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夜だけ開く人生の店 ――寿命・未来・思い出、売買できます  作者: 明石竜


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第十四章 真実

 三月の第三週になると、路地の木はすっかり葉を広げていた。

 小さな葉だったが、もう芽とは呼べない形をしていた。緑が濃くなって、風が吹くたびに揺れた。沙耶は毎晩その木を見てから店に入るようになっていたが、今週からは少し立ち止まる時間が長くなった。木の前で、空を見上げた。三月の夜空は、冬よりも深みが薄く、どこか遠い場所まで続いている気がした。

 神崎が来なくなって、二週間が経った。

 来月から来ると言っていた。それはまだ来ていない。四月になれば来るだろう。でも今はまだ三月で、神崎がいない夜が続いていた。神崎がいない夜は、以前と変わらないはずだった。先月まで、神崎は月に一、二度しか来なかった。でも今は、なぜか違う感じがした。いる、という前提がなくなったことの重さを、沙耶は今更のように感じていた。

 来月また来る。それは分かっている。でも、今夜ここにいない、という事実が、今夜は少し大きかった。

 自分がそういうことを気にする人間だったと知ったのは、最近のことだった。


 三月の第三週の水曜日、結衣が来た。

 珍しく、夜になってから来た。裏口ではなく、正面の扉から来た。営業時間に合わせてきた形だった。コートを着て、マフラーをしていた。ランドセルではなく、手提げ袋を持っていた。

「今日は遅いね」

沙耶は話しかける。

「お母さんに、沙耶さんの所に行ってくると言ってきた」

「お母さんは知っているの、この店のこと?」

「なんか変な店があるって言ったら、あまり行くなって言われた。でも行くって言ったら、遅くならないようにって」

「ちゃんとお母さんに言って来たんだね」

「うん。あと、これ」

 結衣は手提げ袋から紙袋を出した。

「何?」

「お菓子。お母さんが、お世話になってるならって」

 沙耶は紙袋を受け取った。中には焼き菓子が入っていた。手作りではなく、近所の菓子店のものだった。

「ありがとう。お母さんにもよろしく伝えて」

「うん」

 結衣はカウンターの端の椅子に座った。今夜はいつもより少し緊張した顔をしていた。

「何かあった?」

沙耶は尋ねた。

「聞いてほしいことがある」

「どうぞ」

 結衣は手提げ袋を膝に置いて、少し間を置いた。十歳の子どもが、真剣に話し始める前の間だった。

「この店って、思い出を売ったり買ったりできるよね」

「できます」

「わたしも、できる?」

 沙耶は少し驚いた。

「何を売りたいの?」

「売りたいんじゃなくて。買いたい。おばあちゃんとの思い出」


 沙耶はしばらく、結衣を見ていた。

 十歳の子どもが、亡くなった祖母との思い出を買いたいと言っている。みずきが取り戻したいと言って来た夜のことを思い出した。一度売ったものは戻らない。でも結衣の場合は、売ったわけではない。ただ、幼すぎて覚えていない。

「おばあちゃんとの思い出が、ないから買いたいの?」

「ある人から買えたら、いいなって思って」

「ある人、というのは」

「おばあちゃんのことを覚えている人。その人の思い出を、少し分けてもらえたら」

 沙耶は少し考えた。

「それは、この店ではできないかもしれない」

「できない?」

「思い出の売買は、自分が持っている思い出を売ること、あるいは誰かが売った思い出を買うことはできます。でも、特定の人の思い出を指定して買うことは、難しいと思います」

「じゃあ、おばあちゃんのことを覚えている人の思い出が、たまたまここにあれば買える?」

「理論的にはそうですが、それがここにあるかどうかは分からないな」

 結衣は少し考えた。

「そっか」

「ごめんね」

「ううん。できないなら仕方ない。聞いてみたかっただけ」

「おばあちゃんのこと、知りたかった?」

「知りたいというか……お母さんが、おばあちゃんのことを話すたびに泣くから。どんな人だったのか、もっと知ってたら、一緒に話せる気がして」

 沙耶はその言葉を聞いて、少し胸が痛かった。

 一緒に話したい。誰かの悲しみを、隣で同じように感じたい。十歳の子どもが、そういうことを考えている。

「お母さんに、直接聞いてみたら」

「聞くと、泣かせてしまう気がして」

「泣いても、話してくれると思うよ。泣きながら話すことが、お母さんにとっても必要かもしれない」

 結衣は少し考えた。

「そうかなぁ?」

「話すことで、思い出は消えないから。泣きながら話すことで、一緒に大事にできるから」

 結衣はしばらく黙っていた。

「沙耶さんって、なんか最近、言葉が変わった気がする」

「変わった?」

「前より、深いことを言うようになった」

 沙耶は少し笑った。

「そうかもしれない。私もいろいろあったから」

「この店で?」

「この店で」


 結衣が帰った後、九時頃にクロが出てきた。

 今夜は珍しく、クロの方から先に話しかけてきた。

「今夜、少し話したいことがあります」

「はい」

 クロはカウンターの内側に立って、沙耶と向き合った。今夜のクロの様子は、少し違った。いつもは何かを計っているような目をしている。今夜はその計りがなかった。直接的な目だった。

