表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夜だけ開く人生の店 ――寿命・未来・思い出、売買できます  作者: 明石竜


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

11/16

第十一章 沙耶の過去

 年が明けた。

 路地の細い木に、小さな芽が出始めていた。十二月に葉を落として、一月の寒さの中でずっと枝だけだったのに、二月に入ってから少しずつ変わり始めた。沙耶は毎晩その木の前を通るから、変化に気づくのが早かった。最初は枝の先が少し膨らんでいる程度だった。それが一週間で、小さな緑色の点になった。

 寒い中で、ちゃんと次の季節の準備をしていた。

 沙耶はその木を見るたびに、何かを確かめている気持ちになった。自分でも何を確かめているのか分からなかったが、見ないと落ち着かなかった。

 自分のためにこの店があると知った夜から、沙耶の中で何かが変わっていた。

 変わった、というより、動き始めた、という感じだった。止まっていた水が流れ始めるような。静かだけれど、確実に動いている。自分の人生が何で出来ているか。クロに言われたその言葉が、眠っている間も、起きている間も、ずっと頭のどこかにあった。

 神崎が守りたいのは、自分かもしれない。 

 自分は子どもの頃、事故に遭った。

 その二つが分かって、それ以上はまだ分からない。でも分かったことの重さが、じわじわと時間をかけて沁みてくる感じがあった。


 二月の最初の週、神崎が来た。

 先月は一度来ていた。今月も同じペースで来るつもりなのだろうと、沙耶は思っていた。扉が開いた瞬間に神崎だと分かった。コートの色と、入り方と、気配で分かるようになっていた。

「いらっしゃいませ」

「こんばんは」

 神崎はカウンター席に座った。コーヒーをブラックで頼んだ。沙耶がそれを用意しながら、今夜は何か聞こうと思っていた。前回は準備が、と言われた。準備ができているかどうかは今もよく分からない。でも、聞かずに終わる夜をこれ以上続けたくなかった。

「少し、聞いていいですか」

 神崎はコーヒーを受け取りながら、「どうぞ」と言った。

「先月、私が子どもの頃、事故に遭ったと、クロさんから聞きました」

 神崎は少し動いた。動き方が小さかったが、沙耶は見逃さなかった。

「知っていましたか」

「はい」

「やはり、関係していたんですね」

「はい」

 神崎はコーヒーカップを両手で包んだ。今夜の手の置き方が、いつもと違った。何かを持つように、あるいは何かを確かめるように、少し強く包んでいた。

「今夜、話しますか」

「あなたが聞きたいなら」

「聞きたいです」

 神崎は少し間を置いた。

「クロさんは、今夜は来ますか」

「来ると思います」

「それなら、クロさんが来てから話した方がいいかもしれない」

「なぜですか」

「私だけが知っていることと、クロさんだけが知っていることが、両方あるので」


 クロが現れたのは、八時頃だった。

 今夜は珍しく、神崎とクロが同じテーブルに着いた。沙耶はカウンターの外に出て、二人と向き合う席に座った。三人でテーブルを囲むのは、初めてのことだった。

 店には他に誰もいなかった。佐伯は今夜来ない予感があった。こういう夜は、来なくていい、と沙耶は思った。今夜は三人だけでいい。

「話します」

神崎は言うと、クロは頷いた。

 神崎は少し息を整えてから、口を開いた。

「雨宮さん、あなたには兄がいます」

 沙耶は動かなかった。

 兄。その言葉が、頭の中で一度だけ転がった。兄がいる。兄がいた、ではなく、いる。

「知らなかったですか」

クロが尋ねた。

「知らなかったです」

沙耶の声が少し乾いていた。

「親戚の話を聞いたことがほとんどなかったので。両親が早くに亡くなって、親戚とも縁が薄くて」

「両親が亡くなったのは、あなたが十歳の頃です。兄はその時、十五歳でした」

「五つ上の兄」

「はい」

「なぜ、知らなかったんですか。一緒にいたはずなのに」

 クロと神崎が、少し視線を交わした。沙耶はそれを見た。

「それは」

神崎が言いかけた。

「私ですか」

 沙耶は自分で言った。言ってから、確信に近いものがあることに気づいた。

「私の兄が、あなたですか?」

 神崎は答えなかった。

 でも、答えない顔ではなかった。答える前の、一拍の間だった。

「はい」

神崎は答えた。


 沙耶はしばらく、何も言えなかった。

 神崎正真が、自分の兄。

 この店で初めて会ったのが先月で、それ以前には会った記憶がない。でも兄がいる。兄はずっと、この店に来ていた。自分が任されているこの店に、兄が毎月来て、何かを買い続けていた。

