表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夜だけ開く人生の店 ――寿命・未来・思い出、売買できます  作者: 明石竜


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

12/17

第十二章 失われた時間

 神崎が兄だと知った夜から、沙耶は夢を見るようになった。

 正確には、夢を見ていたのかもしれない。ただ、目が覚めると消えていた。今まではそれが当たり前だった。夢を見た、という感覚だけが残って、内容は何もない。靄の中に手を入れて、何も掴めないまま引き抜くような感じだった。

 でもあの夜からは、少しだけ残るようになった。

 断片だった。子どもの声。冬の空の色。誰かの手のひら。それがどこの記憶なのか、いつの記憶なのか、分からない。でも夢の中では、なぜかそれが自分のものだと分かった。知っているものが出てきている、という確信があった。

 目が覚めるたびに、沙耶はしばらくそのままでいた。

 消えてしまう前に、もう少し覚えていたかった。でも夢というものは、追えば追うほど速く消える。諦めて起き上がると、また靄の中に戻っていた。

 それでも、以前とは違った。

 何かが、少しずつ戻ってきている気がした。


 二月の半ば、結衣が来た。

 今日は学校帰りの時間で、ランドセルを背負っていた。裏口を開けると、いつもの顔で「こんにちは」と言って入ってきた。

「今日は顔色が良くないね」

結衣は指摘する。

「そうかな」

「そう。目の下が暗い」

 十歳の子どもに言われる言葉としては、ずいぶん正確だった。沙耶は少し笑った。

「夢をよく見るようになって、あまりよく眠れていないのかもしれない」

「どんな夢?」

結衣は椅子に座りながら尋ねた。

「断片的なもので、はっきり覚えていないんだけど。子どもの頃の夢だと思う」

「いい夢? 悪い夢?」

「どちらでもない。ただ、懐かしい感じがする」

 結衣はカウンターに肘をついた。

「わたしね、おばあちゃんが夢に出てきたことがある」

「どんな夢だった?」

「笑ってた。それだけ。でも起きたら泣いてた」

「どうして泣いたんだろう」

「分からない。でも悲しい泣き方じゃなかった気がする」

 沙耶はホットチョコレートを作りながら、結衣の言葉を繰り返した。悲しい泣き方じゃなかった。夢の中で笑っていた人に会えたから、泣いた。それは悲しみではなく、別の何かだった。

「その夢、また見たい?」

「見たい」

沙耶が尋ねると、結衣はすぐに答えた。

「でもまた見るかどうかは分からないから、一回ちゃんと覚えとこうって思って、起きてすぐノートに書いた」

「賢いね」

「うん」

 結衣はホットチョコレートを受け取って、両手で包んだ。

「沙耶さんも書いたら? 夢のこと」

「消えてしまう前に、間に合わないんだよね」

「じゃあ、枕元にノート置いといて。目が覚めた瞬間に書く。そうしたら少し残るかも」

 十歳の子どもに、実用的なアドバイスをもらった。沙耶は素直に、そうしてみると答えた。


 その夜、神崎が来た。

 今月二度目だった。先月から来る頻度が少し上がっている。沙耶はそれに気づいていたが、神崎に聞くべきかどうか迷っていた。神崎がすべてを話してくれた夜の後、神崎の様子が少し変わった気がしていた。隠しているものがなくなった分、以前より話しやすくなった。でも同時に、沙耶の方が何をどう話せばいいか分からなくなっていた。

 兄だと分かった人間との距離の取り方を、沙耶は知らなかった。 

「こんばんは」

「こんばんは」

 神崎はカウンター席に座った。コーヒーを頼んで、沙耶がそれを用意する間、今夜は黙っていた。いつもは窓の外を見たり、店の中を見回したりしているが、今夜は手元を見ていた。

「今夜は、少し疲れていますか?」

「そうかもしれないです」

「仕事ですか」

「仕事もありますが、それだけでもない」

 コーヒーを差し出すと、神崎は受け取った。一口飲んで、少し息をついた。

「最近、体が少し重くて」

 沙耶は動かなかった。

 体が重い。神崎が自分の人生を削って、自分に渡し続けている。その結果として、神崎の体が重くなっているとしたら。

「それは」

沙耶は言いかけた。

「この店と関係しているかもしれないです。クロさんにも確認しようと思っていて」

「確認したことはなかったんですか、今まで」

「あまり考えないようにしていた、という方が正確です」

「なぜですか」

「考えると、続けられなくなりそうだったから」

 沙耶はカウンターを挟んで、神崎を見た。今夜の神崎の顔は、確かに以前より少し違った。目の奥が、少し深くなっていた。目の下が、沙耶に結衣が言ったのと同じように、少し暗かった。

