第一章 夜の店
表札もなければ、看板もない。ただ、夜になると明かりが灯る。
雨宮沙耶がその店を初めて意識したのは、三年ほど前のことだった。倒れていた、という記憶しかない。気がついたら、薄暗い部屋の隅に置かれた簡易ベッドの上にいて、見知らぬ男が紅茶を差し出していた。
「飲めますか」
問いかけというより、確認に近い声だった。沙耶は起き上がろうとして、すぐに諦めた。体が思うように動かなかった。
子どもの頃から慣れ親しんだ感覚で、珍しいことではなかったが、見知らぬ場所で目覚めるのはさすがに心臓に悪かった。
「ここは」
「店です」
男は短く答えた。改めて部屋を見回すと、確かに店らしき空間だった。細長いカウンターがあり、その向こうに棚がある。棚には何も置かれていなかった。あるいは、沙耶には見えないだけかもしれなかった。小さな丸テーブルが二つ、椅子が四脚。窓の外は夜で、細い路地に街灯がひとつ立っているのが見えた。
「営業中、ですか?」
「夜だけです」
男はカウンターの中に戻り、何かを拭き始めた。グラスか、それとも別の何かが、沙耶の位置からはよく見えなかった。男の年齢は分からなかった。若くも見えるし、そうでないようにも見えた。「クロ」と彼は名乗った。名前なのか、あだ名なのかも分からなかった。沙耶が尋ねると、「どちらでも」とだけ答えた。
その夜、沙耶は店を出なかった。出られる体調ではなかったし、クロが引き止めたわけでもなかったが、何となく帰る気になれなかった。紅茶は温かく、店の中は静かで、外の寒さが窓ガラスを白く曇らせていた。
翌朝、クロは沙耶に伝えた。
「この店を、任せたいのですが」
沙耶は三秒ほど黙っていた。
「私を、ですか」
「あなたを」
「なぜ」
「向いているので」
根拠のない理由だったが、クロの言い方はまるで確認するような口調だったので、沙耶はそれ以上聞けなかった。
こうして沙耶は、夜だけ営業する店の、店主代理になった。
それから、三年ほどが経った。
今夜も沙耶は、カウンターの中に立っていた。
二十代後半くらい。黒い髪を肩のあたりで揃えていて、夜の店の光の中では少し白く見える。派手さはないが、静かな印象の顔立ちだった。
仕事と呼べるのかよく分からない日々だった。夜七時に店の鍵を開ける。客が来れば対応する。来なければ、クロが持ってきた本を読むか、窓の外を眺めて過ごす。夜が明ける頃、鍵を閉める。それだけだった。
昼間は近くのアパートで眠り、夕方に起きて、また店へ向かう。
生活費はクロが用意していた。給与と呼ぶには曖昧な仕組みだったが、沙耶は深く考えないことにしていた。自分の人生にそれほど執着がなかったし、他にやりたいことが特にあるわけでもなかった。
店の場所は、駅から少し外れた路地の奥にある。地図には載っていない。
そのはずなのに、客は来る。夜になると、必ず誰かが扉を開ける。
沙耶はまだ、それが不思議だと思っている。三年ほど経っても慣れなかった。慣れるべきなのかもしれないが、慣れてしまっていいのかも分からなかった。
その夜、最初に来たのは常連だった。
「いらっしゃいませ」
「毎度」
佐伯隆司は、扉をくぐるなり決まった席に腰を下ろした。窓際のテーブル、奥の椅子。背を壁に預ける座り方をいつもする。タクシードライバーの習慣なのか、性格なのか、沙耶は聞いたことがなかった。
「コーヒー、ブラックで」
「分かりました」
コーヒーメーカーを動かしながら、沙耶はちらりと彼を見た。四十五歳。夜勤専門のタクシー運転手で、この店には週に二、三度顔を出す。コーヒーを飲んで、少し話して帰るだけの客だった。
「今日は何かありましたか?」
「酔っ払いを乗せた。名古屋まで行ってくれって言うから断ったら、泣かれた」
「それは大変でしたね」
「まあな」
佐伯はカウンターにひじをつき、店の中をゆっくり見回した。
「今日は他に客は」
「まだです」
「そか」
コーヒーカップを受け取り、一口飲んで、佐伯は小さく息をついた。
「俺は今日も売らへんよ」
沙耶は微笑んだ。いつもの言葉だった。
「分かっています」
「確認しとかんと落ち着かん」
佐伯はそう言って、窓の外に目を向けた。路地の街灯が、夜の湿気を滲ませるように光っている。沙耶はカウンターに戻り、クロが以前から棚の下に置いていた帳簿を開いた。日付と、来客の記録をつける。それも仕事のうちだった。
しばらく静かな時間が続いた。
佐伯がコーヒーを飲み、沙耶が帳簿を眺め、店の古い柱時計が時を刻む。会話がなくても、不思議と居心地の悪くない時間だった。沙耶はこの時間が嫌いではなかった。静けさの中にいることが、昔から苦ではなかった。
「そういえば、お前さん、ここに来て何年になる」
「三年くらいです」
「若いのに、ようやるな」
「他にやることがないので」
「それは理由やなくて、言い訳やで」
沙耶は少し考えてから、「そうかもしれません」と答えた。
佐伯は笑った。咎めるでも、励ますでもない笑い方だった。ただ、正直に言ったことを面白がっているような。沙耶は佐伯のそういう所が、少し好きだった。
九時を過ぎた頃、扉が開いた。
入ってきたのは、若い男だった。
二十代半ばだろうか。薄手のジャケットに、傷んだスニーカー。肩に古いギターケースを背負っていた。店の中を見て、一瞬だけ戸惑った顔をした。来ると決めてきたはずなのに、やはり躊躇いがある。沙耶はそういう顔を何度も見てきた。
「いらっしゃいませ」
男は沙耶を見て、それからクロがいつも座っている奥の椅子を見た。今夜、クロはまだ来ていない。いつもそうだった。沙耶が一人でいる所に客が来て、そのうちクロが現れる。順番は変わらなかった。
「あの」
男はそう言って、一呼吸おいて、尋ねた。
「ここって、本当に、人生を売れるんですか?」
沙耶は穏やかな声で答えた。
「はい」
男は少しの間、黙っていた。信じていないのかもしれないし、信じたくないのかもしれない。それでも来た。来てしまった。それがすでに、答えだった。
「お座り下さい」
沙耶は奥のテーブルに案内しながら、心の中で小さく息をついた。
今夜も、誰かが扉を開けた。
私はまだ、この店のことをよく知らない。
それでも夜になると、必ず誰かが来る。
そして彼らは皆、何かを手放そうとしている。
なぜかその夜は、まだ何も起きていないはずなのに、自分の中にも、この店に触れている何かがある気がした。
男がテーブルに着いた直後、店の奥の扉が静かに開いた。
「いらっしゃいました」
クロが現れた。
白いシャツに、黒いジャケット。いつも同じ服に見えるが、よく見ると毎日微妙に違う。沙耶はそれに気づくのに半年かかった。
「この店では、人生を扱っています」
クロは男の向かいに椅子を引き、静かに座った。芝居がかっているとも言えるし、単に場慣れしているとも言える話し方だった。
「売るものは、決まっていますか」
クロが尋ねると、男はギターケースを膝の上に抱えるようにして、うつむいた。
「未来の、可能性を」
「承りました」
クロは沙耶を見た。
沙耶は帳簿を開き、今夜の日付の下に、静かに文字を書き始めた。




