第二十二話 薬丸自顕流
歳三は臆病ではない。
必要とあらば剣を抜き、命のやり取りをする。
戦わねばどうしようもないならば、全くためらわない。
新撰組の理念もある。
だがそれ以上に歳三個人の資質が関係ある。
"人斬り半次郎か"
ある夜、歳三は考えていた。
壬生屯所の自室である。
隊士の中には京都の町中に自宅を構える者もいる。
だがこの男はそうしたことには無頓着であった。
寝間着の上にどてらを着込み、一人難しい顔をしていた。
"仮に戦ったとして勝てるか?"
噂に煽られたのかもしれない。
中村半次郎が土方歳三を狙っている。
土方歳三が中村半次郎を狙っている。
両方の噂が耳に入ってくる。
いったん意識すると頭の中に噂が巣食った。
時折このように考えてしまうことがある。
"怖いか怖くないかで言えば怖い"
自分の中の恐怖を認めた。
畳の上であぐらをかき、そのまま壁に背を預けた。
真冬であり、部屋に忍び込む空気は冷たい。
だがその冷気がさほど気にならない。
コツ、と身体の奥底で燃えているものがある。
激しい燃焼ではない。
炭の熾火のような静かな燃焼だ。
"薬丸自顕流か。一気呵成の攻めを得意とする剣術だ。近藤さんが言っていたな。何が何でも初太刀を外せと。受けても力で押し切られるから"
歳三も薩摩藩の修練は見たことがある。
薩摩では示現流と薬丸自顕流の二つの剣術が主流だ。
江戸中期に示現流から分派したのが薬丸自顕流である。
ただ、根本的にはどちらも剣術思想は同じだ。
二太刀要らず。
この一言に集約される。
"防御を考えず最初の一太刀に全てを賭ける。可能なのか、そんなことが"
疑わしい。
普通、剣術は攻防両面を考えて組み立てられる。
自分が攻めれば相手も攻めてくる。
防御無しの剣術など、道理から外れるというものだ。
攻めて攻めて攻めまくる。
言うは易し、行うは難しである。
ゾク、と背中が震えた。
何だ、この感覚は。
まるで真剣を前にした時のような。
"俺は考えているのか。中村半次郎を相手にすることを"
実現するかどうかは分からない。
だが噂話を何度も聞く内に、刷り込まされている。
反対側の壁を見た。
自分の愛刀−−和泉守兼定が立てかけられている。
幾多の敵を屠ってきた銘刀だ。
薬丸自顕流相手でも届くか。
防御不可という型破りな剣術相手に届くか。
"届かせなければ終わるならば"
目を閉じる。
開ける。
冬の闇をじっと見つめた。
肌に触れる冷気を身体の奥の熱気で押し返した。
"届かせるしかあるまい"
しぃん、しぃんと。
外ではいつしか雪がちらつき始めていた。
歳三が中村を強く意識し始めたのはこの頃だ。
度重なる噂は疑念を生じさせた。
もとより中村半次郎という名は知られていた。
新撰組と薩摩藩という所属の違いはあれ、同じ剣客所業である。
京都の町中でも時折噂話が囁かれるようになった。
曰く、新撰組の土方歳三と薩摩藩の中村半次郎は反目しあっていると。
先に土方が目をつけたのだという人もいる。
いや、中村が土方に難癖をつけたのだという人もいる。
何が真実なのかは分からない。
だが、重なっていく噂はいつしか真実味を帯びていった。
「何だか気味が悪いですね」
「お前もそう思うか、総司」
「ええ。噂話にしては手が込んでいるような気がして」
うんざりといった様子で、沖田は右手の紙を差し出した。
瓦版である。
誰が書いたものか、細筆で『人斬り半次郎、鬼の副長に挑戦状か』『祇園の人気芸者を巡り、両雄骨肉の争い』『壬生の狼と薩摩の人斬り、河原町にて口論。抜刀寸前に至る』などがこれ見よがしに書かれている。
現代のゴシップ記事と思えば概ね正しい。
「くそ、皆好き勝手言いやがって」
瓦版に目を通しながら歳三はため息をついた。
呼気が白い。
二月の京都は昼間でも寒い。
沖田が肩をすくめる。
「一応聞きますが、事実無根なんですよね?」
「当たり前だ。何だこれは、勝手なことばかり書いてやがる。潰すぞ」
「うわ、だいぶご立腹だな。土方さんが怒ると怖いからなぁ」
「総司、お前は他人事だと思っているからいいがな。相手が悪い。人斬り半次郎だぞ。万が一にでも斬り合う羽目になってみろ。命が幾つあっても足りん」
歳三の口調は真剣である。
死ぬことを恐れはしない。
だが無用な喧嘩は無駄な死につながるだけだ。
この歳三の様子に沖田も表情を引き締めた。
「そうですね。私も御免だな。中村さんみたいな怖い人と殺りあうなんて。鯵の開きみたいに真っ二つにされそうだ」
「お前でも自信は無いか。そう言いながら、実は負けるつもりなどないのだろうが」
「ええ。勝てるつもりもないですけどね……っと、すいません」
歳三の皮肉に対し、沖田はさらりと返した。
こふっと小さな咳をしたのが気になる。
去年の池田屋以来、沖田は肺の薬を服用していた。
「おい、大丈夫か」
「ええ、大したことないですよ」
そう言って沖田は笑った。
その笑顔が歳三の追求を止めさせた。
本人が大丈夫と言っているのだ。
再び吐血でもしない限りは余計なお節介であろう。
だから「分かった。養生しろよ」としか言わない。
「分かっています。けどね、土方さん。今は土方さんの方が大変ですよ。いつ人斬り半次郎と剣を交えるか分からないんですから」
「言ってくれるなよ。ただでさえ気が重いんだから」
「はは、すみません」
「ふん、それだけ減らずぐち叩けるなら問題ないな」
歳三はそれ以上は何も言わなかった。
手を袖に突っ込み寒さを遮断した。
"あんなもの、ただの噂に過ぎない。万が一にも殺りあうことなどあるまい"
実のところ、心中では微かに闘志がある。
けれども理性で否定していた。
少なくともこの時は。
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