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今日は朝夕の二回更新です!
「さて、時間だ」
早朝。支度を調えたレガート様が、私の部屋に来てそう言った。
王宮に帰るため、離宮を発つ時間がやってきたのである。
少し早いけれど、大聖堂で行われる儀式に遅れるわけにはいかないので仕方ない。
彼は右手に白い手袋を嵌めながら部屋の扉の前に立ち、私に向かって微笑んだ。
「三ヶ月間の『勝負』も今日で終わりだ。ここを出る前に、リタの答えを聞いておきたい」
それを聞いて、私はごくりと息を呑んだ。
やっぱり、ここで答えを出すのね。
王宮に戻ると仕事が押し寄せて慌ただしいから、きっとそうだと思っていた。
大丈夫。心の準備はもうできているし、迷いもない。
ただ、とても緊張して手足が震えていた。
「……その前に、これをお返しします」
私は、近くのテーブルに置いていた宝石箱を手に取り、レガート様に差し出した。
中身はもちろん、修理を終えたレガート様のお母さまの形見のブローチ。
きっとこうなると思い、旅に持ってきていたものだ。
レガート様が顎を斜めに上げて宝石箱を受け取る。
そして中を見ると僅か目を見開き、笑った。
「……わざわざ修理を? 私が壊したのだから、放っておけばいいのに」
「そうはいきません。これは私にとっても、レガート様からいただいた大切な宝物ですから」
「大切な宝物、ね」
レガート様が唇の片方を上げる。
「これを返して、気持ち良く別れようって?」
そして俯くと、小刻みに肩を震わせはじめた。
片手で顔を覆い、笑い声を漏らす。
「は、ははっ……あー、馬鹿だなあ、リタは……」
「レガート様?」
「……しないよ、離縁なんて! 絶対にしないって、最初から言っているだろう! 私がどうしてリタをここに連れてきたと思っているんだ!」
手を広げ、声を荒らげる。
「この離宮の背後は湖で、周囲は森だ! ここに閉じこめてしまえば、君はもう逃げ出せない……寝室を見ただろう? ひとを閉じこめるのに、あれほど適した部屋もない!」
レガート様が、こんな風に感情を表に出すのははじめてのこと。
私は、その豹変ぶりに驚くばかりで、語る内容を理解するのには弱冠の遅れを要した。
――私を、この離宮に閉じこめる?
信じられない、とは思わなかった。
むしろ納得感すらある。
この離宮に来てからずっとあった違和感の正体が、ようやくわかった。
レガート様は、私が離縁を切り出すと疑っていなかったのだ。
だからもう、『勝負』もしなかった。
私を閉じこめてしまう前に、せめて穏やかな時間を過ごそうと考えていたに違いない。
「このひと月、リタは私の新しい結婚相手を見繕っていたね? ……気付いていないとでも思った?」
レガート様がキツく唇を噛む。
「私の気持ちを知っていて、どうしてそんなひどいことができる? 私がどれほど傷ついたか! 君はひどい、本当にひどい女性だ! どうしようも悪女だ……だから、私に閉じこめられても仕方がないんだ」
最後の言葉は、まるで自分に言い聞かせるように。
「私は……ただ、レガート様の重荷になりたくなくて」
「重荷だなんて……っ」
どんと背後の扉を叩く。
彼の目は、はっきりと怒りに染まっていた。
「重荷だったらなんだっていうんだよ! 重たくて、押しつぶされて、それで死んだって私は構わないんだ! リタのいない人生なんて、なんの意味もないって言ってるだろ!」
まるで幼い子どもが地団駄を踏んで我が儘を言っているような、そんな声だった。
もちろん、子どもだった頃にレガート様がそんな様子を見せたことは、一度もなかったのだけれど。
「私は! 私は……リタの愛などいらない! 私を捨てていく君の愛なんているものか!」
ひとつ、彼の瞳の青い空から滴が落ちる。
「もう二度とリタとダンスを踊れなくたって構わない! 君の作ったサンドイッチなんて食べたいものか! 一緒に音楽を楽しむ時間も、語り合う時間も必要ない! 君の体さえここにあれば、私は、せめて息はできる……」
私は――彼になんと声をかけていいのかわからなかった。
ただ涙を流すレガート様が痛そうで、辛そうで……。
彼が、自身が片手に持つ宝石箱に目を落とす。
私は、その反対の手を握りしめた。
ああ、互いの指先が氷のように冷たい。
「リタはもう、一生ここから出られないんだ……私に囲われて、死ぬまでここから……」
「……はい」
「リタなんて……リタなんて……」
「ええ」
「リタなんて、私と一緒に不幸になってしまえ……!」
絞り出すようにそう言うと、レガート様はその場に崩れ落ちた。
私に手を伸ばしたまま、両膝を床について項垂れるその姿は、まるで縋りついているようでもある。
私は動揺を紛らわせようと、細かく瞬きをした。
試しに考えてみる。
――ここに閉じこめられたら、どうなるのかしら。
離縁はしないというから、新しい王妃を迎えることはできないだろう。
私はここから出られず、お母さまにも会えない。
レガート様は心を病み、国政にも影響がでるかもしれない。
ダメだわ……考えられるなかで、一番最悪の結末ね。
「あの、レガート様……私は」
「嘘だよ」
言いかけた私の言葉を、レガート様がそう遮った。
まるで聞きたくないとばかりに。
「え?」
聞き返すと、彼は言葉を続けようと口を開き、けれど喉が詰まるのか、また閉じては開くを繰り返した。
やがて、掠れた声が響く。
「君を閉じこめるなんて、嘘だ。リタが私と離縁をしたいというなら、受け入れる……そういう約束だったからね」
するりと、私の手から、彼の手が滑り落ちた。
ふらりとよろけるように立ちあがり、顔を背け、手の甲で頬をぬぐう。
そして深い、深い深いため息を吐いた。
「……見苦しいことを言ってすまなかった。君と別れるのが嫌で、駄々をこねた。恥ずかしいから忘れてくれ」
再び宝石箱を見つめ、それを強く握りしめてから、後ろ手に扉を開く。
「馬車が待っているから、リタはそれに乗って先に王宮に戻るといい」
「……レガート様はどうするのですか?」
「もう一台、馬車を用意している。離縁された妻と、同じ馬車のなかで数時間も過ごせるほど、私は心が強くない」
さあ、とレガート様が手を前に差し出す。
私は一度、二度、視線を左右に揺らした。
「……では、私は先に帰ります」
そして開け放たれた扉へ向かう。
――しょうがないのよ、こうするしかないの。
私が王妃では、この国がダメになるでしょう?
