第十三章 神崎の選択
三月になった。
路地の木の芽が、少しずつ大きくなっていた。緑の点だったものが、小さな葉の形を持ち始めていた。まだ開ききっていないが、確かに葉だと分かる形だった。沙耶は毎晩それを確認してから、店の鍵を開けた。今夜はどのくらい大きくなったか。昨日より少し色が濃くなった気がする。そういう細かい変化を、沙耶は楽しみにするようになっていた。
以前は、季節の変わり目をあまり意識しなかった。
夜だけ生きているような日々だったから、季節を感じる機会が少なかった。太陽の光の角度も、昼間の空気の温度も、ほとんど関係がなかった。でも今年の冬から春にかけては、違った。毎晩、木の変化を見ている。その変化が、沙耶自身の何かと重なっている気がした。
結衣が教えてくれた通り、枕元にノートを置くようにした。
夢を見るたびに、目が覚めた瞬間に書いた。最初はほとんど書けなかった。起き上がる前に消えてしまう。でも一週間、二週間と続けると、少しずつ残るようになった。ノートには断片が積み重なっていった。
冬の道。誰かの背中。転んだ時の冷たい地面の感触。泣き声、自分の声だったかもしれない。手を引かれる感覚。
それが事故の記憶なのか、別の何かなのかは分からなかった。でも確かに、子どもの頃の何かだった。沙耶はノートを見るたびに、少しずつ輪郭が出てくる気がした。霧の中にいた人間が、少しずつ霧が薄くなっていく。そういう感覚だった。
三月の最初の週、神崎は来なかった。
先月は二度来ていた。今月は最初の週が終わっても来ない。沙耶は気になっていたが、連絡先を知らなかった。この店には客の連絡先を聞く仕組みがない。来るか来ないかは、客が決めることだから。
クロに聞こうとしたが、クロも今週は店に現れる時間が短かった。何かがある、という予感が沙耶にはあったが、確かめる方法がなかった。
第二週の木曜日の夜、神崎が来た。
いつもと違う時間だった。八時を過ぎていた。神崎はいつも七時台に来る。それが今夜は八時を回っていて、コートの着方が少し乱れていた。いつも整っている人間が、整っていない夜だった。
「いらっしゃいませ」
神崎は沙耶を見て、少し頷いた。カウンター席に座ったが、コートを脱がなかった。沙耶はコーヒーを用意しながら、神崎を見た。顔色が、先月より明らかに悪かった。
「今夜は、遅かったですね」
「少し、来るのに時間がかかりました」
「体の調子が悪いですか」
「まあまあ、というところです」
コーヒーを差し出すと、神崎は受け取った。でも一口飲んで、カウンターに置いた。いつもは温度を確かめるように飲む人間が、今夜は飲む気にならないような置き方だった。
「クロさんを、呼んでいいですか」
「呼んで下さい」
沙耶は奥の扉に向かった。ノックをすると、クロはすぐに出てきた。まるで待っていたような速さだった。あるいは、今夜のことを知っていたのかもしれない。
三人でカウンターを囲んだ。
神崎とクロが向き合って、沙耶は横に立った。今夜は椅子に座る感じではなかった。何かがある夜だと、体が感じていた。
「今夜は、取引のためではないです」
神崎は伝える。
「話のためですか」
「はい。一つ、確認したいことがあって」
「どうぞ」
神崎はカウンターの上に両手を置いた。少し震えている気がした。沙耶は気づかないふりをした。
「私があと何回、買えますか」
クロは少し間を置いた。
「回数で言えることではないですが」
「では、どう言えますか」
「今のペースで続ければ、あと数ヶ月だと思います」
沙耶は息をのんだ。
数ヶ月。
神崎は頷いた。驚いた様子はなかった。やはり、という顔だった。
「数ヶ月というのは、買える限界が来るということですか。それとも、私の体の限界ということですか」
「両方、ほぼ同時に来ると思います」
「体の限界というのは」
「これ以上生命力が失われると、日常生活に支障が出てきます。今でも、すでに出始めているはずです」
「出始めています。だから確認しに来ました」
沙耶はクロを見た。クロは神崎を見ていた。二人の間に、何か大切なやり取りが流れている感じがした。言葉ではない何かが。
「選択肢はありますか」
