第十二章 失われた時間
神崎が兄だと知った夜から、沙耶は夢を見るようになった。
正確には、夢を見ていたのかもしれない。ただ、目が覚めると消えていた。今まではそれが当たり前だった。夢を見た、という感覚だけが残って、内容は何もない。靄の中に手を入れて、何も掴めないまま引き抜くような感じだった。
でもあの夜からは、少しだけ残るようになった。
断片だった。子どもの声。冬の空の色。誰かの手のひら。それがどこの記憶なのか、いつの記憶なのか、分からない。でも夢の中では、なぜかそれが自分のものだと分かった。知っているものが出てきている、という確信があった。
目が覚めるたびに、沙耶はしばらくそのままでいた。
消えてしまう前に、もう少し覚えていたかった。でも夢というものは、追えば追うほど速く消える。諦めて起き上がると、また靄の中に戻っていた。
それでも、以前とは違った。
何かが、少しずつ戻ってきている気がした。
二月の半ば、結衣が来た。
今日は学校帰りの時間で、ランドセルを背負っていた。裏口を開けると、いつもの顔で「こんにちは」と言って入ってきた。
「今日は顔色が良くないね」
結衣は指摘する。
「そうかな」
「そう。目の下が暗い」
十歳の子どもに言われる言葉としては、ずいぶん正確だった。沙耶は少し笑った。
「夢をよく見るようになって、あまりよく眠れていないのかもしれない」
「どんな夢?」
結衣は椅子に座りながら尋ねた。
「断片的なもので、はっきり覚えていないんだけど。子どもの頃の夢だと思う」
「いい夢? 悪い夢?」
「どちらでもない。ただ、懐かしい感じがする」
結衣はカウンターに肘をついた。
「わたしね、おばあちゃんが夢に出てきたことがある」
「どんな夢だった?」
「笑ってた。それだけ。でも起きたら泣いてた」
「どうして泣いたんだろう」
「分からない。でも悲しい泣き方じゃなかった気がする」
沙耶はホットチョコレートを作りながら、結衣の言葉を繰り返した。悲しい泣き方じゃなかった。夢の中で笑っていた人に会えたから、泣いた。それは悲しみではなく、別の何かだった。
「その夢、また見たい?」
「見たい」
沙耶が尋ねると、結衣はすぐに答えた。
「でもまた見るかどうかは分からないから、一回ちゃんと覚えとこうって思って、起きてすぐノートに書いた」
「賢いね」
「うん」
結衣はホットチョコレートを受け取って、両手で包んだ。
「沙耶さんも書いたら? 夢のこと」
「消えてしまう前に、間に合わないんだよね」
「じゃあ、枕元にノート置いといて。目が覚めた瞬間に書く。そうしたら少し残るかも」
十歳の子どもに、実用的なアドバイスをもらった。沙耶は素直に、そうしてみると答えた。
その夜、神崎が来た。
今月二度目だった。先月から来る頻度が少し上がっている。沙耶はそれに気づいていたが、神崎に聞くべきかどうか迷っていた。神崎がすべてを話してくれた夜の後、神崎の様子が少し変わった気がしていた。隠しているものがなくなった分、以前より話しやすくなった。でも同時に、沙耶の方が何をどう話せばいいか分からなくなっていた。
兄だと分かった人間との距離の取り方を、沙耶は知らなかった。
「こんばんは」
「こんばんは」
神崎はカウンター席に座った。コーヒーを頼んで、沙耶がそれを用意する間、今夜は黙っていた。いつもは窓の外を見たり、店の中を見回したりしているが、今夜は手元を見ていた。
「今夜は、少し疲れていますか?」
「そうかもしれないです」
「仕事ですか」
「仕事もありますが、それだけでもない」
コーヒーを差し出すと、神崎は受け取った。一口飲んで、少し息をついた。
「最近、体が少し重くて」
沙耶は動かなかった。
体が重い。神崎が自分の人生を削って、自分に渡し続けている。その結果として、神崎の体が重くなっているとしたら。
「それは」
沙耶は言いかけた。
「この店と関係しているかもしれないです。クロさんにも確認しようと思っていて」
「確認したことはなかったんですか、今まで」
「あまり考えないようにしていた、という方が正確です」
「なぜですか」
「考えると、続けられなくなりそうだったから」