叔父は私が王妃でいることを許さないし、逆らうというのなら、やはり強い王妃が必要になる。
「リタっ」
扉をくぐり、廊下に足を踏み出したところで名前を呼ばれた。
「振り返らなくていいから、聞いてほしい。即位するまでの三年間、君をたくさん傷づけて、本当に申し訳なかった。すまなかった! それから、私と……私と結婚してくれてありがとう! 幸せだった!」
彼の声に胸が詰まり、目が熱くなった。
だけど、振り返るべきではない。
――私だって、許されるならレガート様と一緒にいたい。
だけど、これが最善なのだ。
そう考えて、さらに一歩進んだとき……心がもやっとした。
まただ、自分がなにか間違えているという予感。
でも……いったいなにを?
違和感が後ろ髪を引く。
私は……そんなつもりはなかったのに、レガート様を振り返ってしまった。
――ああ……。
彼は、下を向いたまま立ち尽くしていた。
私がもう立ち去ったと思っているのだろう、その姿は、いまにも消えてしまいそうなほど頼りない。
私は、心臓がなくなってしまったような息苦しさを覚え、ぎゅっと胸元を握りしめた。
――そう、そうね。
確かに、私には力がない。なんの後ろ盾も。
だけど。
「だけど、あなたを幸せにできるのは、私だけなのね」
そして私は、彼のためといいながら、自分のためにその事実から目を背けていた。
叔父と戦うのが怖いから、自分のせいでレガート様の道を誤らせてしまうのが怖いから、離縁こそが最良の道だと思いこもうとしていた。
……最初は、それで良かったのだと思う。
私自身が、彼とずっと一緒にいたいとは思っていなかったからだ。
離縁をしたいからするのだという決断に、自分自身への誤魔化しはなかった。
だけど、私が彼を愛したなら、これから先も一緒にいたいと望んだのなら。
私は逃げるのではなく、立ち向かうことを考えなければならなかった。
彼と一緒にいるための努力をするべきだった。
愛する彼に、誰よりも幸せになってもらうために。
「……リタ?」
顔をあげたレガート様が、廊下に立つ私を見て目を見開く。
私は毅然と、その夏色の瞳を見つめ返した。
――私は、かつて彼に、叔父と戦う覚悟はないと言った。
では、いまは?
「戦うわ、私は……あなたと一緒に、叔父と戦う」
「それは……」
「離縁はしないということです」
はっきりと告げると、彼は唇をわななかせてから、くしゃりと美しい顔を歪めた。
「……本当に?」
「ええ、本当に」
頷いて、部屋に戻る。
レガート様はまだ信じられないという様子で数歩、様子を見るようにゆっくりと近付いてから、私に駆け寄り抱きしめた。
「私を捨てないでくれ、リタ」
私は彼を抱きしめ返した。
肩がとても熱い。そこに流れる彼の涙のせいだ。
「ええ、捨てません」
「リタがいないと、私は生きていけないんだ」
わかっています、と私は頷いた。
どうやらそれが本当らしいということは、この三ヶ月でよくわかった。
「これからも、私はずっと一緒にいます」
もちろん、それが簡単でないという事実は変わらない。
叔父の力は絶大で、敵に回せば王家といえどもどうなることか。
私の個人的な問題として、母のこともある。
――やっぱり、力が必要だわ。
レガート様はすでに公爵家と戦う用意があると言っていたけれど、私も足でまといのままではいられない。
私はじっと、レガート様が手に持ったままの宝石箱を見つけた。
彼と生きる未来を選ぶと決めたなら、次にすべきことは――
「……ゴールドサファイア」
「なに?」
「ゴールドサファイアを見つけましょう」
レガート様が怪訝そう顔をあげる。
「レガート様、ゴールドサファイアの鉱床は必ずこの国にあるのです」
私は確信を持ってそう言った。
そう、叔父は『あると知っている』からゴールドサファイアの鉱床を探しているのだと言っていた。
私も同じだ。
私も、ゴールドサファイアの鉱床がこの国にあると知っている。
――だって、お父さまが最後にそう言い残した。
私は父が嘘を吐く人ではないと知っている。
だからそれは、ゴールドサファイアがこの国に『あると知っている』のと同じことだ。
見つけるのに時間はかかるかもしれない。
それでも叔父より早くそれを見つけ出すことができれば、王家にとっても大きな力になるはずだ。
「私はそれを持って、叔父と戦います」




