表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夜だけ開く人生の店 ――寿命・未来・思い出、売買できます  作者: 明石竜


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/10

第一章 夜の店

 表札もなければ、看板もない。ただ、夜になると明かりが灯る。

 雨宮沙耶がその店を初めて意識したのは、三年ほど前のことだった。倒れていた、という記憶しかない。気がついたら、薄暗い部屋の隅に置かれた簡易ベッドの上にいて、見知らぬ男が紅茶を差し出していた。

「飲めますか」

 問いかけというより、確認に近い声だった。沙耶は起き上がろうとして、すぐに諦めた。体が思うように動かなかった。

子どもの頃から慣れ親しんだ感覚で、珍しいことではなかったが、見知らぬ場所で目覚めるのはさすがに心臓に悪かった。

「ここは」

「店です」

 男は短く答えた。改めて部屋を見回すと、確かに店らしき空間だった。細長いカウンターがあり、その向こうに棚がある。棚には何も置かれていなかった。あるいは、沙耶には見えないだけかもしれなかった。小さな丸テーブルが二つ、椅子が四脚。窓の外は夜で、細い路地に街灯がひとつ立っているのが見えた。

「営業中、ですか?」

「夜だけです」

 男はカウンターの中に戻り、何かを拭き始めた。グラスか、それとも別の何かが、沙耶の位置からはよく見えなかった。男の年齢は分からなかった。若くも見えるし、そうでないようにも見えた。「クロ」と彼は名乗った。名前なのか、あだ名なのかも分からなかった。沙耶が尋ねると、「どちらでも」とだけ答えた。

 その夜、沙耶は店を出なかった。出られる体調ではなかったし、クロが引き止めたわけでもなかったが、何となく帰る気になれなかった。紅茶は温かく、店の中は静かで、外の寒さが窓ガラスを白く曇らせていた。

 翌朝、クロは沙耶に伝えた。

「この店を、任せたいのですが」

 沙耶は三秒ほど黙っていた。

「私を、ですか」

「あなたを」

「なぜ」

「向いているので」

 根拠のない理由だったが、クロの言い方はまるで確認するような口調だったので、沙耶はそれ以上聞けなかった。

 こうして沙耶は、夜だけ営業する店の、店主代理になった。


 それから、三年ほどが経った。

 今夜も沙耶は、カウンターの中に立っていた。

二十代後半くらい。黒い髪を肩のあたりで揃えていて、夜の店の光の中では少し白く見える。派手さはないが、静かな印象の顔立ちだった。


 仕事と呼べるのかよく分からない日々だった。夜七時に店の鍵を開ける。客が来れば対応する。来なければ、クロが持ってきた本を読むか、窓の外を眺めて過ごす。夜が明ける頃、鍵を閉める。それだけだった。

 昼間は近くのアパートで眠り、夕方に起きて、また店へ向かう。

 生活費はクロが用意していた。給与と呼ぶには曖昧な仕組みだったが、沙耶は深く考えないことにしていた。自分の人生にそれほど執着がなかったし、他にやりたいことが特にあるわけでもなかった。

 店の場所は、駅から少し外れた路地の奥にある。地図には載っていない。

 そのはずなのに、客は来る。夜になると、必ず誰かが扉を開ける。

 沙耶はまだ、それが不思議だと思っている。三年ほど経っても慣れなかった。慣れるべきなのかもしれないが、慣れてしまっていいのかも分からなかった。

その夜、最初に来たのは常連だった。

「いらっしゃいませ」

「毎度」

 佐伯隆司は、扉をくぐるなり決まった席に腰を下ろした。窓際のテーブル、奥の椅子。背を壁に預ける座り方をいつもする。タクシードライバーの習慣なのか、性格なのか、沙耶は聞いたことがなかった。

