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まずは、もう一度レガート様と話をしなくては。
あらためて離縁の決意を固めたのはいいけれど、それにはレガート様の説得が不可欠。
私はすぐにレガート様のもとへ向かった。彼はちょうど私室に戻るところで、不躾ながら廊下から声をかけると、そのままなかへ招かれた。
「どうぞ、座って」
私にテーブルの椅子を勧めると、自らは用意されていた水差しを手に取り、中身を銀のカップに注ぐ。そっと目の前に置かれたカップに、私は小さく頭を下げた。
ちなみに、水差しの隣にはワインの瓶も並んでいるけれど、私は昔からお酒が飲めない。
覚えてくれていたのだと思うと、ほんのり胸が温かくなった。
「いただきます」
緊張で喉が渇いていたのもあり、私はありがたく水を口に運んだ。
「あ、美味しい」
これは真水ではなく、葡萄の果実水だ。
「うん、リタが好きだろうと思って」
向かいに座りながら、レガート様がにこりと微笑む。昨日とはうって変わって穏やかな表情だ。
「さっきは大変だったね。ダントン伯爵のことはこちらでうまくやるから、リタは心配しなくていいよ」
「うまく……」
「リタが不貞をしたなんて、私はまったく疑っていないから。でも嘘でも噂でもリタと不貞なんて許されることじゃないから、うまくやるよ。大丈夫」
……なにが大丈夫なのかしら。うまくって、ダントン伯爵はどうなっちゃうのかしら。
色々と不安になってから、私は頭を振った。
これから離縁を切り出すというのに、怯えている場合じゃないわ。
ダントン伯爵のことは聞かなかったことにしよう。
「あのですね、レガート様……」
「ロバートから、私との離縁を催促された?」
言葉を被せられ、思わずドキッとした。レガート様は、私が来た目的を察しておられたらしい。けれど、すぐに怯むことではないと思い直す。それならそれで、話が早いというものよ!
私は椅子から立ちあがると、挑むように耳元の髪を払った。
「その通りです! しかも三ヶ月以内に離縁をしたら、莫大な褒美を与えると、閣下は約束してくださいました」
なるべく憎らしく見えるように顎をそらす。
いっそ彼に嫌われてしまおう大作戦だ。
「これまでだってそう、私は閣下からの褒美を目当てにあなたの妻をしていたのです。だけどもう、お守りはごめんなの。窮屈な王宮な暮らしにもうんざり」
心にもない言葉だ。
言いながら、胸がしくしくと痛む。
だけど、たとえ彼に憎まれても、ここで離縁に納得してもらわなくてはならない。
「王妃なんて私には務まりませんし、これから先は楽だけして、遊んで暮らしたいのです! そういうわけですから、どうか私と離縁してください!」
「断る」
……っ早い!
レガート様は長い足を組み替えると、テーブルに頬杖をついた。
「離縁はしない、絶対に。リタが逃げるつもりなら、私はどんな手を使ってもそれを阻止する」
夏色の瞳を細め、美しい形の唇で弧を描く。
「なんなら……もう二度と、この部屋から出すつもりはないと言ったら?」
私はその意味をすぐ理解できず、互いの間に一瞬、奇妙な沈黙が流れた。
「……リタはさ、迂闊だよね。心はいらないって言っている男の部屋に、のこのこ自分から飛び込んでくるんだからさ」
「は……?」
「例えば、その水のなかになにか仕込まれているかもとか、少しも考えなかったの?」
私は、先ほど潤したばかりの喉を押さえた。
そういえば……あの果実水。レガート様は『リタが好きだと思って』と言っていたけれど、最初から用意されてあった。もしかして、私が来るとわかっていた?
背中にひやりといやな汗が流れる。
いや、まさかね……さすがにそんなことしないわよね?
幼い頃の、天使のようなレガート様の笑顔が脳裏に浮かび……次いで、彼が母君の形見を踏み潰したことを思い出した。そうだ、レガート様は思ってもみない方向に成長をしておられたのだった。
私はレガート様と向かい合ったまま、そうっと後ずさった。なんとなく、いま、彼に背を向けてはいけないような気がした。そのまま一歩ずつ、一歩ずつ扉へ向かう。そして後ろ出でドアノブを回し……
――扉が……開かない!
顔面から一気に血の気が引いた。慌てて扉に向き直り、ガチャガチャとドアノブを回す。けれど、やはり開かない。外から鍵がかかっているのだ……いつの間に!
「言ったはずだよ、君に嫌われても、君を手に入れるって」
声は、すぐに耳元で聞こえた。そして振り向くより早く、どんと、反対から伸びてきた腕が扉を叩く。
「君を薬で眠らせたあと、手足を錠で繋いで、二度とこの部屋から出さない。約束したとおり、リタは私と一緒にいるんだ……そう、死ぬまで」
暗い口調だ。内容も不穏。だけど不思議と声音は甘くて、ぞくりと腰が重くなる。
息を呑み、ゆっくりと彼に顔を向ける。端麗な美貌がそこにある。昔と比べてぐっと背が伸びたのは知っていたけれど、こうして間近で見上げると首が痛く、本当に大人になったのだと思った。
――まさか、本当に?
