第十章 店の真実
十二月の第三週に入ると、街は急に騒がしくなった。
駅前にイルミネーションが灯り、商店街にはクリスマスの飾りが並んだ。沙耶が夕方に起きて店へ向かう道にも、どこかから音楽が聞こえてくるようになった。陽気な曲だった。沙耶には少し遠い音楽だったが、嫌いではなかった。
ただ、店のある路地だけは、変わらなかった。
イルミネーションも、飾りも、音楽もなかった。街灯がひとつあって、石畳があって、葉のない木があった。沙耶はその静けさが、この時期は特にありがたかった。騒がしい街から切り離された場所に、夜だけ自分の場所がある。それが今の沙耶の生活だった。
店の鍵を開けながら、今夜はクロに聞こうと思った。
前回、近い、と言った。自分の人生が何で出来ているかを知る日が、近いと言った。それから一週間が経った。一週間分、何かが近づいているはずだった。
七時になって店を開けたが、最初の一時間は誰も来なかった。
珍しいことではなかった。客のない夜もある。佐伯も来ない夜もある。沙耶は一人でカウンターに立ち、帳簿を見返した。開店から今日まで三年分の記録がある。日付と名前と売買内容。それだけが並んでいる。
読み返すと、様々な人間が来たことが分かる。
二十代の女性が、恋愛の記憶を売った夜。五十代の男性が、仕事への情熱を売った夜。老夫婦が二人で来て、片方が寿命を、片方が思い出を売った夜。買いに来た人間は少なかった。神崎以外では、先月の村越だけだった。
帳簿を閉じて、沙耶はカウンターに肘をついた。
この記録が何のためにあるのか、三年間考えたことがなかった。記録しろと言われたから記録してきた。でも、誰かがこれを見るのか、この記録が何かに使われるのか、一度も説明されなかった。
クロが奥から出てきたのは、その時だった。
今夜は早かった。まだ客もいない。珍しいことだった。
「今夜は早いですね」
「少し話したいことがあって」
沙耶は帳簿をそっと置いた。
クロはカウンターの中ではなく、客側の椅子に座った。
それも珍しかった。クロはいつも、カウンターの中にいるか、客と向き合うテーブルの側にいる。客と同じ側に座ることは、今まで一度もなかった。
沙耶はカウンターを挟んで、向かい側に立った。
「お茶でも」
「いいえ、結構です」
クロは少し間を置いた。
「雨宮さん、この店が存在する理由を、どう思っていましたか」
沙耶は少し驚いた。クロの方から、そういう問いを立てることは少なかった。
「売買をするためだと思っていました」
「それだけですか」
「それだけではないと、思ってはいました。でも、それ以上のことは分からなかった」
「今夜、話します」
沙耶は動かなかった。
「この店が、何のために存在しているかを」
「はい」
「怖いですか」
沙耶は少し考えた。怖いかどうか。正直に言えば、怖い、という感覚はなかった。ただ、聞いたら何かが変わるという予感があった。変わることへの覚悟が、まだ足りているかどうか分からなかった。
「怖くはないです。ただ、聞いた後で、今まで通りでいられるかどうか分からない」
「今まで通りでいる必要はないです。むしろ、変わることが必要な時期に来ています」
「必要な時期」
「はい」
クロは両手をテーブルの上に置いた。
「この店は、人生が必要な人の前に現れます。場所は固定されていない。今夜この路地にあっても、明日は別の場所にあることがある」
「知っていました。でも、この三年ほどでここが移動したことは一度もなかった」
「そうです。なぜだと思いますか」
沙耶は考えた。この三年ほど、店は動かなかった。路地のこの場所に、ずっとあった。それは、ここに人生が必要な人がいるからではないか。
「私がここにいるから、ですか?」
「そうです」
沙耶は息を吸った。
「私に、人生が必要だから、この店はここにある」
「正確には、あなたのために、この店はここに来た。三年ほど前に」
三年ほど前。
沙耶が店の前で倒れていた夜のことを、今でも断片的に覚えている。