神崎はクロに訊いた。
「あります」
「聞かせて下さい」
「一つは、今すぐ止めること。これ以上買わない。そうすれば、体のこれ以上の悪化は防げます。ただし、今まで失ったものは戻らない」
「もう一つは」
「続けること。限界まで続けることもできます。ただし、限界を超えれば」
クロはそこで止まった。
「限界を超えれば、どうなりますか」
クロに訊いたのは、神崎ではなく沙耶だった。
クロは沙耶を見た。
「生命力が完全に尽きれば、神崎さん自身の命に関わります」
静けさが、店を満たした。
沙耶は動かなかった。
命に関わる。神崎が限界まで続ければ、神崎の命が危うくなる。自分を守るために、兄が自分の命を削っている。そういうことだった。三月の夜の店の中で、その言葉だけが静かに重かった。
「止めて下さい」
沙耶は言った。
神崎が沙耶を見た。
「止める必要はないです」
神崎の声は穏やかだった。怒っていなかった。ただ、決めていた。
「止める必要がないとは、思いません」
「沙耶」
「私はもう、知っています。あなたが私の兄で、私のためにやってきたことも、全部知っています。だから止めてほしい」
「あと数ヶ月ある」
「数ヶ月で限界が来るなら、止める理由がある」
「限界が来るまでは、できる」
「できることと、すべきことは、違います」
神崎は少し黙った。
沙耶も黙った。
二人の間に、同じ頑固さが流れているような気がした。沙耶は自分がそういう人間だと思っていなかったが、今夜は引けなかった。引いてはいけない気がした。
「沙耶は、私に止めてほしい、と思っているんですか。本当に」
「本当に、思っています」
「私のためですか。それとも、自分が申し訳ないから、ですか」
沙耶は少し黙った。
正直に考えた。申し訳ないから、という気持ちはある。自分のために神崎が命を削っていることへの、申し訳なさ。でも、それだけではなかった。
「両方だと思います。申し訳ないから、というのもある。でもそれよりも、あなたに長く生きていてほしいから、です」
神崎は少し目を細めた。
「長く生きていてほしい、か」
「はい」
「二十年ほど、どこにいるか分からなかった人間が、急にそんなことを言うんですね」
「急だとは思います。でも、本当のことです」
神崎はしばらく黙っていた。今夜一番長い沈黙だった。沙耶はその沈黙の中で、何かを待っていた。何が来るのかは分からなかったが、待つ必要がある沈黙だった。
クロが穏やかな声で言った。
「神崎さん。一つだけ、お伝えしてもいいですか」
「はい」
「あなたが続けてきたことの意味は、続ける量によって変わりません。今夜止めても、今まで渡してきたものは消えません。雨宮さんに届いたものは、届いたまま残ります」
「届いたまま、残る」
「はい。人生を売った人が、売ったことを忘れても、渡したものは消えない。それはこの店のルールです。届けたものは、届いた先に残ります」
神崎は少し間を置いた。
「それは、続けることの意味がなくなる、ということですか」
「続けることに意味がないとは言っていません。ただ、止めることで今まで渡してきたものが消える、ということはない。それだけです」
沙耶はクロの言葉を聞きながら、思い出を売った老人のことを考えた。西田が思い出を売って、涙が出た。失ったことだけが残る。でも、渡したものは渡した先に残る。売った側がなくしても、受け取った側には残っている。
神崎が渡してきたものは、私の中にある。
それは、神崎が止めても消えない。
「分かりました」
神崎は言った。
沙耶は神崎を見た。
「止めます」
沙耶は息を吐いた。
「今夜、最後にしようと思います。来月からは来ない」
「最後に、今夜も買うんですか」
「最後だから、ではないです。今夜のために来たから、ということです」
「どういう意味ですか」
「今夜、あなたと話すために来た。それが本当の理由です。買うのは、それに付随したことです」
最後の取引が、静かに行われた。
器が出てきた。神崎は右手を蓋に乗せた。今夜の神崎の表情は、今まで見てきた中で一番穏やかだった。決めた後の人間の顔だった。迷いがないのは、今夜が初めてではなかったが、今夜の穏やかさは今までと違う種類だった。