沙耶はカウンターを挟んで、神崎を見た。今夜の神崎の顔は、確かに以前より少し違った。目の奥が、少し深くなっていた。目の下が、沙耶に結衣が言ったのと同じように、少し暗かった。
「止めてほしいとは言いません。でも、知らないまま続けることは、お互いに良くない気がします」
「そうですね」
「クロさんが来たら、一緒に聞きましょうか」
「そうします」
クロが来たのは、八時半頃だった。
神崎とクロが向き合って、沙耶は横に座った。この配置も、最近は自然になってきていた。
「体のことを、聞いていいですか」
神崎はクロに言った。
「どうぞ」
「最近、少し重い。これは、買い続けていることと関係していますか」
クロは少し間を置いた。
「関係しています」
「どういう関係ですか」
「神崎さんは、買い続けることで、それを雨宮さんに渡しています。渡す過程で、神崎さん自身が何かを失います。失っているものは、体力ではなく、もっと根本的なものです」
「根本的なもの、というのは」
「生命力、と呼ぶのが一番近いかもしれません。あなたが買うものを渡す時、あなた自身の生命力が少し使われます」
神崎は頷いた。驚いた様子はなかった。やはりそうか、という顔だった。
「それは、止めれば回復しますか」
「ある程度は。ただ、すでに使われた分は戻りません」
「つまり」
「今まで失ったものは、戻らない。でも、これ以上失わないことはできる」
神崎は少し間を置いた。
「止めるつもりはないです」
「神崎さん」
沙耶は呼ぶ。
「決めたことなので」
神崎は沙耶を見て伝える。
「でも、知っておきたかっただけです。どういう状態なのかを」
「知った上で、続けるということですか」
「はい」
沙耶は何か言おうとして、止まった。止めてほしいとは言わない、と自分で言った。でも今夜のクロの言葉を聞いて、止めてほしいとも言えないが、このままでいいとも言えなかった。
「あと、どのくらい続けられますか?」
沙耶はクロに尋ねた。
クロは少し長く黙った。
「それは、神崎さんの選択次第です」
「選択次第、というのは」
「続ければ、失われるものが増える。やめれば、そこで止まる。どちらを選ぶかは、神崎さんが決めることです」
「限界はありますか?」
「あります」
「その限界に、今はどのくらい近いですか?」
クロはまた少し黙った。
「まだ、距離はあります。でも、近づいていることは確かです」
神崎が少し笑った。
今夜の笑い方は、声に出さない笑い方だった。困っているわけでも、諦めているわけでもなかった。ただ、状況を受け入れている人間の笑い方だった。
その声が届く前から、沙耶の中の何かはもう、その呼びかけを知っていたような気がした。
「沙耶」
神崎が名前を呼んだのは、初めてだった。今まではずっと、雨宮さん、と呼んでいた。沙耶は少し驚いたが、何も言わなかった。
「何ですか?」
「二十年ほど、どこにいるか分からなかった」
「どういう意味ですか?」
「あの事故の後、両親が亡くなって、あなたとは離れ離れになった。どこに行ったか、分からなくなって」
沙耶は聞いていた。
「私は施設に入って、その後は一人でやってきた。あなたがどこにいるか、探したけれど分からなくて。それが、この店に繋がってから、ようやく居場所が分かった」
「この店が、繋げたんですか?」
「クロさんが教えてくれた」
クロは静かに頷いた。
「あなたがここで店を任されていると知って、それなら来れる、と思った」
「だから来るようになったんですか?」
「そうです。直接会いに行くことはできなかった。あなたが知らない状態で押しかけても、混乱させるだけだと思って」
「この店を選んだのは」
「あなたがいる場所だったから」
沙耶は少しの間、黙っていた。
二十年ほど、どこにいるか分からなかった。そういう時間が、神崎にはあった。沙耶は兄がいることすら知らなかった。でも神崎の方は、ずっと知っていた。知っていて、探していた。
「私は、何も知らなかった」
「知らなくて良かったと思っています」
神崎は言う。
「なぜですか?」
「知っていたら、探しに来ていたかもしれない。でも私は、あなたに探しに来てほしくなかった。あなたは普通に生きていてほしかった」
「普通に生きるために、あなたが毎月ここに来ていた」
「そうです」
沙耶はテーブルの上に両手を置いた。
