表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

Cafe Shelly

Cafe Shelly 彼の手、私の手

作者: 日向ひなた

 私がこの公園で彼を見たのは、多分これで三度目だ。一度目はまだ梅雨の時季だった。

 雨が降る中で、ずぶ濡れになりながら無邪気に走り回っている姿だった。どう見ても変な人にしか見えないその姿。危ない人に違いない。そのときはそう思った。

 そして二回目にその姿を見たのは梅雨の合間の晴れた日。この日、彼は鳩に餌を与えていた。このとき、なぜか信じられないくらいたくさんの鳩が彼の周りに集まっていた。何かのショーを見ているような、そんな気にさせてくれたのを覚えている。おかげでなんだかほほえましい気持ちになれた。

 が、まさか三度目にこんな形で彼とまた会うことになるとは思いもしなかった。

「ねぇ、これ落としたよ」

 このとき、こう後ろから声をかけられて振り向いたときにはびっくりした。「あっ!」思わずそう声を出してしまった。

「これ、落としたよ」

 彼は無邪気な笑顔で私に一枚のハンカチを差し出してくれた。

「えっ、あっ、ありがとう」

 そう言いながらも、私は瞬間的に二歩ほど後ろずさんでしまった。

 彼、おそらく私とそんなに歳は変わらないんじゃないかな。海で履くようなサンダルに七分丈のズボン。そして今日は麦わら帽子をかぶっている。

「あついね、今日」

「えっ、えぇ」

 おそらく私はひきつった笑いをしているのだろう。自分でそう感じてしまうほどだから。

 なぜ彼に対して抵抗感を持ってしまうのか。それは間違いなく彼を「変な人」と認識しているからに違いない。このわずかなやりとりで、自分のことを冷静に判断している私も変な人なのかもしれないけれど。

「はと、いないね」

 そう言われればそうだ。今日は公園に鳩が一匹もいない。

「はと、どこいった?」

 私にそんな事聞かれてもわかるわけがない。

「さ、さぁ…どこに行ったんだろう?」

 思わず彼の言葉につられてそう言ってしまったが。私はとにかくこの場から立ち去りたかった。

「あ、私そろそろ行かなきゃ。ハンカチ、ありがとうございます」

「またね」

 またね、その言葉にはもう一度会いましょうという意味がある。彼は私にまた会いたいと思っているのか? 私は会いたいとは思わないのだが。

 だがこれもつい彼につられてこう答えてしまった。

「えぇ、またね」

 そう言って私は足早にその場を去っていった。

「バイバーイ」

 私は振り向きもせずに小走りに公園を離れたが、このとき彼はきっと大きく手を振って私を見送っていたに違いない。ちょっと恥ずかしいな。


「ってことがあったの。変な人でしょ。また彼に会うのかなぁ。あの公園は通らないと行けない場所だし。ね、マイならどうする?」

 喫茶店、カフェ・シェリー。

 ここは高校時代の同級生のマイがやっているお店。この日、あの彼のことについてモヤモヤしていたから思い切ってマイに話そうと思って久しぶりにお店に来てみた。

 マイは昔から相談の聞き役だったな。よくいろんなことを彼女に話して、気持ちをすっきりさせたものだ。

「美和子って人に好かれるタイプだからね。でも、なかなか彼氏ができないのよねぇ」

「そうなのよ、私って彼氏がなかなかできなくて。って、オイオイ。そうじゃないでしょ」

 マイの軽いボケにノリツッコミをする私。この会話も昔からそうだったな。マイが軽くボケてくれることで会話に笑いが出てくる。

 以前、マイから聞いたことがある。これは私だからできることなんだって。息が合ってるのかな?