冬だった。十二月だったか一月だったか、はっきりしない。路地に倒れていて、気づいたら店の中にいた。クロが紅茶を差し出していた。なぜあの路地にいたのか、なぜ倒れたのか、前後の記憶がない。
「私が倒れたのは、偶然じゃなかったんですか?」
「偶然ではないです。あの夜、あなたは限界だったんです」
「限界」
「体のことではなく。あなたは長い間、自分の人生に理由を見つけられないでいた。理由がないまま生きることへの疲労が、あの夜、限界に達した」
沙耶は黙っていた。
否定できなかった。あの夜のことは覚えていないが、あの夜以前の感覚は覚えている。何のために生きているのか、分からなかった。分からなくても生きていたが、それがいつまで続くのかも分からなかった。
「この店は、そういう人の前に現れます。人生の売買をしに来る客だけではなく、人生の意味を探している人の前にも」
「私は、売買をしに来たわけではなかった」
「来たのではなく、たどり着いた、という方が近いです。あなたは客ではなかった。だから私は、店を任せた」
「なぜ任せたんですか?」
「あなたに、見てほしかったから」
「何を」
「人生を手放す人、人生を買う人、人生の断片を取り戻せないと知る人。そういう人たちを、あなた自身の目で見てほしかった」
沙耶はカウンターに両手をついた。
「それは、私のためですか。それとも、何か別の理由がありますか?」
クロは少し間を置いた。
「両方です」
八時を過ぎて、佐伯が来た。
今夜は早かった。扉を開けて、クロが客側の椅子に座っているのを見て、少し驚いた顔をした。
「珍しいな」
「少し、話していました」
クロが伝える。
「じゃあ邪魔したか」
「いいえ、続きは後で聞きます」
沙耶は言う。
佐伯はいつもの席に座って、コーヒーを頼んだ。クロはカウンターの内側に戻った。沙耶がコーヒーを用意する間、佐伯は店の中を見回した。
「なんか、今夜は雰囲気違うな」
「そうですか」
「空気が違う。何かあったか」
「少し、大事な話を聞いていた所です」
「この店のことか」
「はい」
佐伯はコーヒーを受け取って、一口飲んだ。それから沙耶を見た。
「顔色は悪くないな」
「悪くないですよ」
「そか。大事な話を聞いた後で顔色が悪くなる人間もいるから、確認したかった」
佐伯らしい確認の仕方だった。沙耶は少し笑った。
「心配してくれているんですか」
「まあな。三年も来とったら、いろいろ気になる」
佐伯がコーヒーを飲んでいる間に、九時近くなって、客が一人来た。
四十代の女性だった。落ち着いた服装で、表情は硬かった。沙耶が案内して、クロが対応した。今夜の売買は短かった。女性は何かを売って、静かに帰っていった。沙耶は帳簿に記録した。
客が帰ってから、佐伯がぽつりと言った。
「この店に来る人って、みんな何か抱えとるな」
「そうですね」
「売ることで、楽になってるんかな」
「楽になる人もいると思います。でも」
「でも」
「忘れても、失ったことだけは残る。だから楽になりきれない人もいるかもしれない」
佐伯は少し考えた。
「それでも売るのは、持ち続けることの方が辛いからか」
「そう思います」
「難儀やな、人間は」
「そうですね」
佐伯はカップを置いた。
「俺が売らへんのはな、売るほど辛いものが、今の所ないからや」
「それは、良いことだと思います」
「良いのかどうか分からんけど。ただ、この店に来て、売ったり買ったりしてる人を見とると、自分はまだ持っとけるなって思う。それが確認できるだけで、来た意味がある」
沙耶はその言葉を聞きながら、クロが言っていたことを思い出した。人生の意味を探している人の前にも、店は現れる。佐伯もそういう一人なのかもしれない。売り買いはしないが、ここに来ることで、自分の人生の確認をしている。
佐伯が帰ってから、店に沙耶とクロだけになった。
沙耶は帳簿を閉じて、クロを見た。
「続きを、聞いてもいいですか?」
「はい」
「この店が私のためにここに来た。私に、人生を手放す人たちを見てほしかった。それは、私が自分の人生の意味を見つけるためですか?」