心臓が早鐘をうつ。
私は瞬きも忘れ――ちょっと泣きそうになったところで、レガート様が口を開いた。
「……嘘だよ。薬なんて仕込んでいない」
と、短い息を吐くレガート様。
ほっとするあまり腰が抜けそうになる私を、レガート様が片手で支えた。
「……リタがまた、あまりひどい嘘をつくからお返し」
「それは……」
「ただ、離縁をするつもりがないのは本当だよ。リタがどんなに私を嫌っていても、離縁だけはしない」
ふい、と顔を反らしながらレガート様が言い放つ。
その様子は、どこか拗ねているようで……。
「……嫌ってなんてないわ」
気がつけば、私の口からそんな言葉が滑り落ちていた。
それから、自分で「そうよ」と納得する。
レガート様の話は、そもそもの前提が間違っているのだ。
「私は、レガート様を嫌ったりしておりません……いまも昔も、変わらずレガート様のことを大切に思っています」
きっぱりと言えば、彼の瞳が僅かに見開いた。
もちろん遠ざけられていたのは寂しかったけれど、私たちにそれより長く、深く、共に過ごした月日がある。そこで築いたたくさんの思い出が。
二人ぼっちの王宮で、身を寄せ合うようにして過ごした。
たまの穏やかな時間には、共に庭で花を摘み、語らい、笑い合った。
私たちは――
「だって、レガート様は私の家族ですから!」
レガート様の長い睫毛が、憂いに揺れる。
これがレガート様の欲しい言葉でないことは、私にももう分かっている。
だけど、言わなければいけないことだ。
「幼い頃、あなたに『ずっと一緒にいる』と嘘を吐いていたことは、本当にごめんなさい……申し訳ないと思っています! 私は初めから仮初めの妻で、自分でもそれを納得して嫁いできた」
彼の顔を覗き込むようにして言葉を続ける。
「私はあくまでオスティナが王妃になるまでの繋ぎ……レガート様の後ろ盾にはなれない! それどころか、私と離縁しなければ、レガート様は公爵家と対立することになります」
「いいんだよ」
レガート様は静かに続けた。
「公爵を敵に回そうが、宮廷中を敵に回そうが……私はリタがいいんだ」
そう語る夏色の瞳は真っ直ぐで……でも。
「私には……そんな覚悟はありません」
今度は、私が彼から顔を反らした。
そう……私にはそんな覚悟はない。
叔父を敵に回す覚悟も、レガート様にそんな選択をさせる覚悟もだ。
レガート様が扉に肘をつき、夏色の瞳を細める。そこに昏い影をみたと思ったのは一瞬。彼は長い息を吐き、鍵のかかったドアノブに視線を落とした。
さらに数秒、なにかを考えるような間を置いたあと、彼はゆっくりと口を開いた。
「そうだな……ひとつ勝負をしないか? リタ」
「勝負?」
レガート様がにこりと笑顔になって頷く。
「うん。公爵との約束の期限には、まだ三ヶ月の猶予があるんだろう? ならその間に、私はリタの心を変えられるように努力したいんだ……それでもダメなら、素直に離縁するよ」
「本当に?」
「ああ……ただしその間、君は私から片時も離れずに過ごすこと。そして君の心を変えるための私の努力には、どんなことでも必ず付き合ってもらう」
私は大きく息を呑んだ。
つまり――私の心を捕らえようするレガート様から、三ヶ月間逃げ続けられたら私の勝ち。
私は離縁と、公爵からの褒美を手に入れられる。
……良い話じゃないかしら。
私の心を手に入れるための努力……どういうものかは分からないけれど、それに三ヶ月付き合うことでレガート様が納得でき、穏便に離縁できるなら。
「その条件、受け入れます」
「ああ……良かった!」
頷くと、レガートさまがそれは美しい笑みを浮かべた。
「約束だよ? リタ。三ヶ月は絶対に、私から離れないこと……私のいうことには必ず従うこと」
必ず従うって、そういう話だったかしら?
戸惑う私に、レガート様が逃がさないとばかりに詰め寄る。
そして私を見下ろすと、獲物を見つけた狩人のように口端を上げた。
「離縁と公爵からの褒美か、うん……君の望むものを手に入れるため、せいぜい私の愛から逃げてみてよ、リタ」
眼前には美しい天使のように整った顔。
その長い睫毛の奥で、夏色の瞳が悪い光を宿しているのを見て私は息を呑み――。
自分がひとつ、重大な選択を間違えたことに気付いたのだった。




