第十一章 沙耶の過去
年が明けた。
路地の細い木に、小さな芽が出始めていた。十二月に葉を落として、一月の寒さの中でずっと枝だけだったのに、二月に入ってから少しずつ変わり始めた。沙耶は毎晩その木の前を通るから、変化に気づくのが早かった。最初は枝の先が少し膨らんでいる程度だった。それが一週間で、小さな緑色の点になった。
寒い中で、ちゃんと次の季節の準備をしていた。
沙耶はその木を見るたびに、何かを確かめている気持ちになった。自分でも何を確かめているのか分からなかったが、見ないと落ち着かなかった。
自分のためにこの店があると知った夜から、沙耶の中で何かが変わっていた。
変わった、というより、動き始めた、という感じだった。止まっていた水が流れ始めるような。静かだけれど、確実に動いている。自分の人生が何で出来ているか。クロに言われたその言葉が、眠っている間も、起きている間も、ずっと頭のどこかにあった。
神崎が守りたいのは、自分かもしれない。
自分は子どもの頃、事故に遭った。
その二つが分かって、それ以上はまだ分からない。でも分かったことの重さが、じわじわと時間をかけて沁みてくる感じがあった。
二月の最初の週、神崎が来た。
先月は一度来ていた。今月も同じペースで来るつもりなのだろうと、沙耶は思っていた。扉が開いた瞬間に神崎だと分かった。コートの色と、入り方と、気配で分かるようになっていた。
「いらっしゃいませ」
「こんばんは」
神崎はカウンター席に座った。コーヒーをブラックで頼んだ。沙耶がそれを用意しながら、今夜は何か聞こうと思っていた。前回は準備が、と言われた。準備ができているかどうかは今もよく分からない。でも、聞かずに終わる夜をこれ以上続けたくなかった。
「少し、聞いていいですか」
神崎はコーヒーを受け取りながら、「どうぞ」と言った。
「先月、私が子どもの頃、事故に遭ったと、クロさんから聞きました」
神崎は少し動いた。動き方が小さかったが、沙耶は見逃さなかった。
「知っていましたか」
「はい」
「やはり、関係していたんですね」
「はい」
神崎はコーヒーカップを両手で包んだ。今夜の手の置き方が、いつもと違った。何かを持つように、あるいは何かを確かめるように、少し強く包んでいた。
「今夜、話しますか」
「あなたが聞きたいなら」
「聞きたいです」
神崎は少し間を置いた。
「クロさんは、今夜は来ますか」
「来ると思います」
「それなら、クロさんが来てから話した方がいいかもしれない」
「なぜですか」
「私だけが知っていることと、クロさんだけが知っていることが、両方あるので」
クロが現れたのは、八時頃だった。
今夜は珍しく、神崎とクロが同じテーブルに着いた。沙耶はカウンターの外に出て、二人と向き合う席に座った。三人でテーブルを囲むのは、初めてのことだった。
店には他に誰もいなかった。佐伯は今夜来ない予感があった。こういう夜は、来なくていい、と沙耶は思った。今夜は三人だけでいい。
「話します」
神崎は言うと、クロは頷いた。
神崎は少し息を整えてから、口を開いた。
「雨宮さん、あなたには兄がいます」
沙耶は動かなかった。
兄。その言葉が、頭の中で一度だけ転がった。兄がいる。兄がいた、ではなく、いる。
「知らなかったですか」
クロが尋ねた。
「知らなかったです」
沙耶の声が少し乾いていた。
「親戚の話を聞いたことがほとんどなかったので。両親が早くに亡くなって、親戚とも縁が薄くて」
「両親が亡くなったのは、あなたが十歳の頃です。兄はその時、十五歳でした」
「五つ上の兄」
「はい」
「なぜ、知らなかったんですか。一緒にいたはずなのに」
クロと神崎が、少し視線を交わした。沙耶はそれを見た。
「それは」
神崎が言いかけた。
「私ですか」
沙耶は自分で言った。言ってから、確信に近いものがあることに気づいた。
「私の兄が、あなたですか?」
神崎は答えなかった。
でも、答えない顔ではなかった。答える前の、一拍の間だった。
「はい」
神崎は答えた。
沙耶はしばらく、何も言えなかった。
神崎正真が、自分の兄。
この店で初めて会ったのが先月で、それ以前には会った記憶がない。でも兄がいる。兄はずっと、この店に来ていた。自分が任されているこの店に、兄が毎月来て、何かを買い続けていた。
