第四十七話 矢折れ刀尽きるまでは
台場山を引き払い、五稜郭へと退却を余儀なくされた。
敗北したならば仕方ない。
だが、実際は勝っていたのである。
歳三としては面白いはずがなかった。
だが函館へ戻った時、その苛立ちは消えた。
町の様子を見て、それどころではないと思い知らされたのだ。
「これは艦砲射撃による被害か。あちこちが焼けている」
目を見開いた。
何軒かの家が吹き飛び、塀が崩れている。
生け垣も散り散りになっていた。
緑萌え立つ季節だが、こうなっては葉も生えないだろう。
「新政府軍は弁天台場を主に狙っていたのですが、こちらにも流れ弾が飛んできまして。浜の漁師達にも被害が出ております」
兵の説明を聞きながら、歳三は海の方を眺めた。
沖に張り出すようにして小高い山が見えた。
見慣れた弁天山である。
あの麓付近に弁天台場が築かれているのだ。
「まったく方角が違うではないか。俺達に対する見せしめというわけか、これは」
一般人が被る戦の被害を零には中々出来ない。
歳三も、それはただの理想論だと分かってはいる。
だが、現にこうして吹き飛ばされた家を見ると心が痛んだ。
露西亜が近いこともあり、函館は比較的に整備されている町だ。
けれどもその町並みも粉塵に汚れてしまえば台無しである。
「ひでえな、これは」
「俺らが二股口で戦っている間にこんなことに」
兵達も驚き、目の前の光景に目を奪われていた。
ただ落胆しただけではない。
新政府軍の艦隊の威力を思い知ったようだった。
更にもう一つの光景が駄目押ししてきた。
誰かが「あれは回天では?」と海岸線を指差したのだ。
「回天だと? 馬鹿な、船渠にも入れずあんな場所に?」
半信半疑のまま、歳三も同じ方を見る。
目が対象を捉えた。
黒ずんだ大きな船体に見覚えがあった。
特徴的な三本マスト、二本の煙突、それに船体脇の大きな外輪。
間違いない、回天だ。
大きな鯨が岸に打ち上げられたかのようにも見える。
だが、何故。
すぐに答えが兵の一人から返ってきた。
「敵艦の砲撃により回天は故障したそうです。動くことも出来ないため、海岸線に浮き砲台として置いているんだとか」
「ずいぶんやられているな」
「はい。こちらの船で動くのは蟠竜と千代田形だけだそうです」
海での戦力差が浮き彫りになっている。
蟠竜と千代田形は比較的小型の軍艦だ。
回天が機動力を欠いた今、新政府軍の艦隊に抗し得る船は無い。
歳三は陸軍奉行並のため、海戦には詳しくは無い。
けれども先の宮古湾海戦を思い出していた。
「陸では函館一箇所に追い詰められ、海も敵に制圧されたも同然か。ここから逆転する手は……」
続く言葉を飲み込んだ。
無い、と言ってしまえば更に士気が下がる。
自分は指揮官なのだ。
慎重論はともかく、弱音は吐けない。
「これから考えるとしよう」とわざと陽気に言った。
「早く五稜郭へ戻ろう。まだ負けと決まったわけではない」
部下達を急かしながら、歳三は海岸線を振り返った。
回天の黒い船体は灰色の岸壁に横付けになったままである。
それでも沖に向けて大砲を向けていた。
無意識にぶるりと武者震いしていた。
"矢折れ刀尽きるまでは……か"
そうだ。
まだ終わってはいないのだから。
歳三が五稜郭を留守にしていたのはごく短期間である。
しかし、少し見ない間にずいぶん変わり果てた気がした。
気のせいではない。
皆の顔が荒んでいる。
「松前や木古内からの兵が合流しましたからね。言ってはなんだが、負け戦の気配を引きずってきてしまった」
「人見さん、自虐的なことを言うものじゃない。木古内からの退却を決めたのは私なのだから」
「すいません、大鳥さん」
「何とも言いようがありませんね」
人見と大鳥の顔を見て、歳三は苦笑するしかなかった。
二人とも複雑な表情である。
退却により敗残兵を一箇所に集めるのは、戦略的には間違いではない。
むしろ各個撃破を防ぐための前向きな策とも言える。
だが、今回はそうではなかった。
兵糧や物資の運搬は上手くいかず、五稜郭にはただ人数だけが増えていた。
窮乏ぶりに拍車がかかっている。
「まったく酷いものだよ。奴等の軍艦が大砲を撃つ度に、こちらは震え上がる始末だ。勝ち筋が見つからないと、こうも弱気になると思い知った」
人見はため息をついていた。
この時、二十代半ばの若き俊才も完全に手詰まりだった。
年上の歳三としては「若いのに情けないことを言うなよ」と言うしかない。
「すみません」
「いや、謝ることはないさ。人間誰しも下を向きたくなることはある」
「そうですよ、人見さん。私なんかずっと土方さんに負い目を感じていたんだ。下ばかり向いてきた」
合いの手を入れたのは大鳥だった。
秀才らしからぬ冗談である。
人見が目を剥いた。
「そりゃ本当ですか」
「本当ですよ。実戦経験も無く、机上の学問だけで陸軍奉行になったんだ。戦場に出た時は膝が笑っていましたからね」
「前に聞きましたね、それ」
ぼそっと歳三は突っ込んだ。
沈黙が生まれたが、それも僅かの間だけだ。
三人は顔を見合わせた。
自然と笑みがこぼれ出す。
「はは、何だか気が楽になりました。難しい顔をしても仕方ないですね」
「そう、暗くなっても事態は好転しない。今出来ることを考えましょう。希望を見出すのは難しいけど、自分達から捨てては駄目だ」
人見と大鳥の言葉は、歳三の心にじわりと効いた。
体の内にほのかな熱が生じたようだった。
"そうだな。まだ終わってはいない"
たとえこの戦に負けるとしても。
"俺は前を向いて戦い抜く。そう決めたのだから"
最後まで武士であること。
士道をまっとうすることを。
「ここ、五稜郭にはまだ兵がある。装備もある。何より我々が生きている。下を向いている場合ではない」
力強く一息に言い切った。
歳三は窓を開け、外を見た。
函館の海が見える。
弁天台場が見える。
回天が海岸線にうずくまっている。
京都から蝦夷までの戦いの結末が、この景色なのだ。
そう思うと、胸の奥に風が吹いた。
心の奥の何かをかき鳴らすような風だった。
"ここが最後の舞台だ"
チィン、と兼定が鳴った気がした。




