表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夜だけ開く人生の店 ――寿命・未来・思い出、売買できます  作者: 明石竜


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

10/16

第十章 店の真実

 十二月の第三週に入ると、街は急に騒がしくなった。

 駅前にイルミネーションが灯り、商店街にはクリスマスの飾りが並んだ。沙耶が夕方に起きて店へ向かう道にも、どこかから音楽が聞こえてくるようになった。陽気な曲だった。沙耶には少し遠い音楽だったが、嫌いではなかった。

 ただ、店のある路地だけは、変わらなかった。

 イルミネーションも、飾りも、音楽もなかった。街灯がひとつあって、石畳があって、葉のない木があった。沙耶はその静けさが、この時期は特にありがたかった。騒がしい街から切り離された場所に、夜だけ自分の場所がある。それが今の沙耶の生活だった。

 店の鍵を開けながら、今夜はクロに聞こうと思った。

 前回、近い、と言った。自分の人生が何で出来ているかを知る日が、近いと言った。それから一週間が経った。一週間分、何かが近づいているはずだった。


 七時になって店を開けたが、最初の一時間は誰も来なかった。

 珍しいことではなかった。客のない夜もある。佐伯も来ない夜もある。沙耶は一人でカウンターに立ち、帳簿を見返した。開店から今日まで三年分の記録がある。日付と名前と売買内容。それだけが並んでいる。

 読み返すと、様々な人間が来たことが分かる。

 二十代の女性が、恋愛の記憶を売った夜。五十代の男性が、仕事への情熱を売った夜。老夫婦が二人で来て、片方が寿命を、片方が思い出を売った夜。買いに来た人間は少なかった。神崎以外では、先月の村越だけだった。

 帳簿を閉じて、沙耶はカウンターに肘をついた。

 この記録が何のためにあるのか、三年間考えたことがなかった。記録しろと言われたから記録してきた。でも、誰かがこれを見るのか、この記録が何かに使われるのか、一度も説明されなかった。

 クロが奥から出てきたのは、その時だった。

 今夜は早かった。まだ客もいない。珍しいことだった。

「今夜は早いですね」

「少し話したいことがあって」

 沙耶は帳簿をそっと置いた。


 クロはカウンターの中ではなく、客側の椅子に座った。

 それも珍しかった。クロはいつも、カウンターの中にいるか、客と向き合うテーブルの側にいる。客と同じ側に座ることは、今まで一度もなかった。

 沙耶はカウンターを挟んで、向かい側に立った。

「お茶でも」

「いいえ、結構です」

 クロは少し間を置いた。

「雨宮さん、この店が存在する理由を、どう思っていましたか」

 沙耶は少し驚いた。クロの方から、そういう問いを立てることは少なかった。

「売買をするためだと思っていました」

「それだけですか」

「それだけではないと、思ってはいました。でも、それ以上のことは分からなかった」

「今夜、話します」

 沙耶は動かなかった。

「この店が、何のために存在しているかを」

「はい」

「怖いですか」

 沙耶は少し考えた。怖いかどうか。正直に言えば、怖い、という感覚はなかった。ただ、聞いたら何かが変わるという予感があった。変わることへの覚悟が、まだ足りているかどうか分からなかった。

「怖くはないです。ただ、聞いた後で、今まで通りでいられるかどうか分からない」

「今まで通りでいる必要はないです。むしろ、変わることが必要な時期に来ています」

「必要な時期」

「はい」

 クロは両手をテーブルの上に置いた。

「この店は、人生が必要な人の前に現れます。場所は固定されていない。今夜この路地にあっても、明日は別の場所にあることがある」

「知っていました。でも、この三年ほどでここが移動したことは一度もなかった」

「そうです。なぜだと思いますか」

 沙耶は考えた。この三年ほど、店は動かなかった。路地のこの場所に、ずっとあった。それは、ここに人生が必要な人がいるからではないか。

「私がここにいるから、ですか?」

「そうです」

 沙耶は息を吸った。

「私に、人生が必要だから、この店はここにある」

「正確には、あなたのために、この店はここに来た。三年ほど前に」


 三年ほど前。

 沙耶が店の前で倒れていた夜のことを、今でも断片的に覚えている。

 冬だった。十二月だったか一月だったか、はっきりしない。路地に倒れていて、気づいたら店の中にいた。クロが紅茶を差し出していた。なぜあの路地にいたのか、なぜ倒れたのか、前後の記憶がない。