「止めてほしいとは言いません。でも、知らないまま続けることは、お互いに良くない気がします」

「そうですね」

「クロさんが来たら、一緒に聞きましょうか」

「そうします」


 クロが来たのは、八時半頃だった。

 神崎とクロが向き合って、沙耶は横に座った。この配置も、最近は自然になってきていた。

「体のことを、聞いていいですか」

神崎はクロに言った。

「どうぞ」

「最近、少し重い。これは、買い続けていることと関係していますか」

 クロは少し間を置いた。

「関係しています」

「どういう関係ですか」

「神崎さんは、買い続けることで、それを雨宮さんに渡しています。渡す過程で、神崎さん自身が何かを失います。失っているものは、体力ではなく、もっと根本的なものです」

「根本的なもの、というのは」

「生命力、と呼ぶのが一番近いかもしれません。あなたが買うものを渡す時、あなた自身の生命力が少し使われます」

 神崎は頷いた。驚いた様子はなかった。やはりそうか、という顔だった。

「それは、止めれば回復しますか」

「ある程度は。ただ、すでに使われた分は戻りません」

「つまり」

「今まで失ったものは、戻らない。でも、これ以上失わないことはできる」

 神崎は少し間を置いた。

「止めるつもりはないです」

「神崎さん」

沙耶は呼ぶ。

「決めたことなので」

神崎は沙耶を見て伝える。

「でも、知っておきたかっただけです。どういう状態なのかを」

「知った上で、続けるということですか」

「はい」

 沙耶は何か言おうとして、止まった。止めてほしいとは言わない、と自分で言った。でも今夜のクロの言葉を聞いて、止めてほしいとも言えないが、このままでいいとも言えなかった。

「あと、どのくらい続けられますか?」

沙耶はクロに尋ねた。


 クロは少し長く黙った。

「それは、神崎さんの選択次第です」

「選択次第、というのは」

「続ければ、失われるものが増える。やめれば、そこで止まる。どちらを選ぶかは、神崎さんが決めることです」

「限界はありますか?」

「あります」

「その限界に、今はどのくらい近いですか?」

 

クロはまた少し黙った。

「まだ、距離はあります。でも、近づいていることは確かです」

 神崎が少し笑った。

 今夜の笑い方は、声に出さない笑い方だった。困っているわけでも、諦めているわけでもなかった。ただ、状況を受け入れている人間の笑い方だった。

 その声が届く前から、沙耶の中の何かはもう、その呼びかけを知っていたような気がした。

「沙耶」

 神崎が名前を呼んだのは、初めてだった。今まではずっと、雨宮さん、と呼んでいた。沙耶は少し驚いたが、何も言わなかった。

「何ですか?」

「二十年ほど、どこにいるか分からなかった」

「どういう意味ですか?」

「あの事故の後、両親が亡くなって、あなたとは離れ離れになった。どこに行ったか、分からなくなって」

 沙耶は聞いていた。

「私は施設に入って、その後は一人でやってきた。あなたがどこにいるか、探したけれど分からなくて。それが、この店に繋がってから、ようやく居場所が分かった」

「この店が、繋げたんですか?」

「クロさんが教えてくれた」

クロは静かに頷いた。

「あなたがここで店を任されていると知って、それなら来れる、と思った」

「だから来るようになったんですか?」

「そうです。直接会いに行くことはできなかった。あなたが知らない状態で押しかけても、混乱させるだけだと思って」

「この店を選んだのは」

「あなたがいる場所だったから」

 沙耶は少しの間、黙っていた。

 二十年ほど、どこにいるか分からなかった。そういう時間が、神崎にはあった。沙耶は兄がいることすら知らなかった。でも神崎の方は、ずっと知っていた。知っていて、探していた。

