三ニャン 前途多難
彼が意識を取り戻すと、途端に『母猫と似た匂い』を感じ、飛び起きた。だがそこに、母猫の姿はない。
しかし、その施設内にいるのは彼のみではなく、自分と同じく保護された猫達が、まるでマンションの様に連なったケースの中にいた。
そして遠くの方には、広々としたガラス張りの部屋で、彼よりもっと大きい大人の猫が、何匹も一緒になって遊んでいる。
その部屋のドアには、『ふれあいルーム』という文字がプリントされてあるカラフルなシールが貼られていた。
あちこちでは、猫の怯える鳴き声だったり、威嚇する声だったり、だいぶ騒がしかったものの、彼にとっては、夜の繁華街よりはまだマシな騒がしさ。
彼は母猫以外の猫とは殆ど関わりを持たなかった為、初めて見る別の猫に、思わず興奮が隠せなかった。
自分の姿は、雨上がりの水たまり等で何度も見てきたものの、周囲の猫達は自分とは全く違う『柄』や『体の形』をしている。
彼は、まるで色とりどりの花をキラキラとした目で観察する子供の様に、あちこちをキョロキョロと見回していた。
そして、ケースの前では、2人の女性職員が保護された猫の様子を一匹ずつ念入りにチェックして、記録をつけている。
「いやぁー・・・
昨日は大変でしたねぇー」
「仕方ないわよ、この子にとって、初めての『動物病院』だったもの。私だって、いくつになっ
ても病院は怖いわよ。
ねぇー」
女性は、彼に対して優しく語りかけるものの、まだ人間に対しての恐怖心が抜けていない彼は、必死に威嚇をする。
だが、それでも女性は笑顔のまま、悪い顔は一切見せない。
『保護施設』や『自分以外の野良猫』を見るのも初めてだった彼、自分に対して『笑顔を向けてくれる人間』というのも、彼にとっては初めてだった。
いつも人間を避けるように生きてきたから、仕方のない事なのかもしれないが、今まで彼が見てきた人間の顔は、ほぼ全てが『無表情』であった。
路地までゴミを捨てに来た店員も、店の裏でタバコを吸うおじさんも、その顔からは心境が読み取れない程、仏頂面しか見てこなかった彼。
そんな彼が初めて見た、『人間の笑顔』
その微笑みを見た彼の心には、『一つの疑問』が生まれていた。それは、母が彼に一番言いつけていた『人間には絶対近づくもんじゃない』という教訓。
彼は初めて、母猫の言葉に疑問を持ち、戸惑っていた。
彼はその女性に近づいてみようか・・・・・と思ったのだが、何故か妙に体が重く、体のあちこちから『ツンとする臭い』がして、思わずくしゃみを連呼する。
そう、彼が施設に保護されてから、もう今日で『2日目』だった。
保護されたその日、彼はずっと寝付けないまま朝を迎える。
いつもは冷たいコンクリートの床で寝ていた為、モコモコしている暖かいクッションの上で寝るのは、心地良いけど慣れなかったのだ。
彼は床のクッションだけでも除けようとしたのだが、ガリガリと両足で引っ掻いても、全然動く気配がない
しばらく彼が奮闘していると、別のケースから唸り声が聞こえた為、彼は諦めてクッションの上で頑張って寝た。
そんな状態のまま連れて行かれたのは、『病気』や『寄生虫』を確かめる『動物病院』
そこでも彼は、初めてだらけの物や人間、そして『自分とは違う動物』を目にしていた。
自分よりも遥かに大きく、鳴き声も大きい『犬』
鳥カゴの中で首をあちこちに動かしている『鳥』
同じくカゴの中だが、回し車を忙しなく回している『ハムスター』
それぞれの動物も初めてだったが、彼にとって大勢の人間に囲まれるのも初めてだった為、何度も逃げようと試みたものの、相手もプロ。
すぐに診察台に乗せられてはまた脱走・・・・・を、6回くらい繰り返していた。結局、彼の診察には一時間以上もかかってしまう。
時間はかかってしまったが、ちゃんと全ての検査を終える事ができた。
だが、散々病院内で追いかけっこをしたせいで、施設の職員もだいぶヘトヘト、病院の看護師もヘトヘト、彼もヘトヘト。
幸い、彼には何の病気もなく、栄養失調気味ではあるものの、野生の猫にしてはだいぶ健康な方であった。
彼にちょくちょく『ちゃんとした餌』を与えていた、イートロードの店員達の心遣いが大きかった。
そしてそのまま、何事もなく彼は施設へと帰されたのだが、彼自身は暴れすぎて疲れ果て、夜ご飯も食べぬまま眠ってしまったのだ。
そして、時計の太い針が右側に差し掛かろうとした時間帯で、彼はようやく目を覚ました。
おかげでお腹がペコペコ状態だった為、彼はご飯が欲しくて、柵を手でチョンチョンと突いてみる。すると、職員が急いでご飯を持ってきてくれた。
柵の金属音は、割と平気だった彼。
毎日ゴミ籠の中を漁っていた為、金属の擦れる音や、ぶつかって甲高い音が聞こえても、ご飯を食べる度に聞いていた。
だが、隣のケースに入れられている一匹の猫が、柵の音に驚きながら、彼にご飯をあげている職員に向かって威嚇を始める。
彼は夢中でご飯を食べながらも、隣の猫が威嚇をする声を聞いていた。
「何だ?! またいじめたいのか?!
かかってこい!! もう餌だけじゃ騙されないぞ!!!」
そんな隣の猫の訴えを聞き、彼はびっくりした。隣の猫の体は、彼の体と同じくらい小さいが威嚇の迫力は、彼以上だ。
この施設に運ばれてから、母猫の教訓を疑っていた彼であったが、隣の猫の訴えを聞き、その教訓が正しかった事を知った。
ご飯をペロリと完食した彼は、尚も威嚇を続けている隣の猫に、少しだけ話しかけてみる事に。
「・・・ね・・・ねぇ・・・君・・・」
「うるさいっ!!!」
「ヒィィ!!!」
話しかけようと試みたものの、思わぬとばっちりを喰らってしまい、彼はそのまま寝床に引っ込んでしまう。