第一話 芹沢鴨暗殺
秋の夜はしぃんと静かである。
鈴虫の鳴き声が庭から響いてくるだけである。
九月半ばのある一夜のことだ。
後の世に振り返れば幕末と呼ばれる時代。
だが、時代を生きる当人達はもちろんそんなことは知らない。
その日その時を過ごすのみである。
例えばこの男−−夜の片隅で息を潜めるこの男も、時代の一片に過ぎない。
"ち、柄にもねえ。緊張しているのか、俺は"
舌打ちを殺し、男は手のひらを袴の裾で拭った。
汗は禁物だ。
刀を握った時に滑らないとも限らない。
息を吐く。
吸う。
音を立てないように静かに、深く。
そのまま右隣に目をやる。
隣の男と目が合った。
明るさを秘めた瞳だと思い、場違いだなと苦笑しそうになった。
「総司」
小声で問うた。
総司と呼ばれた隣の男も小さな声で返す。
「何ですか、土方さん」
隣の男−−沖田総司の声には微笑が混じっている。
刀を握り直しつつ、男−−土方歳三は「俺は緊張しているようだ。お前はどうだい」と呟いた。
この男にしては珍しい。
いつも心の奥を明かさない性質なのだ。
だが、それも無理は無い。
二人は今から人を殺そうとしている。
土方歳三。
壬生浪士組副長が彼の肩書である。
隣の沖田総司は歳三の後輩にあたる。
彼らの殺意が向く先は、ただの敵ではない。
同じ浪士組の局長である芹沢鴨だ。
「芹沢を殺れるのは俺達だけだ」
「そうですね」
歳三が呟き、沖田が答える。
闇の中、声と呼べる最小限の音量だ。
こう見えて、沖田も緊張はしている。
天真爛漫を以て鳴る彼にして、芹沢は容易い敵ではない。
無論、歳三にとっても。
二人またしても押し黙る。
"神道無念流の達人か"
無言のまま、歳三はまた刀の柄を握り直した。
自分や沖田の学んだ天然理心流とは違う正統派剣術。
筋目が違う。
剣客としての位では比べ物にならないだろう。
"だが"
目を伏せた。
見開いた。
二人が隠れているのはとある邸宅の一室。
その部屋で、六つ折屏風の陰に身を潜ませている。
屏風の向こうからは微かに行燈の光が漏れている。
その光の儚さが逆に夜の深さを際立たせていた。
"芹沢にはここで死んでもらう"
あの男の行動は目に余る。
商家に金銭を無心する。
婦女子をかどわかす。
あのような男と一緒にいては、浪士組の名が汚れるばかりだ。
故の暗殺。
故の粛清。
"肚くくれよ、歳"
自らに叱咤をくれた。
迷いを吹っ切った。
隣で沖田が身じろぎした。
歳三の変化を感じ取ったらしい。
歳三は「行くぞ」と一言だけ声をかけた。
立ち上がり屏風を蹴倒す。
「局長、芹沢鴨。その首、頂戴する!」
ダン、と畳を蹴った。
行燈の光の向こうに、人の姿があった。
男と女が一人ずつ。
どちらもあられもない格好だ。
男の方へ視線を向ける。
肉付きの良いふてぶてしい顔が憎たらしい。
間違いない、芹沢だ。
女は芹沢の愛妾のお梅である。
こちらはどうでもいい。
だが、この場を見られたからには。
歳三がこの状況把握にかけた時間は一瞬。
意識よりも速く、刀が鞘走った。
銀光が闇を切り裂く。
狙いは芹沢の首。
だが、芹沢が身を傾けたため外れた。
「ちっ」
「土方さん!」
沖田が代わりに前に出る。
その時、お梅が逃げ出した。
恐怖のあまり声も出ないらしい。
その背に容赦なく総司が一太刀浴びせる。
白い背に飛んだ赤い鮮血が暗闇を鮮やかに染めた。
「お梅っ、おのれ、沖田ぁ!」
怒号を発し、芹沢が枕元の長脇差を掴む。
だが足元が覚束ない。
寝る前にしたたかに飲酒した影響だ。
その隙に歳三は背後に回った。
ニ対一の数の利を活かせる挟み撃ちだ。
乱れた布団を蹴散らし足場を作った。
「そこまでだ、芹沢。大人しくすれば武士として死なせてやる」
「土方……歳三っ……貴様、こんな真似をしてどうなるか」
「よく知っている。あなたという武士の恥を排除して、隊の規律を徹底できる。それだけだ」
「この、この田舎剣術家風情がっ!」
歳三の冷徹な声に激したのだろう。
芹沢はいきなり長脇差を抜いた。
構えも何もあったものではない。
力任せに逆袈裟に斬り込んできた。
歳三は左半身になりかわす。
続く横薙ぎは立てた刃で食い止めた。
重い、だがこの男にしては軽い。
安堵と失望がため息となって漏れた。
「これ以上恥を晒すべきではないな、局長殿」
返事は待たなかった。
押し返し、体勢を崩す。
そのまま動きを止めず、両手で構えた刀を引いた。
右足が前、左足が後。
膝に溜めた力をバネとし、一気に前へ。
"手応えあり"
勝利を確信したのは全てが終わった時であった。
両手持ちで繰り出した突きが、芹沢の胸部を真正面から貫いていた。
重い呻き声を喉から洩らし、芹沢が崩れ落ちる。
ゴトリと男は床へと倒れた。
ゆっくりと歳三は視線を注いだ。
常日頃の死体検分と変わらぬ冷めた目で。
その歳三を見やり、沖田が声をかけた。
「終わりましたね、土方さん」
「いや、何も終わっちゃいねえよ、総司」
「え?」
「これが始まりだ。本当の武士らしい集団になれるって意味でな」
答えながら歳三は息を吐いた。
そして再び視線を落とした。
芹沢鴨の死体は転がったままだ。
彼の血は粘度が高く、赤くねっとりとした染みを広げている。
呆気ないものだと思いつつ、視線を上げた。
感傷が入る隙も無く、思考は既に次に打つ手に向かっていた。
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時は文久三年(西暦1863年)、九月十八日。
場所は京の都の一角、八木邸。
その夜、局長の芹沢鴨は死んだ。
これより後、もう一人の局長の近藤勇と副長の土方歳三が壬生浪士組の実権を握る。
この一週間後、会津藩は壬生浪士組に新たな名称を与えた。
新撰組−−幕末最強の剣客集団が名実ともに生まれた瞬間だった。