17
「様、……リタ様、聞いておられますか?」
「え? ええ、聞いてるわ」
朝、鏡台の前でアンネに髪を結ってもらっていた私は、彼女の呼びかけに気の抜けた返事をした。
しかし、どうも名前を呼ばれていたのは一度ではないようで、アンネが心配そうに青い瞳を曇らせた。
「リタ様、お加減が悪いのではありませんか?」
「ちょっとぼうっとしていただけよ」
大げさね、と笑いながらそう答える。
「それよりどうしたの?」
「はい……リタ様が以前から装飾職人の件ですが、宮廷職人のなかでも指折りのものが手配できました」
「そう! 良かったわ、すぐに作業をお願いできるかしら」
私はぱっと顔を輝かせた。
レガート様が踏んでバラバラにした、お母上の形見のブローチ。
あれを修理したいと考え、アンネに手配を頼んでいたのだ。
しかしとても繊細な細工のため、扱える職人が限られており、ずいぶん時間がかかってしまった。
――修理なんて余計なお世話かもしれないけれど……あのブローチは、私にとっても宝物だものね。
あれは幼い日、レガート様がくださった思い出の品でもある。
レガート様がブローチを踏み潰したのは勢いなのか、怒りなのか……私の理解を超えていてわからないけれど。
離縁後に返すにしても、できるものならちゃんと修理をしておきたかった。
――そう、離縁……。
ふいに気持ちが落ち込み、ため息が落ちた。
「……やはりお顔にお疲れが見えます。寝支度を整えますので、横になられてはいかがでしょうか」
アンネが、鏡越しに私の顔を見ていった。
「平気よ、体調が悪いわけではないの。昨日はほら……その、オペラで帰りが遅かったから、ちょっと疲れが残っているだけ」
オペラ――
自分で発したその言葉に、顔が熱くなった。
――そう、私……劇場で、レガート様とキス……してしまったのよね。
私は、そっと指で唇に触れた。彼の薄い唇の感覚が、まだここに残っているような気がした。
あの後はすぐにカーテンを開いて一緒にオペラを鑑賞したけれど、正直、ほとんど記憶にない。
キスのこと。あと、レガート様がさりげなく私の手を握り、指を絡めるのにドキドキして、他のことはなにも頭に入ってこなかった。
王宮に帰ってきてからも、そして一晩たったいまも、足下がふわふわとしているようで気持ちが落ち着かないでいる。
気を抜くとすぐにぼんやりしてしまい、アンネにも心配をかけてしまっていた。
――もう認めるしかないわ……私はレガート様を、弟以上に思っている。
だって私は、レガート様の口づけを拒めなかった……拒まなかった。
そして出来るなら……叶うなら、このままずっと彼と一緒にいたいと願っているのだ。
と、そこでアンネが遠慮がちに声をかけた。
「リタ様……今日は御髪を結わずに、下ろしておいたほうがよいかもしれません」
「あら、どうして?」
「お首に……その、跡が」
確かに、首筋にひとつ、虫に刺されたような赤い跡がある。
「本当だわ。変ね、蚊が出る季節でもないのに……ああっ」
昨夜、レガート様に同じ場所をキスされたこと思い出し、私は声を上げた。
これは……いわゆるキスマークでは!?
これでも通り一辺の閨教育は受けている。しかし実際にそういった行為に及んだ経験はないわけで、すぐにそちらに頭が結びつかなかった。
「……念のため、赤みを隠すお化粧をいたしましょうか?」
「ぜひ! お願いするわ!」
「すぐに準備をしてまいります!」
アンネがそう言って、小走りに部屋を出て行く。
――それにしたってレガート様ったら、こんな目立つ場所に!
