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考えが甘かったと言えばそれまで。
そんなことは自分でよく分かっている。
リタとの勝負を始めてから、少なくとも二ヶ月の間、私はずっと満足していた。
毎日リタと一緒にいられる幸せに酔いしれ、浮かれきっていたのだ。
『勝負』だと言えば、いつだってリタを呼び出せる。
膝に乗せて、食事やお菓子を食べさせて、夜は一緒に眠る。
同じ時間を過ごすなかで、彼女にも笑顔が増えてきて、それが溜まらなく嬉しかった。
この幸せな日々が離縁を前提にしたものだということはよくわかっていたけれど、そもそも私には約束を守るつもりがない。
これでリタの心が手に入るなら儲けもの。
ダメならダメで閉じこめてしまえばいい。
そうなったらきっと嫌われてしまうから、いまのうちに幸せな時間を味わっておこう。
『勝負』で生まれた時間を、私はおまけで生まれた余暇のようなものだと捉えていた。
裏を返せば、その程度しか結果を期待していなかったし、ほとんど諦めていたのだ。
しかし――
オペラで彼女が私の口づけを受け入れてくれたとき、欲が出た。
もしかすると、本当に彼女の心が手に入るかもしれない。
リタが、私との婚姻継続を望んでくるかもしれないと思ってしまったのだ。
ちなみに、余談であるが、オペラで出会ったフリオという商人については、今後なにがあっても許すつもりはない。
私でさえリタの『弟』としての愛しか得られていなかったというのに、それと同列の『兄』が存在するなど許せるものか。
いずれ、なんらかの方法で抹殺するつもりでいる。必ずだ。
それはともかく。
幸福とは毒だ。それによって、いつだって手放せると信じていたものに未練が生まれていた。
だからオスティナの襲撃があったときは、あの女が王妃になるなどとんでもないと認識し、離縁を思い留まってはくれないかと期待した。
翌日になって、リタが公爵から呼び出されたのにも気付いていたが、同じ期待から黙って行かせた。
そして帰ってきた夜、彼女は寝ずになにかを考え込んでいた。
――リタ、お願いだから離縁はしないと言ってよ。
そうしたら、君をどこにも閉じこめなくてすむのに。
けれど、そんな甘い望みはすぐに打ち砕かれた。
リタが次の王妃を探しているようだと気付いたからだ。
私はジルに彼女の様子を探らせた。
『レガート、君の言った通りだった。リタはあちこちの国に手紙を送って、未婚の王女の情報を集めているようだ』
それを聞いて、ため息も出なかった。
『君たち、大丈夫なの?』
『大丈夫だよ、なんの問題もない』
心配するジルに、私は冷ややかにそう答えた。
そうだ、なんの問題もない。
リタの心が手に入らないなら、当初の予定通り、閉じこめてしまうだけなのだから。
『ねえ、レガート。君、いつから寝ていない?』
ジルがそこで、私の顔を覗き込んで言った。
リタの不審に動きに気付いてから、この時で十日が経っていた。
『さあ、いつからだろう』
どうでもいいことだった。
そんなことより、許せないのはリタだ。
ジルが執務室から出て行き、一人になると、私は机にあった書類をなぎ払った。
許せない。
どうやっても私を捨てようとする彼女が憎くて憎くて堪らなかった。
いっそ手酷く犯して孕ませてしまおうか。
そうしたら優しい彼女は逃げ出せなくなるだろう……けれど、彼女の体を傷つけることには抵抗があった。
それに、さらに良い方法があることを私は知っていた。
――初代国王が、王妃のため森に建てた離宮。
父が亡くなったあと、私は諸々の書類を引き継いだ。
そして父が継母を連れて、その離宮に移り住む計画を立てていたことを知ったのだ。
私と同じ『病』を持っていた父が、継母を連れていこうとしたところ――
調べると、すぐにそこが監禁に適した場所だということが分かった。
――つまり初代国王も、私や父と『同じ』だったわけだ。
どうやら王家の血筋には、時々、そういう性質の人間が生まれるらしい。
事情までは分からないものの、初代国王はこの離宮に王妃を監禁したのだ。
父もそれに習おうとした。継母とは仲良くやっているように見えていたので、監禁する必要はなかったと思うが……。
もしかすると、継母が私を暗殺しようとしていることに気付き、引き離そうとしたのかもしれない。
もちろん私のためではなく、継母の処刑を恐れて。
――あの継母のことだから、王宮を出て行くぐらいなら離縁すると騒いだかも。
それなら、もういっそ監禁してしまえとなってもおかしくない。
……おかしいのかもしれないが、気持ちは良く分かる。
私は、初代国王の遺産を使わせてもらうことにした。
ここにリタを閉じこめて、二度と出さない。
そう決めてしまうと、少しだけ心が穏やかになった。
離宮へ向かう馬車のなかでは、彼女に笑顔を向けられるぐらいの余裕も生まれていた。
もう、憎しみもない。
車窓から景色を眺めるリタの嬉しそうな姿を見ても、『私を捨てるくせに』と考えてイライラしない。
離宮については、設計図では確認していたものの実物を見るのは初めてだった。
到着すると、その美しさに私は満足した。
ここは、愛しいリタを閉じこめておく鳥かごにぴったりだ。
――明日まで、ここで幸せな思い出を作ろう。
彼女と過ごす穏やかな時間は、これで最後。
もう二度と彼女の笑顔を見ることはないのだから、しっかりと目に焼き付けておかなくては。
そう思っていたのに。
――サンドイッチがおいしかったから。
リタの作るサンドイッチは、この三ヶ月……いや、この九年間、リタから嫌というほどもらった幸福と同じ味がした。
彼女を閉じこめてしまったら、もう二度と作ってはもらえない。
――馬鹿なことを。
それは外に放しても同じこと。
私の頭には、いまもずっと父の死に顔がこびりついて離れずにいた。
たった一人の愛しい女に先立たれた哀れな男。
彼女を喪ったあと、父はどれほどの悔恨に焼かれ、苦しみのなかで死んでいったことだろう。
リタを失えば、自分も間違いなく同じ道を辿る。
私は、それが怖くてたまらなかった。
その後は膝枕をしてもらったけれど、大丈夫。決心は揺らがなかった
一緒に音楽を楽しんだ。大丈夫。
お菓子を食べて色んな話をした。共に星を見た。大丈夫。大丈夫。大丈夫。
決行に支障はない。
しかし。
『そうはいきません。これは私にとっても、レガート様からいただいた大切なものですから』
私が踏み潰した母のブローチを。リタが綺麗に修復してくれたのを見ると、ダメだった。
――放っておけばいいのに。
こんなもの、どうでもいいんだ。
私にとっては、リタの心を繋ぎ止めるだけの道具に過ぎない。
だというのに、リタはそれを『宝物』なのだと言った。
私が贈ったものだから――
あああああああああああああ……!