「なぜ、名乗らなかったんですか?」
沙耶の声が思ったより平らだった。怒っているわけではなかった。ただ、知りたかった。
「名乗れなかった。名乗れる状態じゃなかった、という方が正確です」
「どういう意味ですか」
「名乗れば、全部を話さなければならなくなる。でも全部を話すには、あなたがまだ知らなければならないことがあった。順番があると思っていました」
「順番」
「この店で何が行われているか、人生の売買がどういうことかを、あなた自身が理解してからでないと、話しても意味がないと思って」
沙耶は少し間を置いた。
「クロさんは、知っていましたか?」
「はい。神崎さんが最初にここに来た時、私は知っていました」
「なぜ教えてくれなかったんですか」
「あなたが自分で気づく順番を、待っていました。教えられて知ることと、自分でたどり着くことは、同じではないので」
それも順番、という言葉だった。クロも神崎も、同じ言葉を使った。二人は何かを合わせていた。あるいは、二人が同じことを信じていた。
神崎が話し始めた。
ゆっくりとした話し方だった。急がなかった。沙耶が全部を聞けるように、一つずつ置いていくような話し方だった。
「あなたが七歳の時、事故がありました」
「はい」
「冬でした。あなたと私が、一緒に歩いていた。私は十二歳だった。夕方で、道が凍っていた。車が来て、あなたに気づかなくて」
沙耶は黙って聞いた。
「私は間に合わなかった。あなたを突き飛ばして助けようとしたけれど、完全には間に合わなかった。あなたは頭を打って、しばらく意識がなかった。医者には、助からないかもしれないと言われた」
「でも助かった」
「助かりました。奇跡みたいな確率で、と当時も言われていました。私はその奇跡の理由を、長い間知らなかった」
「知らなかった」
「後になって分かった。この店のことを、私が知ったのはずっと後のことで。あなたが助かったのは、誰かがこの店で何かを売ったからだと分かったのは、私が大人になってからです」
沙耶は、息を整えた。
「誰が売ったんですか?」
神崎とクロが、また視線を交わした。今度の視線は少し長かった。
「お母さんです」
クロはゆっくりと伝えた。
お母さん。
沙耶の母親は、沙耶が十歳の時に亡くなっている。病気だった。あまり記憶がない。子どもだったせいもあるが、記憶の薄さの理由がそれだけではない気がしていた。
「母が、何を売ったんですか?」
「寿命です。あなたの事故の直後、お母さんはこの店に来ました。あなたを助けるために、自分の寿命の一部を売りました」
「それが、私に渡された」
「はい。あなたの回復は、お母さんが手放したものの上に成り立っています」
「だから、母は早く亡くなった」
「寿命を売れば、その分だけ短くなります。お母さんはそれを知った上で、売りました」
沙耶はテーブルの上に両手を置いた。
知った上で、売った。娘を助けるために、自分の寿命を売った。そしてそのことを、売った人間は忘れる。
「母は、忘れたんですね。売ったことを」
「はい。お母さんは、自分がなぜ体が弱くなっていくのか、知らないまま亡くなりました」
沙耶は目を閉じた。
何秒か、そのままでいた。
目を閉じていると、母親の顔が出てくるかと思った。でも出てこなかった。記憶が薄すぎて、輪郭がはっきりしなかった。声も、手のぬくもりも、思い出せなかった。それがかえって、今夜は痛かった。
もっとちゃんと覚えていれば良かった、と初めて強く思った。
「母に、感謝を伝えることができない。覚えていないから」
「はい」
「それは、残酷だと思いますか」
クロは少し間を置いた。
「残酷だとは、思わないです」
「なぜですか」
「お母さんは、感謝されるために売ったわけではないので。あなたに生きていてほしかったから、売った。あなたが今、生きている。それが、すでに答えです」
沙耶は目を開けた。
神崎を見た。神崎は黙って、沙耶を見ていた。今夜の神崎の目は、この店で初めて会った時とは違う色をしていた。隠しているものがなくなった目だった。全部を話してしまった人間の、静かな目だった。
「あなたは、母が売ったことを知って、それからここに来るようになったんですか?」
「はい。お母さんが売ったことで、あなたは助かった。でも、お母さんはもういない。私は間に合わなかった。だから、自分にできることをしようと思った」
