12
私の腕のなかで、リタがすやすやと寝息を立てている。
『添い寝』に最初は緊張していたようだけど、そのうちに疲れて寝てしまったようだ。リタは昔から寝付きがよいからね。
私は片手でリタを抱いたまま、軽く上半身を起こした。そして、まるで巣の中にでもいるように穏やかな顔で眠るリタを見て、ゆっくりと唇で弧を描く。
――チョロすぎるよ、リタ。
ちょっと引いたり押したりしたぐらいで同衾を許すなんて。森に罠を仕掛ける狩人だって、こんなにあっさりと獲物がかかれば拍子抜けするだろう。
まあ、簡単に落ちなければ方法を変えるだけだから、結果は変わらないのだけど。
――勝負だ、努力だと全部真に受けて……可愛いね、リタ。
私との離縁を望み、逃げようとする酷い人。
私を『弟』だと言いながら、こうして拒み切れずにいる愚かな人。
この世で最も愛しい、唯一の人。
彼女を想う時、胸の中には様々な感情が渦巻く。
愛しさ。胸が焦げ付くような渇望。疼くような胸の痛みと、苛立ち。それから……。
私は顔から笑みを消すと、彼女の髪を指ですくい上げた。仄かに赤く色づく金色の髪。その滑らかな感触を指で味わってから、キスを落とす。
――そう。
初めから逃がすつもりなんて微塵もない。
必要なら檻に入れて、鍵をかけてでも、絶対に逃がさない。
たとえ心が手に入らなくても、リタが傍にいてくれるならそれでいい。
あの時に、そう決めたのだから――。
私――レガート・フォルツァンドの両親は、多くの王族がそうであるように、義務で結婚をした。
父は、ロスイング侯爵家の令嬢と若い頃から恋人関係にあって、しかし様々な思惑によって結ばれず、オルディ公爵家に縁のある令嬢を王妃に迎えた。これが私の母である。
だが父は恋人を手放すことができず、結婚後は彼女に王宮北翼の一室を与えて囲ってしまった。
私が生まれたときも、父は彼女の部屋にいたと聞いている。
出産を終えた母の部屋とは、わずか数百メートルしか離れていない場所だ。
そして一報を聞いても母のもとへは向かわず、ただ祝いの品を臣下に命じて届けさせたという。
ようやく息子の顔をみたのは、さらに十日を過ぎてからのこと。
父にとって、母は周囲の都合で押しつけられただけの妻だった。
王妃に子ができないと恋人が責められるから、仕方なく子を作っただけ。
そうして出来た子どもに興味など持てるはずがない。
父は私を愛さなかったし、一切の関心を持たなかった。
それでも、母が生きている頃はよかった。
母はいつも父への恨み言ばかり吐いていたが、私のことはそれなりに愛してくれたし、私もまた母を愛していた。
公爵家の後ろ盾もあり、この頃に肩身の狭い思いをしていたのは父の恋人の方だっただろう。
しかし私が四歳の時、母が亡くなると宮廷の状況は一変した。
父は恋人と再婚をし、彼女は宮廷の支配者として君臨したのである。
その数年前後、オルディ公爵家の嫡男が出奔したり、当主が病で亡くなって代替わりしたりと慌ただしく、宮廷内部のことにまで目を向ける余裕がなかったのもよくなかった。
彼女は私の味方をすべて宮廷から追放すると、そのうちに食事を抜き、体罰を振るうようになった。
父はそれを全て、見て見ぬふりをした。
私も、はじめのうちは辛かった。日々のことも、父の態度もだ。
父に愛されていないことは頭でわかっていたけれど、それを突きつけられるのは堪えるものだ。
けれど……耐えて、耐えて、我慢をしている間に次第に心が慣れてきた。
すると、息をするのが少し楽になった。
私は、それから少しずつ、色んなことに慣れていった。痛み、苦しみ、寂しさ、寒さ。それらは少量の毒のように、徐々に体に馴染んでいった。そうすると驚く生きやすくなったけれど、同時に、喜びや楽しみも感じなくなった。
世界から色が消え、生きているという実感もなく、ずっと夢のなかを彷徨っているような感覚。
ただただ、淡々と日々が過ぎていく。
なにもかも、すべてがどうでもよい……そんな風に感じていた。
あの日、私が九歳のとき、リタが目の前に現れるまでは。
『はじめまして、レガート様。私はリタ・オルディと申します』
赤みがかった金髪の、若葉色の瞳をした二つ年上の少女。
――この人が、私のお嫁さん。
そう思うと、なんだか胸がくすぐったいような気がした。
さらに一緒に過ごしはじめると、リタは理不尽な暴力に怒り、私の代わりに鞭を受けようとするようになった。
リタがなぜ、そこまでしてくれるのか、私にはさっぱり理解できなかった。
ただ、彼女が笑うと、世界が仄かに光るようだった。
そして。
『レガートさま、理不尽な折檻を受ける必要はありません、逃げ出してしまいましょう!』
そう言ってリタが私の手を引いたとき、心の奥で何かが噛み合う感覚があった。
一歩前を走る彼女のまわりから色彩が広がっていく。
世界に色が戻った――とは違う。
その瞬間、彼女自身が、私の世界の色になったのだ。