「私が倒れたのは、偶然じゃなかったんですか?」

「偶然ではないです。あの夜、あなたは限界だったんです」

「限界」

「体のことではなく。あなたは長い間、自分の人生に理由を見つけられないでいた。理由がないまま生きることへの疲労が、あの夜、限界に達した」

 沙耶は黙っていた。

 否定できなかった。あの夜のことは覚えていないが、あの夜以前の感覚は覚えている。何のために生きているのか、分からなかった。分からなくても生きていたが、それがいつまで続くのかも分からなかった。

「この店は、そういう人の前に現れます。人生の売買をしに来る客だけではなく、人生の意味を探している人の前にも」

「私は、売買をしに来たわけではなかった」

「来たのではなく、たどり着いた、という方が近いです。あなたは客ではなかった。だから私は、店を任せた」

「なぜ任せたんですか?」

「あなたに、見てほしかったから」

「何を」

「人生を手放す人、人生を買う人、人生の断片を取り戻せないと知る人。そういう人たちを、あなた自身の目で見てほしかった」

 沙耶はカウンターに両手をついた。

「それは、私のためですか。それとも、何か別の理由がありますか?」

 クロは少し間を置いた。

「両方です」


 八時を過ぎて、佐伯が来た。

 今夜は早かった。扉を開けて、クロが客側の椅子に座っているのを見て、少し驚いた顔をした。

「珍しいな」

「少し、話していました」

 クロが伝える。

「じゃあ邪魔したか」

「いいえ、続きは後で聞きます」

沙耶は言う。 

 佐伯はいつもの席に座って、コーヒーを頼んだ。クロはカウンターの内側に戻った。沙耶がコーヒーを用意する間、佐伯は店の中を見回した。

「なんか、今夜は雰囲気違うな」

「そうですか」

「空気が違う。何かあったか」

「少し、大事な話を聞いていた所です」

「この店のことか」

「はい」

 佐伯はコーヒーを受け取って、一口飲んだ。それから沙耶を見た。

「顔色は悪くないな」

「悪くないですよ」

「そか。大事な話を聞いた後で顔色が悪くなる人間もいるから、確認したかった」

 佐伯らしい確認の仕方だった。沙耶は少し笑った。

「心配してくれているんですか」

「まあな。三年も来とったら、いろいろ気になる」


 佐伯がコーヒーを飲んでいる間に、九時近くなって、客が一人来た。

 四十代の女性だった。落ち着いた服装で、表情は硬かった。沙耶が案内して、クロが対応した。今夜の売買は短かった。女性は何かを売って、静かに帰っていった。沙耶は帳簿に記録した。

 客が帰ってから、佐伯がぽつりと言った。

「この店に来る人って、みんな何か抱えとるな」

「そうですね」

「売ることで、楽になってるんかな」

「楽になる人もいると思います。でも」

「でも」

「忘れても、失ったことだけは残る。だから楽になりきれない人もいるかもしれない」

 佐伯は少し考えた。

「それでも売るのは、持ち続けることの方が辛いからか」

「そう思います」

「難儀やな、人間は」

「そうですね」

 佐伯はカップを置いた。

「俺が売らへんのはな、売るほど辛いものが、今の所ないからや」

「それは、良いことだと思います」

「良いのかどうか分からんけど。ただ、この店に来て、売ったり買ったりしてる人を見とると、自分はまだ持っとけるなって思う。それが確認できるだけで、来た意味がある」

 沙耶はその言葉を聞きながら、クロが言っていたことを思い出した。人生の意味を探している人の前にも、店は現れる。佐伯もそういう一人なのかもしれない。売り買いはしないが、ここに来ることで、自分の人生の確認をしている。