「なぜ、名乗らなかったんですか?」

 沙耶の声が思ったより平らだった。怒っているわけではなかった。ただ、知りたかった。

「名乗れなかった。名乗れる状態じゃなかった、という方が正確です」

「どういう意味ですか」

「名乗れば、全部を話さなければならなくなる。でも全部を話すには、あなたがまだ知らなければならないことがあった。順番があると思っていました」

「順番」

「この店で何が行われているか、人生の売買がどういうことかを、あなた自身が理解してからでないと、話しても意味がないと思って」

 沙耶は少し間を置いた。

「クロさんは、知っていましたか?」

「はい。神崎さんが最初にここに来た時、私は知っていました」

「なぜ教えてくれなかったんですか」

「あなたが自分で気づく順番を、待っていました。教えられて知ることと、自分でたどり着くことは、同じではないので」

 それも順番、という言葉だった。クロも神崎も、同じ言葉を使った。二人は何かを合わせていた。あるいは、二人が同じことを信じていた。


 神崎が話し始めた。

 ゆっくりとした話し方だった。急がなかった。沙耶が全部を聞けるように、一つずつ置いていくような話し方だった。

「あなたが七歳の時、事故がありました」

「はい」

「冬でした。あなたと私が、一緒に歩いていた。私は十二歳だった。夕方で、道が凍っていた。車が来て、あなたに気づかなくて」

 沙耶は黙って聞いた。

「私は間に合わなかった。あなたを突き飛ばして助けようとしたけれど、完全には間に合わなかった。あなたは頭を打って、しばらく意識がなかった。医者には、助からないかもしれないと言われた」

「でも助かった」

「助かりました。奇跡みたいな確率で、と当時も言われていました。私はその奇跡の理由を、長い間知らなかった」

「知らなかった」

「後になって分かった。この店のことを、私が知ったのはずっと後のことで。あなたが助かったのは、誰かがこの店で何かを売ったからだと分かったのは、私が大人になってからです」

 沙耶は、息を整えた。

「誰が売ったんですか?」

 神崎とクロが、また視線を交わした。今度の視線は少し長かった。

「お母さんです」

クロはゆっくりと伝えた。


 お母さん。

 沙耶の母親は、沙耶が十歳の時に亡くなっている。病気だった。あまり記憶がない。子どもだったせいもあるが、記憶の薄さの理由がそれだけではない気がしていた。

「母が、何を売ったんですか?」

「寿命です。あなたの事故の直後、お母さんはこの店に来ました。あなたを助けるために、自分の寿命の一部を売りました」

「それが、私に渡された」

「はい。あなたの回復は、お母さんが手放したものの上に成り立っています」

「だから、母は早く亡くなった」

「寿命を売れば、その分だけ短くなります。お母さんはそれを知った上で、売りました」

 沙耶はテーブルの上に両手を置いた。

 知った上で、売った。娘を助けるために、自分の寿命を売った。そしてそのことを、売った人間は忘れる。

「母は、忘れたんですね。売ったことを」

「はい。お母さんは、自分がなぜ体が弱くなっていくのか、知らないまま亡くなりました」

 沙耶は目を閉じた。

 何秒か、そのままでいた。

 目を閉じていると、母親の顔が出てくるかと思った。でも出てこなかった。記憶が薄すぎて、輪郭がはっきりしなかった。声も、手のぬくもりも、思い出せなかった。それがかえって、今夜は痛かった。

 もっとちゃんと覚えていれば良かった、と初めて強く思った。

「母に、感謝を伝えることができない。覚えていないから」

「はい」

「それは、残酷だと思いますか」

 クロは少し間を置いた。

「残酷だとは、思わないです」

「なぜですか」

「お母さんは、感謝されるために売ったわけではないので。あなたに生きていてほしかったから、売った。あなたが今、生きている。それが、すでに答えです」

 沙耶は目を開けた。

 神崎を見た。神崎は黙って、沙耶を見ていた。今夜の神崎の目は、この店で初めて会った時とは違う色をしていた。隠しているものがなくなった目だった。全部を話してしまった人間の、静かな目だった。