「神崎さんのことです」

「はい」

「先週、神崎さんが一人でここに来ました」

 沙耶は驚いた。

「私がいない時に、ですか」

「昼間です。この店は昼間は開いていないので、裏口から来ました。私だけに、話があると言って」

あの夜、カウンター越しに二人が軽く頷き合った。

初対面には見えなかった、あの挨拶。

その理由が、ようやく分かった。

「何を話したんですか」

 クロは少し間を置いた。

「神崎さんは、止めると決めた後で、一つだけ取引をしたいと言いました」

「取引を」

「止めると言っていたのに。最後に、一つだけ、と言いました。それは、買うのではなく、売る方の取引でした」

 沙耶は少し緊張し、動かなかった。

「神崎さんが、何かを売ったんですか」

「はい」

「何を」

 クロは少し間を置いた。

「自分の未来の一部を、売りました」


 沙耶は息をのんだ。

 神崎が、自分の未来を売った。

「なぜですか」

「理由を聞きました。神崎さんは、こう言いました。今まで雨宮沙耶に渡してきたものの、最後の分として売りたい、と」

「最後の分」

「はい。止めると決めたから、これ以上買って渡すことはできない。でも最後に、自分が持っている何かを渡したかった。それで、自分の未来を売ることにした、と」

「その売ったお金を、私に渡すということですか」

「お金ではないです。この店での売買は、お金ではなく、別の形で渡されます。神崎さんが売った未来の一部は、雨宮さんの未来に加えられます」

 沙耶は少し間を置いた。

「それは、神崎さんの未来が短くなる、ということですか」

「はい」

「止めると決めたのに、さらに自分を削った」

「神崎さんは、それを削るとは思っていないようでした。最後に渡せるものを渡した、と言っていました」

 沙耶は目を閉じた。

 渡せているという感覚の方が強い、とあの時、神崎は言っていた。削っている感覚はない、と。それは今回も同じだった。渡したかったから、渡した。それだけのことだった、神崎にとっては。