「普通に生きてきたかどうか、自分では分からないですが」
「生きてきたことが、まず良かった」
神崎はそれだけ言った。それ以上は言わなかった。でもその言葉の中に、たくさんのものが詰まっていることが、沙耶には分かった。
九時過ぎに佐伯が来た。
今夜は神崎とクロと沙耶がテーブルを囲んでいるのを見て、「これは邪魔やな」と言った。
「邪魔じゃないですよ」
沙耶はすぐに答えた。
「なんか、大事な話の途中って感じがするけど」
「終わりました」
「そか」
佐伯はいつもの席に座って、コーヒーを頼んだ。神崎はカウンターに移動した。三人がテーブルを囲む時間は終わっていた。沙耶はコーヒーを用意しながら、今夜聞いたことをゆっくり頭の中で繰り返した。
佐伯がコーヒーを受け取りながら、沙耶を見た。
「今夜は、顔が違うな」
「違いますか」
「ちょっと泣いた後みたいな顔してる。泣いてへんやろけど」
「泣いていないです」
「でも、何かあったな」
「少し、大事なことを聞きました」
「この店に関係することか」
「はい」
「自分に関係することか」
沙耶は少し驚いた。佐伯はいつも、核心に近いところを突く。
「はい」
「そか」
佐伯はコーヒーを飲んだ。それ以上は聞かなかった。ただ、今夜はいつもより少し長く、カウンターに向かって座っていた。急いで帰ろうとしなかった。それが佐伯なりの、何かへの配慮だということが、沙耶には分かった。
佐伯が帰ってから、神崎も立ち上がった。
「今夜は、長くなりました」
「いいえ」
「いろいろ話して、すみません」
「謝らないで下さい。聞けて良かったです」
沙耶は言う。
神崎はコートを着ながら、少し沙耶を見た。
「一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「この店で、三年間くらい働いてきて。今夜全部を聞いた後で、この店にいる意味が変わりましたか」
沙耶は少し考えた。
「変わったかもしれない。でも変わる前と変わった後で、どちらがいいという話ではなくて」
「どういう意味ですか」
「知らないでいた時は、この店のことがよく分からなくて、それでもここにいた。今夜全部を知って、やはりここにいる。理由が変わっただけで、ここにいるという事実は変わらないから、それでいい気がします」
神崎は少し間を置いてから、頷いた。
「そうですね」
「来月も来ますか」
沙耶は尋ねた。
「来ます」
「また話しましょう」
「はい」
神崎は扉を開けた。二月の夜の空気が入ってきた。先月より少しだけ、寒さの中に柔らかいものが混じっていた。
「沙耶」
「はい」
「早く春になるといいですね」
それだけ言って、扉が閉まった。
店に一人になってから、クロが出てきた。
「今夜のことを、どう思いましたか?」
「失われた時間のことを、考えていました」
「どういう意味ですか」
「神崎さんと私の間に、二十年ほどの時間がある。その時間は、もう取り戻せない。知らなかった時間は、知っていた時間にはならない。それは、みずきさんが思い出を取り戻せなかったこととに、少し似ている気がして」
「似ていると思いますか」
「似ているけれど、違う部分もある。みずきさんは、取り戻したかった。私は、失われた時間を取り戻したいとは、あまり思わない」
「なぜですか」
「失われた時間があるから、今夜のことが起きた気がするので。知らなかった時間があったから、今夜初めて聞けた。順番があったんだと思います。神崎さんも、クロさんも、そう言っていたから」
クロは少し間を置いた。
「それが分かるなら、今夜はいい夜だったと思います」
「そうですね。今夜は、いい夜だったと思います」
窓の外は、二月の夜だった。
路地の木の芽は、暗くて見えなかった。でも沙耶にはそこにあることが分かっていた。寒さの中で、次の季節の準備をしている。
沙耶も、少しずつ準備をしている気がした。
何の準備なのかは、まだ全部は分からなかった。でも今夜分かったことが、その準備の一部であることだけは、確かだった。
鍵を手に取って、明かりを消した。
二月の夜の中に、店が静かに沈んでいった。失われた時間は取り戻せない。でも、これから積み重なっていく時間がある。それだけで、今夜は十分だった。