「あなたは、母が売ったことを知って、それからここに来るようになったんですか?」

「はい。お母さんが売ったことで、あなたは助かった。でも、お母さんはもういない。私は間に合わなかった。だから、自分にできることをしようと思った」

「買い続けることが、あなたにできることだった」

「守れるうちは、守りたかった」

 沙耶はしばらく黙っていた。

 神崎が買い続けているものは、誰かが売ったものだとクロは言っていた。それを神崎が買って、沙耶の人生を支えるために使っている。

「神崎さんが買っているものは、私に届いているんですか?」 

「届いています。あなたが今、健康でいられるのは、神崎さんが買い続けているものの影響があります」

「私は何も知らないまま、受け取っていた」

「はい」

 沙耶は少し間を置いた。

「それは、止めることができますか」

 神崎が少し動いた。

「止めてほしいですか」

神崎は尋ねる。

「止めてほしいというより……」

沙耶は言葉を選んだ。

「知らないまま受け取り続けることが、正しいのかどうか。今夜から私は知ってしまったので、知っていて受け取り続けることが、どういうことなのか、まだ分からなくて」

「それは、考える時間が必要ですか」

「少し、必要かもしれないです」

 神崎は頷いた。

「急がなくていいです。私は続けます。あなたが結論を出すまで、続けます」

「それは」

「私が決めたことなので、あなたが気にしなくていいです」

 沙耶はその言葉を聞いて、少し複雑な気持ちになった。気にしなくていい、と言われても、気にしないでいられるわけがなかった。でも、今夜それを全部整理することはできなかった。


 九時を過ぎて、神崎が帰った。

 扉を出る前に、神崎は少し振り返った。

「一つだけ」

「はい」

「お母さんのことは、覚えていなくていいと思います」

 沙耶は神崎を見た。

「覚えていなくても、あなたの中に残っているものがある。忘れても、なくなるわけじゃない。この店で、それは分かったんじゃないですか」

 沙耶は答えなかった。

 でも、頷いた。

 神崎は頷き返して、扉を出た。十二月の夜のような冷たさではなく、二月の夜の空気が少しだけ流れ込んで、扉が閉まった。


 クロと二人になった。

 沙耶はしばらく、テーブルの木目を見ていた。

「今夜分かったことを、整理する時間が必要ですか」

「必要です。でも一つだけ、今夜聞かせて下さい」

「どうぞ」

「母が売ったことで、私は助かった。神崎さんが買い続けることで、私は健康でいられる。私の人生は、二人の人間の上に乗っている。でも私は、それを受け取るだけでいいんですか」

 クロは少し考えた。

「受け取るだけ、ということはないと思います」

「では、私は何をすればいいですか」

「あなたが、ちゃんと生きることです」

 沙耶は顔を上げた。

「ちゃんと生きる、というのは」

「自分の人生が誰かの上に乗っていると知った上で、それでも自分の人生として生きること。誰かに申し訳ないと縮こまって生きることでも、感謝だけで生きることでもなく、ただ、自分の人生を自分のものとして、ちゃんと生きること」

 沙耶はその言葉を、ゆっくり聞いた。

 自分の人生を、自分のものとして。

「私はこの三年、自分の人生にあまり執着がないと思っていました」

「知っています」

「でも今夜から、少し変わるかもしれない」

「変わればいいと思います」

 沙耶は窓の外を見た。二月の夜の路地に、街灯の光が落ちていた。路地の木の先に、小さな芽があった。暗くて見えないが、沙耶にはそこにあることが分かっていた。

 自分の人生が、何で出来ているか。

 クロが言っていた問いの答えが、今夜、少し見えた。

 寿命と、愛情と、誰かの選択と。

 そういうものが積み重なって、今夜の自分がある。それは重いことかもしれない。でも重さは、悪いことではない。重さがあるということは、それだけのものが乗っているということで、乗っているものがあるということは、渡してくれた人がいるということだから。

 沙耶は鍵を手に取った。

 明かりを一つずつ消しながら、今夜のことを頭の中で繰り返した。

 兄がいた。母が何かを売っていた。自分の人生は、誰かの人生の上に乗っている。

 それを知った今夜から、沙耶の夜が少し変わる。重くなるのではなく、輪郭が出てくる。自分の人生の形が、少しだけはっきりする。

 店の最後の明かりが消えた。

 二月の夜は、まだ冷えていた。でも路地の木の芽は、確かにそこにあった。寒さの中で、次の季節の準備をしていた。

 沙耶も、少しだけ、そういう気持ちになっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