真っ赤になった顔を両手で押さえながらアンネの帰りを待っていると、突然、廊下が騒がしくなった。
「いいから通しなさい、私を誰だと思っているの!」
嫌でも耳に覚えのある声だ。
ほどなくしてノックもなく扉が開き、予想通りの人物が姿を見せた。
「……オスティナ」
「お久しぶりです、お従姉さま……ずいぶんと、私から逃げ回っていらっしゃったようですわね」
「別に、逃げ回っていたつもりはないわ」
オスティナと会うのは久しぶりだけれど、叔父との新しい約束もあり、様子をみているのだろうとあまり気にしていなかった。
私から会いに行く用もないしね。
「まあ、よろしいですわ……今日は、お話があってまいりましたの」
つん、とオスティナが小さな顎をそらす。
「お従姉さま、いったい、いつになったらレガート様と離縁してくださるのですか?」
「いつと言われても……」
そもそも、まだ約束の三ヶ月も経っていない。
叔父との約束がなかったとしても、まだレガート様と夫婦いる予定だった期間だ。
けれど、オスティナにそういった理屈は通じないようで。
「どうせ、お従姉さまが陛下にわがままをいってるんでしょう?」
「そうじゃないわ、ただ陛下がなかなか……」
「陛下がお従姉さまとの離縁を渋るはずがないではありませんか!」
きっと眦をつり上げて続ける。
「陛下が愛しておられるのは私なのですから! お従姉さまは、王妃の座が惜しく惜しくてたまらないのだわ!」
「だから、そうではなくて……」
「やはり、お体に流れる庶民の血がそうさせるのかしら……そう考えると、お従姉様もお気の毒ね」
同情を装ったその侮蔑は、慣れたものとはいえ気持ちのよいものではない。
「ですが、この部屋だってさっさと明け渡してもらわないと困りますわ……お引っ越しが大変だというなら、私が手伝ってさしあげます!」
オスティナはねめつけるように部屋を見渡したあと、背後に控える自分の侍女らに視線を向けた。
「あなたたち、ここにある物をすべて運びだしてちょうだい!」
「ちょっと、それは……!」
さすがに困る! こちらにも生活というものがあるのだ。
「あら、文句があるのですか? お父さまに言いつけてもよろしいの?」
じとりと睨まれて、私はぐっと言葉を呑み込んだ。
叔父の名前を出せば私がなにも言えなくなると思っているなら、それは大正解だ。
――叔父を怒らせるわけにはいかない。
叔父とレガート様の関係は、とても微妙なバランスによって保たれている。
例の舞踏会で、二人の関係にはくっきりと亀裂が入ったけれど、それでもまだ正面きっての対立はしていない。
叔父は、私とレガート様が円満に離縁をし、オスティナを王妃に据えることができるなら、それが一番面倒がないといまでも考えている。けれど、もしも離縁がならず、レガート様が自分のいうことを聞かないと判断したなら、きっと迷わず敵に回るだろう。
――叔父を刺激しないように、すくなくとも、私は従順であるという態度をみせておかないと。
ぐっと拳を握り、侍女らが荷物を持ち出していくのを見守る。
――ここは耐え時よ、リタ。
抵抗をやめた私を見て、オスティナが勝ち誇った顔で笑う。
「そうね、貴重な品は私がもらってさしあげます……どうせ全て私のものになるんだもの」
オスティナはそう言うと、この部屋と扉つづきになっている貴重品室に踏み入った。
「これは……?」
オスティナが、レガート様の母君の形見が入った宝石箱に触れた。
「それはダメ!」
私は慌てて彼女に駆け寄った。
「……そんなに貴重なものなの?」
血相を変える私を見て、オスティナは純粋に興味を抱いたようだった。
腕を伸ばす私をひょいと交わして蓋を開き、眉をひそめる。
「……なんだ、壊れてるじゃない」
オスティナはつまらなそうに唇を尖らせてから、「あら」と声をもらした。
「この宝石は……ゴールドサファイア?」
「返して!」
私は懸命に腕を伸ばし、今度こそ彼女から宝石箱を取り返した。
――これは、オスティナには渡せない!
奪われないよう、ぎゅっと宝石箱を胸に抱きしめて前傾姿勢になる。
すると、耳にかけていた髪がぱさっと前に流れた。
「……なにそれ」
低い声だ。振り返ると、オスティナはこれまで見たこともない、それは凄まじい形相で私を睨んでいた。
その視線は、まっすぐ私の首筋に向けられている。
――しまった、首にはレガート様のキスマークが……!
気付いた瞬間、パンッと鋭い音がして頬に痛みが走った。
オスティナが、私を片手で張り飛ばしたのだ。
「痛っ」
「この、卑しい使用人の娘風情が!」
床に倒れ込む私に、オスティナが怒声を浴びせかける。
「オスティナ様!」
そこに、化粧道具を抱えて帰ってきたアンネが悲鳴のような声を上げた。
「なにをされておられるのか! 王妃殿下に対して、許されることではございませんよ!」
飛びかからん勢いのアンネに向かって、私は手を伸ばした。
「アンネ! いいから!」
オスティナに手を出してはいけない。
レガート様の安定した治世のためには、オルディ公爵家の協力が必要なのだ。
「調子に乗るのもいい加減にしなさいよ! お前など、私の身代わりで王妃の座におさまっているだけなのから、わきまえなさい!」
オスティナの罵声が続く。
「お前がレガート様になにをしてさしあげられるというの! お前が離縁しなければ、公爵家はもう王家を支援しないと、お父さまもそう仰っていたんだから!」
私は唇を噛みしめた。
――全て、オスティナの言う通りよ。
私にはなんの力もない。
それも、いまとなってはいるだけでレガート様の地位を脅かす存在になっているのだ。
するとその時、こんと扉を叩く音がした。
「なにをしているんだ?」
次いで聞こえたのは、レガート様の低い声。
急いで振り向くと、彼は開いた扉に肩を預けるようにして立ち、感情の読めない眼差しをこちらに向けていた。