「それもあります。でも、もう一つあります」
「もう一つ」
「あなたには、知らなければならないことがある」
「何を」
クロは少し間を置いた。今夜の間の置き方は、いつもより重かった。
「あなたの人生は、あなただけのものではないかもしれない」
沙耶は動かなかった。
「どういう意味ですか」
「この店で、人生が売買されます。寿命が売られ、未来が売られ、思い出が売られます。買われた人生は、別の誰かのものになる」
「はい」
「あなたは、この三年ほどで多くの売買を見てきた。その中で、買われた人生がどこへ行くか、考えたことがありましたか」
沙耶は少し考えた。人生の仲介業みたいなもの、と佐伯がかつて言っていたことが蘇った。売る人と買う人がいて、この店はその間に立っている。
「買われた人生は、買った人のものになる、と思っていました」
「そうです。神崎さんが買い続けているものも、誰かが売ったものです」
「誰かが」
「あなたの周りにいた人が、売ったものです」
沙耶の手が、わずかに動いた。
「私の周りにいた人が、私の知らないうちに、何かを売った」
「はい」
「それを、神崎さんが買っている」
「正確には、神崎さんは買うことで、それをあなたに渡しています」
沙耶は息をのんだ。
「渡す、というのは」
「神崎さんが買ったものは、最終的にあなたの人生を支えるために使われます。神崎さん自身がそれを選んでいる」
沙耶は頭の中で、神崎の言葉を繰り返した。守りたい人がいる。できることを全部やりたい。届くかどうかは別として。助かった命は、ずっと続く。
「神崎さんが守りたいのは、私ですか?」
クロは答えなかった。
答えないことが、答えだった。
沙耶はしばらく、何も言えなかった。
カウンターに手をついたまま、動かなかった。神崎が守りたい人間が自分だとすれば、神崎は自分とどういう関係なのか。会ったことがないはずだった。先月、初めてこの店で会った。それ以前には、会った記憶がない。
でも子どもの頃の記憶は薄い。
事故で死にかけた人がいると、神崎は言っていた。奇跡みたいな確率で助かった、と。
「私が、その死にかけた人ですか?」
クロは静かに頷いた。
沙耶は息を吸った。
「私は、子どもの頃、事故に遭ったんですか?」
「はい」
「覚えていないのは」
「覚えていないのは、あなたが幼かったからです。それだけです」
「その事故に、神崎さんは関係していますか?」
クロは少し間を置いた。
「関係しています。でも、今夜はここまでです」
「また、今夜はここまで、ですか」
「はい。ただ」
「ただ」
「近いです。あなたが全部を知る日が」
沙耶は窓の外を見た。十二月の夜の路地は、静かだった。霜が降りていた。街灯の光が、白く光る石畳に反射していた。
自分が子どもの頃に事故に遭った。
神崎がそれに関係している。
神崎が守りたいのは、自分かもしれない。
それだけのことが、今夜分かった。でも、なぜ神崎が自分を守りたいのか、二人がどういう関係なのかは、まだ分からなかった。
ただ、クロが言っていた言葉が今夜ようやく形を持った気がした。
あなたの人生は、あなただけのものではないかもしれない。
その言葉の意味が、今夜初めて、遠い場所から近づいてきた。まだ手が届かない。でも、見えている。
沙耶は鍵を手に取った。
明かりを一つずつ消しながら、神崎のことを考えた。来月も来ると言っていた。同じものを、また買いに来ると言っていた。次に会った時、何を聞けばいいか。どこまで聞いていいか。
あなたが準備できた時に話す。と神崎は言った。
準備が、できているかどうか。
沙耶には、まだ分からなかった。でも今夜、確かに何かが変わった。自分の人生の話が、ここに来た。他の誰かの話ではなく、確かに、自分の話として。
店の明かりが全部消えた。
十二月の夜の中に、小さな店が静かに沈んだ。
路地には誰もいなかった。
ただ、霜の降りた石畳が、街灯の光を静かに受けて、白く光っていた。