リタはそこで咲く薔薇の赤であり、その傍らで揺れる緑であり、命を育む土の色だった。
空に広がる青であり、夜を包む黒でもある。
――リタが好きだ。
光の粒が胸の奥で弾けた。
――リタが欲しい。
それは、これまでに覚えのない強烈な執着。
飢えにも似た、切迫した想い。
――ずっと、ずっとずっと、リタと一緒にいたい。
強く強く願ってから、私は大丈夫だと自分に言い聞かせた。
その願いは叶う、だって私たちは夫婦なのだから。
死が二人を別つまで共にいると、神に誓った――。
だというのに、なぜか私の心には不安が残っていた。
リタが、ロバートの命令で私に嫁いできたことは知っていた。
理由はきっとそれだだろう。
彼女が自分の意志で私を選んだわけではないから、不安があるに違いない。
『ねえリタ、約束してくれる? これから先もずっと、ずっとずっとぼくと一緒にいるって』
だから私は、リタに約束をもとめた。
神ではなく、私に誓ってもらえば、少しは安心できるかもしれないと思ったのだ。
『はい、もちろんです! 私はずっとレガート様のおそばにおりますから!』
リタはすぐに、私が望んだ通りの言葉をくれた。
しかし心に刺さった不安の棘は抜けないどころか、さらに深く食い込んだようだった。
仕方がないので、ひとつ小細工も試みた。
亡くなった母のブローチを持ち出してきて、リタに贈ることにしたのだ。
『これは、母上の形見なんだ。リタに受け取ってほしい……母上は、私の妻に渡して欲しいと言っていたから』
嘘だった。
ブローチが母の形見なのは本当だけれど、『妻に渡して欲しい』なんて言われていない。
さらに言うとこれは金庫に眠っていたもので、私が託されたものでもない。
『母の形見』を渡すことで、リタの心を縛りたかっただけ。
リタは戸惑いながらもブローチを受け取ってくれた。
――けれどやはり棘は抜けない。
私は、少し苛ついていた。
どうして安心できないのか分からない。
自分は彼女と夫婦で、すでに愛を誓った仲だというのに、なにが足りないのだろうか。
――ああ、義母上が邪魔なのかも。
はたとそれに気付いた時には、リタと結婚してから二年が過ぎていた。
その頃には過度な体罰はなくなり、食事もきちんと三食与えられるようになっていた。
リタが王太子妃になったおかげで、ロバートが宮廷に口を出せるようになったからだ。
義母も公爵との全面対立は避けたいらしく、リタには表だって手を出せずにいる。
宮廷は依然として王妃の支配下にあるから、暮らしに色々な不便はあったけれど、リタさえいてくれれば私に不満はなかった。
しかし何かのきっかけで力の均衡が崩れたら、義母は私たちを引き離そうとするかもしれない。
それは避けなければならないし、手を打つべきだと感じた。
――そうだ、義母上に消えてもらう。
自分も十三歳になっており、宮廷や社交界の知識を身につけ、政治における貴族たちの権力関係も把握していた。
もう十分、ひとりで動ける。
私はそれから、さらに二年の月日をかけて少しずつ義母の力を削いでいった。
その過程で彼女の悪事――王室の財産を使って豪遊するのみならず、実家へ資金を流していたことなどが分かった。
彼女はそれらが明るみに出ることをおそれ、ついに私に毒を盛ろうとしたが失敗し、処刑されたというわけだ。
義母が処刑されたとき、真っ先に私に不審の目を向けたのはロバートだった。
『もしかすると……殿下は王妃さまが毒を盛ろうとすることをわかっておられたのでは?』
ロバートには真意をあかさず、上手く立ち回っていたつもりだったけれど、多少怪しまれたようだった。
もちろん、上手く誤魔化したけれど。
残りの懸念は、最愛の妻を亡くした父がどう出るかだった。
父は義母の処刑に最後まで反対し、強行すれば関与した者を粛正するとまで言い放ったのだ。
けれど、いざ処刑が執行されると、父は部屋に引きこもって一切姿を見せなくなった。
私は、諸手を挙げて喜んだ。
――これでもう、私とリタの邪魔をする人間はいない!
めずらしく浮かれていた。
王妃が亡くなったことで宮廷の環境は改善され、王室費も見直されて、私たちには新しい衣服が支給された。
庭園で、リタが新しいドレスを着て笑っているのを見ると、なんとも言えない満ち足りた気分になった。
これを幸せというのだと思った。
こんな日々がずっとずっと、死ぬまで続いていく……こんなに嬉しいことはない。
国も、民も、政治もどうでもいい。
権力は欲しいものが持てばいいのだ。
リタを妻にしてくれた公爵には感謝しているから、彼が好きにできるようにしてやろう。
その代わり、私はリタと二人、この王宮という箱庭で死ぬまで幸せに過ごすのだ。
だから――
『レガート様! ほら見て、薔薇が咲いています』
そう言って微笑むリタを見てなお胸の奥に燻る不安は、ただの思い過ごしに違いない。