「コーヒー、ブラックで」

「分かりました」

 コーヒーメーカーを動かしながら、沙耶はちらりと彼を見た。四十五歳。夜勤専門のタクシー運転手で、この店には週に二、三度顔を出す。コーヒーを飲んで、少し話して帰るだけの客だった。

「今日は何かありましたか?」

「酔っ払いを乗せた。名古屋まで行ってくれって言うから断ったら、泣かれた」

「それは大変でしたね」

「まあな」

 佐伯はカウンターにひじをつき、店の中をゆっくり見回した。

「今日は他に客は」

「まだです」

「そか」

 コーヒーカップを受け取り、一口飲んで、佐伯は小さく息をついた。

「俺は今日も売らへんよ」

 沙耶は微笑んだ。いつもの言葉だった。

「分かっています」

「確認しとかんと落ち着かん」

 佐伯はそう言って、窓の外に目を向けた。路地の街灯が、夜の湿気を滲ませるように光っている。沙耶はカウンターに戻り、クロが以前から棚の下に置いていた帳簿を開いた。日付と、来客の記録をつける。それも仕事のうちだった。

 しばらく静かな時間が続いた。

 佐伯がコーヒーを飲み、沙耶が帳簿を眺め、店の古い柱時計が時を刻む。会話がなくても、不思議と居心地の悪くない時間だった。沙耶はこの時間が嫌いではなかった。静けさの中にいることが、昔から苦ではなかった。

「そういえば、お前さん、ここに来て何年になる」

「三年くらいです」

「若いのに、ようやるな」

「他にやることがないので」

「それは理由やなくて、言い訳やで」

 沙耶は少し考えてから、「そうかもしれません」と答えた。

 佐伯は笑った。咎めるでも、励ますでもない笑い方だった。ただ、正直に言ったことを面白がっているような。沙耶は佐伯のそういう所が、少し好きだった。


 九時を過ぎた頃、扉が開いた。

 入ってきたのは、若い男だった。

 二十代半ばだろうか。薄手のジャケットに、傷んだスニーカー。肩に古いギターケースを背負っていた。店の中を見て、一瞬だけ戸惑った顔をした。来ると決めてきたはずなのに、やはり躊躇いがある。沙耶はそういう顔を何度も見てきた。

「いらっしゃいませ」

 男は沙耶を見て、それからクロがいつも座っている奥の椅子を見た。今夜、クロはまだ来ていない。いつもそうだった。沙耶が一人でいる所に客が来て、そのうちクロが現れる。順番は変わらなかった。

「あの」 

男はそう言って、一呼吸おいて、尋ねた。

「ここって、本当に、人生を売れるんですか?」

 沙耶は穏やかな声で答えた。

「はい」

 男は少しの間、黙っていた。信じていないのかもしれないし、信じたくないのかもしれない。それでも来た。来てしまった。それがすでに、答えだった。

「お座り下さい」

 沙耶は奥のテーブルに案内しながら、心の中で小さく息をついた。

今夜も、誰かが扉を開けた。

私はまだ、この店のことをよく知らない。

それでも夜になると、必ず誰かが来る。

そして彼らは皆、何かを手放そうとしている。

なぜかその夜は、まだ何も起きていないはずなのに、自分の中にも、この店に触れている何かがある気がした。


 男がテーブルに着いた直後、店の奥の扉が静かに開いた。

「いらっしゃいました」

 クロが現れた。

 白いシャツに、黒いジャケット。いつも同じ服に見えるが、よく見ると毎日微妙に違う。沙耶はそれに気づくのに半年かかった。

「この店では、人生を扱っています」

 クロは男の向かいに椅子を引き、静かに座った。芝居がかっているとも言えるし、単に場慣れしているとも言える話し方だった。

「売るものは、決まっていますか」

 クロが尋ねると、男はギターケースを膝の上に抱えるようにして、うつむいた。

「未来の、可能性を」

「承りました」

 クロは沙耶を見た。

 沙耶は帳簿を開き、今夜の日付の下に、静かに文字を書き始めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