「買い続けることが、あなたにできることだった」
「守れるうちは、守りたかった」
沙耶はしばらく黙っていた。
神崎が買い続けているものは、誰かが売ったものだとクロは言っていた。それを神崎が買って、沙耶の人生を支えるために使っている。
「神崎さんが買っているものは、私に届いているんですか?」
「届いています。あなたが今、健康でいられるのは、神崎さんが買い続けているものの影響があります」
「私は何も知らないまま、受け取っていた」
「はい」
沙耶は少し間を置いた。
「それは、止めることができますか」
神崎が少し動いた。
「止めてほしいですか」
神崎は尋ねる。
「止めてほしいというより……」
沙耶は言葉を選んだ。
「知らないまま受け取り続けることが、正しいのかどうか。今夜から私は知ってしまったので、知っていて受け取り続けることが、どういうことなのか、まだ分からなくて」
「それは、考える時間が必要ですか」
「少し、必要かもしれないです」
神崎は頷いた。
「急がなくていいです。私は続けます。あなたが結論を出すまで、続けます」
「それは」
「私が決めたことなので、あなたが気にしなくていいです」
沙耶はその言葉を聞いて、少し複雑な気持ちになった。気にしなくていい、と言われても、気にしないでいられるわけがなかった。でも、今夜それを全部整理することはできなかった。
九時を過ぎて、神崎が帰った。
扉を出る前に、神崎は少し振り返った。
「一つだけ」
「はい」
「お母さんのことは、覚えていなくていいと思います」
沙耶は神崎を見た。
「覚えていなくても、あなたの中に残っているものがある。忘れても、なくなるわけじゃない。この店で、それは分かったんじゃないですか」
沙耶は答えなかった。
でも、頷いた。
神崎は頷き返して、扉を出た。十二月の夜のような冷たさではなく、二月の夜の空気が少しだけ流れ込んで、扉が閉まった。
クロと二人になった。
沙耶はしばらく、テーブルの木目を見ていた。
「今夜分かったことを、整理する時間が必要ですか」
「必要です。でも一つだけ、今夜聞かせて下さい」
「どうぞ」
「母が売ったことで、私は助かった。神崎さんが買い続けることで、私は健康でいられる。私の人生は、二人の人間の上に乗っている。でも私は、それを受け取るだけでいいんですか」
クロは少し考えた。
「受け取るだけ、ということはないと思います」
「では、私は何をすればいいですか」
「あなたが、ちゃんと生きることです」
沙耶は顔を上げた。
「ちゃんと生きる、というのは」
「自分の人生が誰かの上に乗っていると知った上で、それでも自分の人生として生きること。誰かに申し訳ないと縮こまって生きることでも、感謝だけで生きることでもなく、ただ、自分の人生を自分のものとして、ちゃんと生きること」
沙耶はその言葉を、ゆっくり聞いた。
自分の人生を、自分のものとして。
「私はこの三年、自分の人生にあまり執着がないと思っていました」
「知っています」
「でも今夜から、少し変わるかもしれない」
「変わればいいと思います」
沙耶は窓の外を見た。二月の夜の路地に、街灯の光が落ちていた。路地の木の先に、小さな芽があった。暗くて見えないが、沙耶にはそこにあることが分かっていた。
自分の人生が、何で出来ているか。
クロが言っていた問いの答えが、今夜、少し見えた。
寿命と、愛情と、誰かの選択と。
そういうものが積み重なって、今夜の自分がある。それは重いことかもしれない。でも重さは、悪いことではない。重さがあるということは、それだけのものが乗っているということで、乗っているものがあるということは、渡してくれた人がいるということだから。
沙耶は鍵を手に取った。
明かりを一つずつ消しながら、今夜のことを頭の中で繰り返した。
兄がいた。母が何かを売っていた。自分の人生は、誰かの人生の上に乗っている。
それを知った今夜から、沙耶の夜が少し変わる。重くなるのではなく、輪郭が出てくる。自分の人生の形が、少しだけはっきりする。
店の最後の明かりが消えた。
二月の夜は、まだ冷えていた。でも路地の木の芽は、確かにそこにあった。寒さの中で、次の季節の準備をしていた。
沙耶も、少しだけ、そういう気持ちになっていた。