終わりにする決意をした後の、穏やかさだった。
取引が終わって、クロが奥に引いた。
神崎はカウンターに残った。コーヒーをもう一口飲んだ。今夜は最後まであまり飲まなかったが、最後にもう一口だけ飲んだ。
「美味しいですね、やはり」
「温度が、ちょうどいいですか」
沙耶は尋ねた。
神崎は少し笑った。初めて来た夜と同じことを言った、と気づいた笑い方だった。
「ちょうどいいです。毎回ちょうどいい」
「これからは、ここに来てもコーヒーだけ飲んで帰ることができます」と沙耶は言った。
「そうですね」
「佐伯さんみたいに」
「佐伯さんみたいに。それは、悪くないですね」
沙耶は少し笑った。
「来月も来て下さい」
「来ます」
「コーヒーだけ飲んで、少し話して、帰って下さい」
「そうします」
神崎が帰る前に、佐伯が来た。
今夜は少し早かった。扉を開けて、神崎とすれ違う形になった。
「今日も来とったか」
「今夜が最後です。ここで買うのは」
神崎が伝えると、佐伯は少し驚いた顔をした。
「そうか」
「来月からは、コーヒーだけ飲みに来ます」
「そしたら俺と一緒やな」
「一緒ですね」
佐伯は笑った。神崎も笑った。沙耶も笑った。今夜の笑いは、どこか軽かった。重い夜の後に来る、少し軽い時間だった。
「お前さん、顔色が悪いな」
佐伯は神崎に言った。
「少し、体調が優れなくて」
「無理したらあかんぞ。若いからって、体は正直やから」
「気をつけます」
「気をつける、で済む話やったらええけどな」
佐伯は沙耶を見た。沙耶は少し頷いた。佐伯は何も言わなかった。全部は知らないが、何かを察していた。それで十分だった。
神崎がコートを着た。
「では」
「お気をつけて」
沙耶が言うと、
「あなたも」
神崎はそう言って扉を開けた。三月の夜の空気が流れ込んだ。二月より柔らかかった。春の気配が、確かに混じっていた。
「沙耶」
「はい」
「お前が生きていれば、それでいい」
声が、静かだった。
芝居がかっていなかった。飾りがなかった。ただ、本当のことを言う声だった。二十年越しに届いた言葉が、三月の夜の店の中に落ちた。
沙耶は何も言えなかった。
言葉が出てこなかった。のどの奥に何かが詰まって、声にならなかった。
神崎は笑った。今夜一番の、声に出た笑い方だった。
「また来月」
扉が閉まった。
佐伯がいつもの席に座った。
沙耶はカウンターに戻って、コーヒーを用意した。手が少し震えていた。気づかれないように、丁寧に動かした。
「泣いてへんか」
「泣いていないです」
「そか。でも泣いてもええぞ」
「泣きたいとは、少し思っています」
「じゃあ泣け」
「もう少し、後でいいです」
佐伯はコーヒーを受け取って、一口飲んだ。
「あの男、また来るんか」
「来月来ると言っていました。コーヒーだけ飲みに」
「そしたら俺たちと一緒やな。売り買いなしのただの常連」
「そうですね」
「それはええと思う。この店、売り買いしない人間がいてもいい店やと思うから」
沙耶は頷いた。
「そうですね。私もそう思います」
クロが奥から出てきて、カウンターの内側に立った。今夜は話しかけてこなかった。ただ、そこにいた。
三人で、しばらく静かな時間を過ごした。
コーヒーの香りが、店の中に漂っていた。窓の外は三月の夜で、路地には風があった。葉が出始めた木が、風に揺れているだろう。暗くて見えないが、沙耶にはそこにあることが分かっていた。
お前が生きていれば、それでいい。
その言葉が、静かに沙耶の中に残っていた。
残っている、ということは、届いた、ということだ。
届いたものは、届いた先に残る。クロが言ったことが、今夜は自分のこととして分かった。神崎が渡してきたものも、今夜の言葉も、全部が沙耶の中に届いて、残っている。
それは、消えない。
沙耶は帳簿を開いた。今夜の記録を書いた。神崎正真。最後の購入。そして、その下に一行だけ、記録ではないことを書いた。
帳簿に書くことではないかもしれなかった。でも、書かずにいられなかった。
今夜、届いた。
それだけを書いて、帳簿を閉じた。
三月の夜は、まだ続いていた。




