五ニャン 猛特訓
それから彼は、『飼い猫』になる為の特訓を、職員と毎日一緒に頑張っていた。『爪切り』『お風呂』『抱っこ』の訓練である。
だが、やはり野良猫としての生活が長かった彼にとって、人に飼われる猫になる・・・というのは、今までの生活や常識が全く通用しない世界へ踏み込む・・・という事。
まるで、急に異世界へ転生した主人公の様である。
ゴミ袋を漁るのに重要な爪を切られるのも嫌だった上、冷たい雨に触れるのが嫌だった彼にとって、お風呂は水で満たされている場所、まさに『恐怖の一室』でしかなかった。
だが、もうゴミ袋を漁る必要もなければ、冷たい水ではなく、温かいお湯で体をポカポカにするのが気持ち良い事を学習した彼は、職員でもびっくりするくらい、飼い猫としての成長を遂げた。
彼は賢い上に、記憶力もある。だから、一度お風呂の気持ちよさを記憶してしまえば、もうお風呂は恐怖の対象ではなくなる。
ただ、『爪切り』に関しては、やはりずっと恐れていたままであった。
しかし、色々と手を焼きながらも自分とちゃんと向き合ってくれる職員の粘り強さと、毎日の積み重ねにより、人間に対しての恐怖心も、当初は一時間もかかった爪切りの恐怖も、徐々に薄れていく。
その結果、彼は一ヶ月もしない間に、この施設での生活に慣れてしまう。爪切りも、若干手こずりはするものの、十数分程度で済むくらい、彼は成長した。
一ヶ月が経った頃には、もうご飯の時間を完璧に把握して、爪の伸び具合によって、『恐怖の爪切り』をする時期まで学習してしまった。
また、施設の人間だけではなく、訓練の最中で一緒に過ごした三毛猫や他の猫との関わりも、彼の成長に大きく貢献していた。
昔から一人っ子として育てられ、母猫と別れた後も一人ぼっちで生活していた彼にとって、自分の仲間との触れ合いは、良くも悪くも彼の記憶に残るものであった。
一緒におやつを食べたり、一緒に寝床で寝たり、時には戯れ合いが激しくなり喧嘩したり・・・
そして、施設での生活が二ヶ月になろうとした頃、ついに職員の口から、こんな言葉が出てきた。
「私達が、絶対良い『飼い主』を見つけてあげるから」
そう、いよいよ彼を引き取ってくれる『飼い主』を探す
『譲渡会』が、翌日に開かれる。
彼のいるケースの隣で生活していた三毛猫は不参加ではあるものの、その三毛猫にも、近々『行く先』がある事を、譲渡会の前日、彼に教えてくれた。
「この施設ではな、飼い主が決まらない猫は、あの『ふれあいルーム』の仲間入りをするのが決
まりなんだ。あそこには、俺の先輩もいる。」
「『せんぱい』??」
「俺よりも早くこの施設に来た奴の事。
・・・ちなみに言うと、お前は俺にとっての『後輩』
俺よりも後から来たからな。」
「成程ー!!
・・・でも寂しいな。
さっき、『じょーとかい』がどうゆうものなのか、あそこで話している人間さん達の話を聞い
たんだけど、此処を離れる事になるんだよね。
僕、此処のご飯もおやつも、三毛猫さんも好きだったんだけどなー・・・」
「・・・・・そうだな、俺もだ。」
そう言って、三毛猫は照れながら寝床に潜っていく。彼は寂しいながらも、楽しみでもあった。
元々彼は好奇心旺盛な上、覚えるのが楽しい性格。
特にこの施設で経験した初めてだらけの体験達は、彼がこれから生きる上で、非常に大切なものになっていく。
それは、手を焼きながらも彼に様々な事を教えてくれた、施設の職員達の努力によるものである。
そして職員達も、彼が優しい飼い主の元に行ける事を、心から願っていた。
朝イチで出勤して、譲渡会に参加するネコ達の様子を伺う職員の1人が、彼が入っているケースを確認すると、寝ぼけ眼のまま職員の顔を賢明に見ようとする彼の姿があった。
その顔を見た職員は声を押し殺しながら笑い、人差し指をゆっくりと入ると、まだ寝ぼける彼の頭を優しく撫でる。
そして彼に向かって、「幸せになってね」と、小声でエールを送る。
施設側としては、良い飼い主に猫が預けられる事こそ、仕事冥利に尽きる。その為に、彼も今まで色々と頑張って来たのだから。
彼に、一生分以上の幸せをくれる人なら、男でも女でも構わない。彼に、毎日栄養満点の食事と、温かい寝床、そして沢山の愛情を与えてくれる人。
その条件は、人によっては難しいのかもしれない。
しかし、『生きる上での幸せ』を感じるには、それくらいはしてもらわないと、施設側としても、適当に飼い主を選びたくない。
もし、後先何も考えずにポンポン飼い主を決められたら、引き取られた側の動物に申し訳ない。
昨今では、『施設側のトラブル』や『飼い主側のトラブルが』報道されている。
その被害に遭った動物達は、言えることの内傷を背負いながら生きなければいけない。そう、彼となくよくしていた、あの三毛猫のように・・・
だからこそ、職員はあの三毛猫を、施設の中で飼う事にしたのだ。
彼の背負う傷は治らなくても、せめて彼には、以前の様な『劣悪な環境』ではなく、『ネコとしての生活が謳歌できる環境』を提供させる事が、三毛猫にとって一番の幸福であると信じて。
日々『野良犬』や『野良猫』が増えている現状だとしても、動物達の幸せを願って、頑張る人達もいる。
譲渡会が行われるのは、施設から車で10分もしない場所にある、市の施設。そこでは年に数回、譲渡会が開かれ、多くの犬や猫達が、飼い主に引き取られていく。
猫の移動手段は、リードで繋がれている犬とは違い、とにかく猫が入っているケースをバケツリレー方式で運んでいき、ワゴンに詰め、少しの間だけ我慢してもらい、会場へと持って行く。
施設から貰えるご飯やおやつには慣れたものの、車の中はまだ全然慣れていない彼は、ワゴン車の中でずっと鳴きっぱなしであった。
そんな彼に、優しく「大丈夫だよ」と語りかけてくれる職員。彼はその言葉で落ち着きを取り戻し、窓から見える景色を、ただジーッと眺めていた。