 でも、渡された側は違う。

「私はまた、知らないうちに受け取っていた」

「今回は、知らせようと思いました。だから今夜、話しています」

「知らせることにしたのは、なぜですか」

「神崎さんが、伝えて下さい、と言ったからです」

 沙耶は目を開けた。

「神崎さんが」

「はい。今回は、知っていてほしいと言いました。今まで知らせなかったのは、知ったら止めようとするから、でした。でも今回は最後なので、知っていてほしいと」


 沙耶はカウンターの内側に立って、しばらく動かなかった。

 今夜は佐伯も来ていなかった。店には沙耶とクロだけだった。三月の夜の静けさが、店の中に満ちていた。

「神崎さんは、今、どういう状態ですか?」

沙耶は尋ねた。

「体の方は、少しずつ落ち着いてきています。止めると決めてから、これ以上悪化はしていない。でも今回の取引で、また少し使いました」

「回復していますか」

「少しずつ」

「春になれば、もっと良くなりますか」

「そう思います」

 沙耶は息を吐いた。

「来月、来ると言っていました」

「来ると思います」

「その時、神崎さんに何か言えますか、私は」

「何を言いたいですか」

「ありがとう、を言いたいです。でも、それだけでは足りない気がして。ありがとうだけでは、あの人がやってきたことに対して、言葉が小さすぎる」

「小さくはないと思います」

「でも」

「渡した側は、感謝されるために渡したわけではないです。でも、感謝の言葉を受け取ることを、拒む理由もない。ただ届けて下さい。届いたものは、届いた先に残ります」

 沙耶はその言葉を聞いた。

 届けたものは、届いた先に残る。渡したものは渡した先に残る、とクロはあの時も言っていた。でも今夜は、自分に向けられた言葉として聞こえた。届けて下さい、と。

「届けます」


 少し間を置いてから、クロが言った。

「もう一つ、今夜話しておくことがあります」

「はい」

「雨宮さんのお母さんのことです」

 沙耶は少し身構えた。

「はい」

「お母さんが寿命を売った夜のことを、話します。あなたが知らない部分を」

「神崎さんが兄だと知ったあの夜に、母が寿命を売ったことは聞きました」

「はい。でも、その夜の詳細は話していませんでした」

 クロは少し間を置いた。

「お母さんが来たのは、あなたが事故に遭った日の夜でした。病院で、あなたの意識が戻らない状態が続いていた。医者には、助からない可能性が高いと告げられていた」

「はい」

「お母さんは、病院を出て、この店に来ました。一人で来ました。神崎さん、当時十二歳だったお兄さんは、病院に残っていた」

「母が一人で来た」

「はい。その時、お母さんは私に言いました。娘を助けて下さい、と。自分のものを何でも売る、と」

 沙耶は動かなかった。

「私は、お母さんに選択肢を説明しました。寿命を売れば、あなたの回復に使えます、と。お母さんはすぐに決めました。迷わなかった」

「迷わなかった」

「はい。どのくらい売れますか、と聞きました。私が値を出すと、もっと売れませんか、と言いました」

 沙耶は目を閉じた。

 もっと売れませんか。

 娘一人を助けるために、自分の寿命をもっと売れないかと聞いた。それが沙耶の知らない母親の姿だった。記憶の中に残っていない、あの夜の出来事だった。

「私は、お母さんに説明しました。これ以上売れば、かなり寿命が短くなると。お母さんは、それでも構わない、と言いました」

「それでも構わない」

「娘が生きていれば、それでいい、と言いました」

 沙耶は気づいた。

 娘が生きていれば、それでいい。

 神崎が止めると決めた夜に、彼が言った言葉と、同じだった。お前が生きていれば、それでいい。母と兄が、二十年ほどの時間を隔てて、同じ言葉を言っていた。

「母と神崎さんは、同じことを言った」

沙耶の声が少し乾いていた。

「そうですね」

クロは穏やかな声で言った。

「血が繋がっているということは、こういうことですか」

「そういうことかもしれません」


 沙耶はしばらく、黙っていた。

 目を閉じたままでいた。涙が出るかと思ったが、出なかった。出る前の状態だった。何かが満ちていて、でもまだ溢れていない状態。

「母は、売ったことを、覚えていなかった」

「はい」

「忘れたまま、体が弱くなっていって、亡くなった」

「はい」

「私に、何も言わないまま」

「言えなかった。覚えていなかったから」

「でも、何かを感じていたかもしれない」

「どういう意味ですか」

「売った人が忘れても、失ったことだけは残ると、あなたは言っていました。母も、何を失ったか分からないままで、でも何かを失った感覚はあったかもしれない」

「あったと思います」

「それが、母にとって辛くなかったかどうか、今となっては分からない」

「分からないですね」

「でも、母はそれを選んだ。知った上で選んだ。だから、辛かったとしても、それは母が引き受けることにした辛さだった」

「そうです」

「私が代わりに背負う必要はない」

「そうだと思います」

 沙耶は目を開けた。

 カウンターの向こうに、クロが立っていた。三年間ほど、毎晩向き合ってきたクロが。店の秘密を知っているクロが。今夜最後の話をしてくれたクロが。

「クロさん」

「はい」

「あなたは、最初からこの夜のために、私をここに置いたんですか?」

 クロは少し間を置いた。

「最初から、というわけではないです。でも、あなたがここにいる意味の一つに、今夜があることは、分かっていました」

「今夜が、その夜ですか」

「はい」

「全部を聞いた夜が」

「はい」

 沙耶は少し間を置いた。

「全部、聞きました」

「はい」

「受け取りました」

「はい」

 クロは何も言わなかった。でも、今夜のクロの目は、いつもと少し違った。何かを終えた人間の目だった。長く持っていたものを、ようやく渡せた人間の目だった。


 沙耶は窓の外を見た。

 三月の夜の路地に、風が通っていた。路地の木の葉が揺れているのが、窓越しに見えた。小さな葉が、風に揺れて、また戻る。揺れながら、でもそこにある。根が張っているから、どこにも行かない。

 母が言った言葉。娘が生きていれば、それでいい。

 神崎が言った言葉。お前が生きていれば、それでいい。

 二つの言葉が、今夜の沙耶の中で重なった。

 生きていれば、それでいい。

 その言葉を受け取るということは、ただ生きているだけでいい、という意味ではないと思った。生きていることの重さを知った上で、それでも生きていく、ということだと思った。誰かの寿命の上に、誰かの未来の上に、自分の人生がある。それを知りながら、自分の人生として生きていく。

 それが、母と神崎への、答えになるかもしれない。

 沙耶は帳簿を開いた。

 今夜の記録をどう書くか、少し迷った。神崎が昼間に来て、取引をした。その記録は、クロがつけているはずだった。沙耶がつけるべき記録は、別にある。

 今夜、母のことを聞いた。神崎のことを聞いた。自分の人生が何で出来ているかを、全部聞いた。

 それは帳簿の記録ではなかった。でも今夜、書かずにいられなかった。

 帳簿の余白に、小さく書いた。

 母と兄が言った言葉は、同じだった。

 それだけを書いて、帳簿を閉じた。

 鍵を手に取った。明かりを一つずつ消した。

 三月の夜の中に、店が静かに沈んでいった。

 路地の木が、風の中で揺れていた。葉が揺れて、また戻る。どこにも行かずに、そこにある。

 沙耶は鍵を閉めてから、少しだけ空を見上げた。

 三月の夜空は、冬より遠くまで続いていた。どこまで続いているか分からない空の下に、沙耶は立っていた。

 生きていれば、それでいい。

 その言葉と一緒に、沙耶は家へ向かった。路地の木の前で、一度だけ立ち止まった。風に揺れる葉を見てから、また歩き始めた。

 今夜の夢には、何が出てくるだろう。

 そう思いながら、三月の夜を歩いていった。

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