「私は、何も知らなかった」

「知らなくて良かったと思っています」

神崎は言う。

「なぜですか?」

「知っていたら、探しに来ていたかもしれない。でも私は、あなたに探しに来てほしくなかった。あなたは普通に生きていてほしかった」

「普通に生きるために、あなたが毎月ここに来ていた」

「そうです」

 沙耶はテーブルの上に両手を置いた。

「普通に生きてきたかどうか、自分では分からないですが」

「生きてきたことが、まず良かった」

 神崎はそれだけ言った。それ以上は言わなかった。でもその言葉の中に、たくさんのものが詰まっていることが、沙耶には分かった。


 九時過ぎに佐伯が来た。

 今夜は神崎とクロと沙耶がテーブルを囲んでいるのを見て、「これは邪魔やな」と言った。

「邪魔じゃないですよ」

沙耶はすぐに答えた。

「なんか、大事な話の途中って感じがするけど」

「終わりました」

「そか」

 佐伯はいつもの席に座って、コーヒーを頼んだ。神崎はカウンターに移動した。三人がテーブルを囲む時間は終わっていた。沙耶はコーヒーを用意しながら、今夜聞いたことをゆっくり頭の中で繰り返した。

 佐伯がコーヒーを受け取りながら、沙耶を見た。

「今夜は、顔が違うな」

「違いますか」

「ちょっと泣いた後みたいな顔してる。泣いてへんやろけど」

「泣いていないです」

「でも、何かあったな」

「少し、大事なことを聞きました」

「この店に関係することか」

「はい」

「自分に関係することか」

 沙耶は少し驚いた。佐伯はいつも、核心に近いところを突く。

「はい」

「そか」

 佐伯はコーヒーを飲んだ。それ以上は聞かなかった。ただ、今夜はいつもより少し長く、カウンターに向かって座っていた。急いで帰ろうとしなかった。それが佐伯なりの、何かへの配慮だということが、沙耶には分かった。


 佐伯が帰ってから、神崎も立ち上がった。

「今夜は、長くなりました」

「いいえ」

「いろいろ話して、すみません」

「謝らないで下さい。聞けて良かったです」

 沙耶は言う。

 神崎はコートを着ながら、少し沙耶を見た。

「一つ聞いていいですか」

「どうぞ」

「この店で、三年間くらい働いてきて。今夜全部を聞いた後で、この店にいる意味が変わりましたか」

 沙耶は少し考えた。

「変わったかもしれない。でも変わる前と変わった後で、どちらがいいという話ではなくて」

「どういう意味ですか」

「知らないでいた時は、この店のことがよく分からなくて、それでもここにいた。今夜全部を知って、やはりここにいる。理由が変わっただけで、ここにいるという事実は変わらないから、それでいい気がします」

 神崎は少し間を置いてから、頷いた。

「そうですね」

「来月も来ますか」

沙耶は尋ねた。

「来ます」

「また話しましょう」

「はい」

 神崎は扉を開けた。二月の夜の空気が入ってきた。先月より少しだけ、寒さの中に柔らかいものが混じっていた。

「沙耶」

「はい」

「早く春になるといいですね」

 それだけ言って、扉が閉まった。


 店に一人になってから、クロが出てきた。

「今夜のことを、どう思いましたか?」

「失われた時間のことを、考えていました」

「どういう意味ですか」

「神崎さんと私の間に、二十年ほどの時間がある。その時間は、もう取り戻せない。知らなかった時間は、知っていた時間にはならない。それは、みずきさんが思い出を取り戻せなかったこととに、少し似ている気がして」

「似ていると思いますか」

「似ているけれど、違う部分もある。みずきさんは、取り戻したかった。私は、失われた時間を取り戻したいとは、あまり思わない」

「なぜですか」

「失われた時間があるから、今夜のことが起きた気がするので。知らなかった時間があったから、今夜初めて聞けた。順番があったんだと思います。神崎さんも、クロさんも、そう言っていたから」

 クロは少し間を置いた。

「それが分かるなら、今夜はいい夜だったと思います」

「そうですね。今夜は、いい夜だったと思います」

 窓の外は、二月の夜だった。

 路地の木の芽は、暗くて見えなかった。でも沙耶にはそこにあることが分かっていた。寒さの中で、次の季節の準備をしている。

 沙耶も、少しずつ準備をしている気がした。

 何の準備なのかは、まだ全部は分からなかった。でも今夜分かったことが、その準備の一部であることだけは、確かだった。

 鍵を手に取って、明かりを消した。

二月の夜の中に、店が静かに沈んでいった。失われた時間は取り戻せない。でも、これから積み重なっていく時間がある。それだけで、今夜は十分だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