叫ぶ。叫ぶ。叫ぶ。
リタに感情の全てをぶつける。
頭がおかしくなりそうだった。
――いい加減にしてくれ!
どうして、リタはひどい人のままでいてくれないのか。
私に閉じこめられても仕方がない、悪女でいてくれないのか。
――この、お人よしめ……!
私があえて壊したものを、拾い集めて、修復する。
仕方なく連れて来られた王宮で、虐げられた王子を庇って代わりに鞭を受ける。
彼女は、そんなどうしようもないお人よしだった。
――そして私は、そんなリタが好きなんだ。
リタのその、優しい心が。
気付いていた。
彼女から与えてもらった幸せが、とっくに致死量に達していたこと。
脳裏に父の死に顔が浮かぶ。
そして、リタの笑顔が。
そっと、彼女に手渡された母のブローチに目を向けた。
――私は、リタを幸せにしたかった。
方法はある。
この手のなかに、一つだけ。
『あの、レガート様……私は』
『嘘だよ』
私はリタの言葉を遮った。
彼女の口から、終わりの言葉を聞きたくなくて。
『リタが私と離縁をしたいというなら、受け入れる……そういう約束だったからね』
結局、そう。
私は、彼女が好きで、大好きで。
愛しくて、恋しくて。
だから……これから私が行く、寂しくて、悲しい場所になど、連れてはいけるはずがなかったのだ。
彼女が、部屋を出て行く。
その背中を見送る胸のなかで、あらゆる後悔が渦を巻いた。
三年前に、リタを信じてすべてを打ち明けていたら、未来は変わっていただろうか。
彼女を突き放して、冷たくしなければ。
ああ、オスティナを愛しているふりなんてしなければよかった。
もっと、もっともっと、リタと一緒にいる時間を大切にすればよかった。
くだらない『勝負』なんて持ちかけず、もっと、誠意をもって彼女に向きあえばよかった。
ごめん、ごめん、傷つけて本当にごめん――
『振り返らなくていいから、聞いてほしい。即位するまでの三年間、君をたくさん傷づけて、本当に申し訳なかった。すまなかった! それから、私と……私と結婚してくれてありがとう! 幸せだった!』
気付いた時にはそう叫んでいた。
全てがもう手遅れても、どうしてもそれだけは伝えたかった。
振り向かなくていいと言ったのに、いざ彼女がそうすると、辛くて堪らない気持ちになった。
――終わった。
全部、終わってしまった。
これから先の人生には、もうなにもない。
生きていても無駄だと思った。……死んでしまおうか。おあつらえ向きに、そこは湖だ。
――死んだら、リタは悲しんでくれるかな。
そんなことを考える自分が情けなくて、未練たらしくて……でもどうしようもなくて。
『だけど、あなたを幸せにできるのは、私だけなのね』
リタの声が聞こえたのは、その時だ。
顔を上げると、すでにそこにいないはずの彼女がいて、美しい緑色の瞳をこちらに向けていた。
『戦うわ、私は……あなたと一緒に、叔父と戦う』
『それは……』
『離縁はしないということです』
それがどういうことか、理解する前に涙が込み上げた。
心のなかで、一度も信じたことのない神様の名前を呼んだ。
彼女に駆け寄り、抱きしめる。
腕に閉じこめたリタのぬくもりに、また涙がこぼれる。それはもう、とめどなく。
『私を捨てないでくれ』
私は声を震わせた。
そうだ、本当はずっとそう言いたかったのだ。泣いて縋って、懇願したかった。最初から。九年間ずっと。
私を捨てないで。お願いだから。どうか私を見捨てないで、リタ。
『私は、君がいないと生きていけないんだ』
リタは力強く頷いた。
『これからも、私はずっと一緒にいます。子どもの頃に約束をした通り、あなたと、死ぬまで』
そして、リタがそう言ってくれたから。
私は、今度こそ、彼女を手放さないと決めた。
もう二度と、彼女を傷つけたりしない。
嘘をつかない。裏切らない。
――リタが私と一緒にいることを望んでくれるなら、もうなにも怖いことはない。
二人の未来を邪魔するものは、全て排除しよう。
リタを傷つけものは、全て消してしまおう。
この手で、全て。全部、全員。
彼女の肩から顔をあげ、私は目を細めた。
――私がリタを幸せにする。
絶対に。
私はそう心にそう誓ったのだった。