 佐伯が帰ってから、店に沙耶とクロだけになった。

 沙耶は帳簿を閉じて、クロを見た。

「続きを、聞いてもいいですか?」

「はい」

「この店が私のためにここに来た。私に、人生を手放す人たちを見てほしかった。それは、私が自分の人生の意味を見つけるためですか?」

「それもあります。でも、もう一つあります」

「もう一つ」

「あなたには、知らなければならないことがある」

「何を」

 クロは少し間を置いた。今夜の間の置き方は、いつもより重かった。

「あなたの人生は、あなただけのものではないかもしれない」

 沙耶は動かなかった。

「どういう意味ですか」

「この店で、人生が売買されます。寿命が売られ、未来が売られ、思い出が売られます。買われた人生は、別の誰かのものになる」

「はい」

「あなたは、この三年ほどで多くの売買を見てきた。その中で、買われた人生がどこへ行くか、考えたことがありましたか」

 沙耶は少し考えた。人生の仲介業みたいなもの、と佐伯がかつて言っていたことが蘇った。売る人と買う人がいて、この店はその間に立っている。

「買われた人生は、買った人のものになる、と思っていました」

「そうです。神崎さんが買い続けているものも、誰かが売ったものです」

「誰かが」

「あなたの周りにいた人が、売ったものです」

 沙耶の手が、わずかに動いた。

「私の周りにいた人が、私の知らないうちに、何かを売った」

「はい」

「それを、神崎さんが買っている」

「正確には、神崎さんは買うことで、それをあなたに渡しています」

 沙耶は息をのんだ。

「渡す、というのは」

「神崎さんが買ったものは、最終的にあなたの人生を支えるために使われます。神崎さん自身がそれを選んでいる」

 沙耶は頭の中で、神崎の言葉を繰り返した。守りたい人がいる。できることを全部やりたい。届くかどうかは別として。助かった命は、ずっと続く。

「神崎さんが守りたいのは、私ですか?」

 クロは答えなかった。

 答えないことが、答えだった。


 沙耶はしばらく、何も言えなかった。

 カウンターに手をついたまま、動かなかった。神崎が守りたい人間が自分だとすれば、神崎は自分とどういう関係なのか。会ったことがないはずだった。先月、初めてこの店で会った。それ以前には、会った記憶がない。

 でも子どもの頃の記憶は薄い。

 事故で死にかけた人がいると、神崎は言っていた。奇跡みたいな確率で助かった、と。

「私が、その死にかけた人ですか?」

 クロは静かに頷いた。

 沙耶は息を吸った。

「私は、子どもの頃、事故に遭ったんですか?」

「はい」

「覚えていないのは」

「覚えていないのは、あなたが幼かったからです。それだけです」

「その事故に、神崎さんは関係していますか?」

 クロは少し間を置いた。

「関係しています。でも、今夜はここまでです」

「また、今夜はここまで、ですか」

「はい。ただ」

「ただ」

「近いです。あなたが全部を知る日が」

 沙耶は窓の外を見た。十二月の夜の路地は、静かだった。霜が降りていた。街灯の光が、白く光る石畳に反射していた。

 自分が子どもの頃に事故に遭った。

 神崎がそれに関係している。

 神崎が守りたいのは、自分かもしれない。

 それだけのことが、今夜分かった。でも、なぜ神崎が自分を守りたいのか、二人がどういう関係なのかは、まだ分からなかった。

 ただ、クロが言っていた言葉が今夜ようやく形を持った気がした。

 あなたの人生は、あなただけのものではないかもしれない。

 その言葉の意味が、今夜初めて、遠い場所から近づいてきた。まだ手が届かない。でも、見えている。

 沙耶は鍵を手に取った。

 明かりを一つずつ消しながら、神崎のことを考えた。来月も来ると言っていた。同じものを、また買いに来ると言っていた。次に会った時、何を聞けばいいか。どこまで聞いていいか。

 あなたが準備できた時に話す。と神崎は言った。

 準備が、できているかどうか。

 沙耶には、まだ分からなかった。でも今夜、確かに何かが変わった。自分の人生の話が、ここに来た。他の誰かの話ではなく、確かに、自分の話として。

 店の明かりが全部消えた。

 十二月の夜の中に、小さな店が静かに沈んだ。

 路地には誰もいなかった。

 ただ、霜の降りた石畳が、街灯の光を静かに受けて、白く光っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