるということを、クロさんから聞きました。私が健康でいられるのは、神崎さんが買って渡してきたものがあるから、だと」
「はい」
「でも私は、それを感じたことがなかった。知らなかったから当然ですが、知った今でも、どこにあるのか分からない気がしています」
「感じなくていいと思います」
「なぜですか?」
「空気を感じますか。呼吸している時、空気があることを意識しますか」
「意識しないですね、普通は」
「でも空気はある。意識しなくても、そこにある。渡したものも、そういうものだと思っています。感じなくても、そこにある」
沙耶はその言葉を、少し頭の中に置いた。
感じなくても、そこにある。
「それで十分なんですか、神崎さんにとって」
「十分です」
神崎の答えに、迷いがなかった。
九時頃、佐伯が来た。扉を開けて、神崎がカウンター席にいるのを見て、「おう、来とるな」と言った。
「来ました」
神崎は答えた。
「今日は取引か」
「今日はコーヒーだけです」
「そうか。それがええ」
佐伯はいつもの席に座って、コーヒーを頼んだ。沙耶がそれを用意する間、佐伯は神崎を見た。
「顔色がマシになったな」
「少し良くなりました」
「先月来た時、えらい顔色悪かったから、心配しとった」
「心配させてすみませんでした」
「謝らんでいい。ただ、無理したらあかんぞ」
「無理はしないつもりです」
「するつもりがなくても、してしまうのが無理ってもんやけど」
神崎は少し笑った。
「気をつけます」
佐伯はコーヒーを受け取って、一口飲んだ。それから、店の中を見回した。
「なんか、今夜は空気が違うな」
「どう違いますか」
沙耶は尋ねた。
「落ち着いてる。先月より落ち着いてる。何か、終わったような空気がある」
「終わった、というのは」
「悪い意味やなくて、何か大変なことが一段落したような。そういう空気」
沙耶は少し考えた。
「そうかもしれません」
「何かあったか」
「いろいろありました。先月から今月にかけて」
「そか。詳しくは聞かんけど、まあ、落ち着いたなら良かった」
佐伯はそれだけ言って、コーヒーを飲んだ。沙耶は、佐伯のそういう所が好きだった。詳しくは聞かない。でも、気にかけている。その距離感が、この店にちょうど合っていた。
三人でしばらく話した。
話題は、とりとめのないものだった。佐伯が今夜乗せた客の話。四月になって、タクシーの客が変わった、という話。春になると、遠い所に行きたがる客が増える、と佐伯は言った。
「どこに行くんですか」
神崎が尋ねた。
「それぞれやな。花見の場所とか、昔住んでた街とか。なんか、春になると人は動きたくなるみたいや」
「春は、そういう季節ですね」
「あんたも、どこか行きたい所はあるか」
神崎は少し考えた。
「一つ、行ってみたい場所があります」
「どこや」
「子どもの頃、住んでいた街です。今は別の場所に住んでいるので、長く行っていない」
「故郷か」
「故郷、という感じかどうか分からないですが。昔のことを、少し確かめたくて」
佐伯は頷いた。
「春に行くといいぞ。昔の街は、春に行くのが一番ええ。景色が明るいから、思い出も明るい色になる」
「そうですね」
沙耶はその会話を聞きながら、神崎が行きたい街のことを考えた。子どもの頃住んでいた街。事故があった街。母がいた街。沙耶も、かつてはそこにいたはずだった。でも沙耶には、その街の記憶がない。
いつか行けるかもしれない、と思った。
神崎と一緒に、ではなくても。いつか、その街を見てみたいと思った。
十時を過ぎて、佐伯が帰った。
神崎も立ち上がった。今夜はコーヒーを一杯飲んで、少し話して、それで帰る夜だった。それが今夜の神崎の夜だった。
「また来ます」
「待っています」
神崎はコートを着ながら、少し沙耶を見た。
「先月のことを、どう受け取りましたか」
「先月のこと、というのは」
「全部のことを、聞いた後で」
沙耶は少し考えた。
「受け取るのに、少し時間がかかりました。今もまだ、全部は整理できていないかもしれない。でも」
「でも」
「受け取った、ということは分かっています。渡してくれた人がいて、受け取った自分がいる。それは、分かっています」
「それで十分です」
「一つ、伝えたいことがあります」
「どうぞ」
沙耶は少し間を置いた。
ありがとうだけでは足りない、と先月思っていた。小さすぎると思っていた。でも今夜、神崎の顔を見て、顔色が少し戻っているのを見て、春の空気を一緒に感じて、やはりこの言葉しかないと思った。
「ありがとうございます」
神崎は沙耶を見た。
「母のことも、神崎さんのことも、全部ひっくるめて。ありがとうございます」
神崎はしばらく黙っていた。
受け取る側の沈黙だった。渡す側ではなく、受け取る側の沈黙。神崎がこういう顔をするのを、沙耶は初めて見た。いつも渡す側にいた人間が、今夜は受け取っていた。
「どういたしまして」
神崎はそれだけ言った。飾りのない言葉だった。短い言葉だったが、その短さの中に、たくさんのものが入っていた気がした。
神崎が扉を開けた。四月の夜の空気が、店の中に入ってきた。冷たさの底に、温かいものが混じっていた。昼間の熱が、まだ残っていた。
「一つ、聞いていいですか?」
「どうぞ」
「母は、売ったことを忘れた。神崎さんも、買い続けてきたことを、私には知らせなかった。二人とも、私が知らないままでいることを、選んだ」
「はい」
「その優しさに、名前はありますか?」
神崎は少し間を置いた。
沙耶もすぐに答えを求めていなかった。ただ、聞いてみたかった。この問いに答えがあるとは思っていなかった。でも、聞かずにいられなかった。
神崎はようやく口を開く。
「名前は、ないと思います。名前がついてしまうと、それが何なのかが決まってしまうので。名前がないまま、ただそこにある、という方が正しい気がします」
「そうですね」
「ただ、名前がなくても、受け取った側には分かる。何かを受け取ったことは、分かる。それで十分だと思います」
沙耶は頷いた。
神崎は扉を出た。四月の夜の路地に、神崎の背中が見えて、角を曲がって消えた。
店にクロと二人になった。
今夜は、クロは何も聞いてこなかった。沙耶も、しばらく何も言わなかった。
帳簿を開いた。今夜の記録を書いた。神崎正真、来店。取引なし。それだけを書いた。それ以外に書くことは、今夜はなかった。
窓の外の路地に、四月の風が通っていた。木の葉が揺れていた。街灯の光を受けて、葉の緑が光った。
母が言った言葉も、神崎が言った言葉も、今夜受け取った言葉も、全部が沙耶の中にあった。
名前のない優しさ、と神崎は言った。
名前がないから、形がない。形がないから、消えない。形があるものは、壊れる。形がないものは、壊れない。
沙耶は帳簿を閉じた。
母は忘れた。神崎は知らせなかった。でも渡したものは、渡した先に残っている。名前がなくても、形がなくても、受け取った側には分かる。
それが、忘れられた優しさというものの、本当の姿なのかもしれなかった。
忘れられた、というのは、消えたということではない。
渡した側の記憶から消えても、受け取った側に残っている。だから忘れられた優しさは、本当は忘れられていない。ただ、片方にしか残っていない。
それが、この店で起きていることの本質だと、今夜沙耶は思った。
三年間ほど、毎晩ここに立ってきた意味が、今夜少し分かった気がした。
鍵を手に取った。明かりを一つずつ消した。
四月の夜の中に、店が静かに沈んでいった。
路地の木は、風の中で揺れていた。
沙耶は扉を閉めて、路地に出た。木の前で立ち止まった。葉が揺れていた。揺れながら、そこにあった。根が張っているから、どこにも行かない。
沙耶も、ここにいる。
母の寿命の上に、神崎の選択の上に、名前のない優しさの上に、今夜も沙耶はここに立っている。
それを知った上で、ここに立っている。
それだけで、今夜は十分だと思った。
四月の夜空を、一度だけ見上げた。
冬より遠く、どこまでも続いている空だった。




