第十話 面影
年が明けると年号は文久から元治と変わった(1864年)。
正月休みが明け、世の中は目を覚ます。
新撰組の日常も平時のものになった。
そしてその日常の中には、一人の娘の姿もある。
「近藤様はいらっしゃいますか」
可愛らしい声に、沖田総司は振り向いた。
髪を二つに結っている。
微かに見覚えがある気がする。
だが名前までは知らない。
「どちらさまでしたっけ」
「おつうと申します。島原の華屋の見習いです。昨日、近藤様が傘をお忘れになったので、お届けにあがりました」
おつうがぺこりと頭を下げた。
なるほど、手には一本の番傘がある。
近藤のものと分かったので、沖田は警戒を解いた。
「ああ、これはありがとうございます。あいにく近藤さんは留守でして。私が渡しておきますよ」
「ありがとうございます、ええと、それでですね」
「まだ何か?」
傘を渡した後も、おつうは何故かもじもじしている。
沖田は不審に思った。
思わぬ名前が娘の口から飛び出した。
「土方様はお元気でしょうか」
「土方さんですか。まあ、そうですね。死なずに元気にしてますよ。ええと、土方さんに何か御用が?」
「いえっ、用というほどのことは無いのですっ。前にお世話になったのでっ。お邪魔しました、失礼いたしますっ!」
「あ……行っちゃった」
沖田が止める暇も無かった。
すごい勢いで頭を下げ、おつうはその場から去った。
一人残された形になり、沖田は所在無くなった。
右手に握った番傘を見た。
とりあえずこれは近藤に返そう。
「あの子、土方さんの何なのかなあ」
後で問おうと思いつつ、沖田は記憶の片隅を探った。
先程の娘とよく似た顔をどこかで見た気がする。
京都で?
いや、違う。
もっと前だ。
だとすると多摩でか。
"誰だっけな、ええと"
もどかしさを覚えたが、その時は思い出せなかった。
思い出したのは、その日の夕方である。
歳三におつうのことを話した時だ。
「ああ、あの娘か。平安神宮に案内を頼んだことがある」
あっさりと歳三は教えてくれた。
別に隠す程のことではない。
これで沖田にも、歳三とおつうの関係は分かった。
だがまだ一つ不明な点があった。
おつうの姿にどうも見覚えがあるのである。
その疑問を口にしてみた。
「土方さん、あのおつうっていう子、どこかで会ったことありませんか? 何となく見覚えがある気がする」
「そうか。総司も俺の姪には会ったことがあるからか」
「……なるほど、そういうことですか。だから土方さんも目をかけて」
「特別扱いするほどのことはしていないがな」
口調とは裏腹に、歳三はどこか懐かしい目をしていた。
彼には姪が一人いる。
歳の頃、十三か四歳。
ちょうどおつうと同じくらいだ。
嫁に貰われたものの、病弱ゆえに家に戻された。
不憫と思い、多摩にいた頃には何くれと世話を焼いたものである。
総司が出会ったのは、歳三の実家を訪ねた時だろう。
ほとんど会話は交わさなかったと思う。
「遊女屋の下働きも中々に大変でしょうしね。顔が似ているのもあって、可愛い姪っ子に姿を重ねたってことですか」
「さあな。自分でもよく分からん」
歳三は顔を背けた。
総司にはその背中しか見えなくなった。
梅の案内にかこつけて、僅かに情けをかけただけ。
仮にそうであったとしても、責められることではない。
同時に誉められるほどの美談でもない。
だからただ「近藤さんには言うなよ。面白がるからな」とだけ言った。
「言いませんよ、わざわざ。もう傘も渡しちゃいましたし」
「それはご苦労。話は変わるが、総司。お前は島原には行かんのか」
「えっ、うーん。行ってももてないでしょうしね。子供と遊んでいる方が気楽ですよ」
二人の会話はそこまでだった。
******
季節は移ろう。
しぃんと寒い冬が終わった。
春一番が吹いたその日、歳三は平安神宮に赴いた。
梅が咲いたと聞いたのである。
人目を避け、こっそりとである。
新撰組副長と分かれば絡んでくる輩もいる。
多少の面倒はやむを得ない。
だがそれだけの価値はあった。
"これは見応えがある"
目を見開いた。
赤、紅、白など色とりどりの梅がそこかしこに咲いている。
花の種類も様々だ。
一重咲きのものもあれば、八重咲きのものもある。
平安神宮のその一角だけが、多層な華やかさに満ちていた。
梅の香りが満ちる中、歳三はしばらく佇んでいた。
フッ、と春風が舞う。
目の前の梅の花がさぁ、と揺れたように見えた。
"咲きぶりに寒けは見えず梅の花、かな"
ふと一句浮かんだ。
上手いか下手かは分からぬ。
だが、これでいいのだと信じた。
そしておつうの顔を目の前の光景に重ねた。
この句は彼女のおかげで浮かんだようなものだ。
何か礼をすべきだろう。
"何が良いか"
とはいえ、相手は自分の半分以下の年齢の娘である。
何を喜ぶのかよく分からない。
姪の顔を思い出す。
あの子が喜ぶものなら多分大丈夫だろう。
迷った末、小さな櫛を一つ買った。
おつうも櫛など無論持っているだろう。
だがこれは歳三の気持ちの問題だ。
翌日、日が落ちた後。
歳三は島原を訪れた。
当然行き先は華屋である。
初春の宵はまだ肌寒い。
それでも遊郭の軒先には彩り豊かな飾り行燈が揺れ、道行く男をふらりと誘う。
その中を縫って歩き、歳三は華屋に着いた。
おつうを呼んでもらう。
「はっ、土方様! あああああの、こんばんは!」
「ご無沙汰している。ところで何故そのように慌てているのかね」
「そ、そのですね……わ、私、まだ下働きでして、え、ええとお座敷は、その」
「ああ、いや、そういうことではない」
歳三はあっさりと打ち消した。
おつうがホッとしたような、それでいて少し落胆したような顔になった。
気づかぬまま、歳三は懐から櫛の入った包みを取り出した。
おつうの手に押し付ける。
「今日、平安神宮の梅を見に行った。とても良い景色だった。貴女が場所を教えてくれたおかげだ。これはそのお礼です」
「そんなことでわざわざ!?」
「ええ、まあ。いけませんか」
歳三はしれっとした顔だ。
おつうは感激のあまり無言である。
無論嬉しいのだが、上手く言葉に出来ないようだ。
その様子をまったく気にせず、歳三は一歩引いた。
「ではごめん。今日は局長の近藤と副長の山南が来る。贔屓の姐さん達によろしくお伝え願いたい」
「は、はいっ、分かりました! あの、土方様は今夜は遊んでいかれないのですか?」
「ああ、私は」
フッと口元を緩めた。
「梅の香を抱いて寝たいので今日はいい」
 




