第三十一話 函館にて
函館は海に面した町である。
函館湾をぐるりと囲む形で陸地がある。
陸地の一部がぐいっと湾に飛び出しており、そこに函館山という小さな山があった。
地形の関係で海からぴょこんと飛び出ているようにも見えた。
函館の人々は海と山を身近に感じながら、日常を過ごしている。
「面白い地形だな」
歳三はじっと外を眺めている。
彼がいるのは五稜郭という城の一室だ。
この城は西洋の築城技術で以て建築された。
独特の五芒星の形の城壁もその表れだ。
「と申されますと」
歳三の背後で一人の若者が応じた。
名を市村鉄之助という。
よく見れば顔はまだ幼さを残しており、少年と言う方が近いだろう。
昨年江戸での隊士募集により入隊した。
利発で気が利くため、歳三も従者として重宝している。
「あの函館山のふもとに弁天台場があるのは知っているな。弁天台場からの砲撃で敵襲を足止めする。その間に、こちらの船を函館湾に出して相手の背後を取る。陸と海から挟み撃ちだ」
「ああ、確かに」
「とはいえ、机上の空論に過ぎんがね。こちらの船がもたもたすればお終いだ。一方的に台場が落とされ勝敗は決する。難しいな」
歳三は苦笑した。
その姿は京都にいた時からかなり変わっている。
髷は断髪し、髪を後方に撫でつけている。
服装も西洋風だ。
舶来の黒い羅紗製の三つ揃い。
つまり上はチョッキとフロックコオト、下はズボンである。
チョッキの右胸から覗くのは、懐中時計の金鎖だ。
新撰組のだんだら羽織姿からは想像もできない洋装である。
この姿を見て榎本武揚は「土方さんは洋装が似合うな」と称賛した。
当の本人は特に反応しなかったのが、歳三らしいといえばらしい。
どんな服装をしていようが、この男の本質までは変わらない。
京都時代と同じ怜悧な目が市村の方を見た。
「確か夕方から会議だったかな」
懐中時計を開きながら、歳三は市村に聞いた。
「はい。申の刻、すいません、午後四時からです。定例会議であり軍議ではありません」
「分かった。少し出る。お前はついてこなくていいぞ」
「承知しました。お気をつけて」
頭を下げる市村を残し、歳三はその場を後にした。
馬を借り、五稜郭の城門を出る。
空気はいくらか潮の匂いを含んでいる。
生まれ故郷の多摩や京都では感じなかった匂いだ。
最初は戸惑ったがもう慣れた。
カッ、と軽く拍車をかけた。
馬の背に揺られて函館の町を目指した。
"思えばずいぶん遠くまで来てしまったな"
馬上から海を眺める。
曇天のせいか、海は灰色がっていた。
沖合には何隻か小型の舟が見える。
おそらく漁船だろう。
ここ蝦夷では漁業が盛んだ。
鮭や鱈などの海の魚も慣れれば中々美味しい。
魚と言えば−−ひとつ思い出したことがあった。
"総司のやつ、西京焼は美味いって言ってたな。蝦夷の魚を食ったら何と言っただろう"
チクリと胸が痛くなった。
沖田はもういない。
昨年江戸で亡くなったことは風の頼りで聞いている。
沖田だけではない。
近藤もだ。
自ら新政府軍に投降して、そのまま処罰された。
他の新撰組の幹部達もほぼいなくなっている。
"俺もいつかは……いや"
今はまだその時ではない。
歳三は正面を見据えた。
行き交う人が増えている。
そろそろ目的地である。
******
「珈琲をお持ちいたしました」
「ありがとう」
歳三は少しだけ顔を上げ、すぐに戻した。
函館には西洋風の喫茶店が何店かある。
ここもその一つだ。
時折、歳三はこうした喫茶店を訪れることがある。
今日も夕刻の会議まで過ごすつもりだった。
「ご贔屓にしていただき、ありがとうございます。店主も喜んでおりますよ。あの土方歳三様がよく来てくださると」
「いや、礼を言うのはこちらの方だ。いつも長居させてもらっている」
「とんでもございません。それではお邪魔のようなのでこれで失礼いたします」
珈琲を持ってきた女給が下がった。
この女給も西洋風の服装をしていた。
紺色の裾の広い服はスカアトと言うらしい。
その上に、白いひらひらした飾りのついた前掛け−−エプロンと呼ぶ−−をしている。
函館にはこうした西洋風の文化がある程度溶け込んでいた。
露西亜と交流があるためだろう。
碧眼紅毛の異国の人間も見かけることがある。
最初見かけた時は酷く驚いた。
"だが慣れてしまえば"
手を伸ばし、珈琲に口をつけた。
黒く熱い飲み物は苦く、また香ばしい。
歳三は酒に強くないため、こちらの方をよく嗜む。
原料は黒い豆だそうだ。
恐らく世界には見たこともない食べ物や飲み物が山のようにある。
そんな思いを珈琲で喉の奥に流し込んだ。
頭が冴える。
「さぁて」と呟き、手元の冊子を広げた。
和紙を紐で綴じた冊子には『豊玉発句集』と書いてある。
昔書いた俳句をまとめた歳三の句集である。
蝦夷に移ってから、何故か読み返すことが増えた。
喫茶店でこの句集を読む時間は、歳三にとって大切な時間である。
視線を右から左へ。
急がずゆっくりと読む。
多摩時代に詠んだ句が多い。
公用に 出てゆくみちや 春の月
−−多摩にいた頃だな。
あの頃は自分を持て余していた。
きちんとしたお使いを頼まれて、えらく緊張したもんだったな。
春の空を仰いだ時、月が見えたんだ。
優しく、柔らかい月光がフッ、と夜道を照らしてくれて。
鶯や はたきの音も ついやめる
−−あの時か。
姉ちゃんに言われて、家の障子にはたきをかけていたんだ。
ぱたぱた埃を落としている時、不意に鶯の鳴き声がした。
あのホーホケキョっていう長閑な鳴き声さ。
つい手が止まってしまって、姉ちゃんに怒られたよなあ。
姉ちゃん、元気にしてるかな。
一句一句に思い出がある。
句を見る度に、その時の情景が色彩を取り戻す。
歳三にとって豊玉発句集は過去の足跡そのものだった。
ぱらりと一枚、また一枚。
その手がふと止まった。
 