「はい、シェリー・ブレンドおまたせしました。美和子、まだ彼氏はできないのか?」

「そうなのよ、先生。って、もうそれはええっちゅうに」

 コーヒーを運んできたこの店のマスター。私はマスターのことを先生と呼んでいる。なぜなら、彼は高校時代の恩師だから。

 先生は四十代半ば。結構面白い先生で、授業そっちのけで人生のこととか、精神世界のこととかを話してくれた。私が卒業してからは、スクールカウンセラーにもなったとか。

 そしてマイと先生は夫婦。つまり、先生は教え子を奥さんにしたことになる。年齢は二十歳くらい差がある。

 けれど、見ていて全然違和感がない。そのおかげで、相談はマイだけじゃなく先生にも同時に行うことが多い。今回もそうだ。

「で、その気になる彼ってどんな人なの? もうちょっと教えてよ」

「気になるって、別に恋愛とかで気になっているわけじゃないのよ。そうねぇ」

 マイに聞かれて、私はもう一度あの彼のことを思い出してみた。

 年齢はおそらく二十代。身長はそこそこ高いかな。割と細身だけど、やせ細っている感じはしない。よく思い出したら、顔もわりとイケる方かも。

 そんなことを話していたら、妙なところに気づいた。

「そういえば、喋る言葉が片言なんだよ」

「片言って、どんなふうに?」

「あついね、今日、とか。あと、はと、いないね、とか。長い文章になっていなかったな。なんか喋り方がたどたどしかったんだよね」

 そこでマイと先生は顔を見合わせた。何か思い当たることがあるのかな?

「マイ、先生、どうしたの?」

「美和子、ひょっとしてその彼って最近になって公園によく出てきている人のこと?」

「うん、さっきそう言ったじゃない」

「ってことは、やっぱあの彼のことなんだ」

「えっ、マイは彼のことを知っているの?」

 なぜか私はそう思うとドキドキしてきた。どうしてなんだろう?

「うぅん、残念ながら個人的に知っているわけじゃないの。前にね、マスターと買い物に出たときに私たちも彼のことを見ていたから。最初はパフォーマーかと思ったんだけど。でも振る舞いがあまりにも自然だったから」

 そう言われれば、何かのパフォーマンス芸をやっているかのような振る舞いだった。けれどその行為は洗練されたものではなく、ごく自然な感じ。

「でね、その彼に私たちも声をかけたの。ちょっと興味が湧いちゃって。そしたら喋り方がたどたどしかったのを覚えているわ。でね、おそらく何かの知的障害を持っている人じゃないかって感じたのよ」

 知的障害。なるほど、そう考えるとすべての行動につじつまが合う。知的期障害者を差別的な目で見ているわけじゃない。むしろ、納得感が大きい。

「でも、どうして彼は突然現れたんだろう?」

 そこがどうしても不思議だった。

 彼を最初に見たのは一ヶ月くらい前だった。私はあの公園はよく通る。だから、以前から彼がいたのであれば、さすがに気づくはずなんだけど。ホント、突然現れた彼である。いったい何者なのだろう。

「美和子、コーヒー冷めるぞ」

 あ、いけない。先生がせっかく入れてくれたシェリー・ブレンドを味わいそこねるところだった。

 このシェリー・ブレンド、その人が今望んでいる味がする。人によっては望んでいるものの映像が見えてくることもあるという魔法のコーヒー。

 私は以前、このコーヒーで救われたことがある。仕事でうまくいっていなかったとき、マイから勧められて始めてこのシェリー・ブレンドを口にした。

 あのとき、私は上司との人間関係に悩んでいた。口うるさい上司がいて、何かと私の仕事にケチを付けていた。このとき、仕事をやめようとまで思っていた。

 けれど、シェリー・ブレンドを飲んで自分が何を望んでいたのかが明確になった。私、今やっている仕事で認められたいんだ。それがわかったときに、もう一つわかったことがあった。

 私が認められたいのは上司ではなく、社会的な承認。お客様や周りの人から認められたい。それがわかったとき、上司のケチが可愛く見えた。

 そのおかげで、私は会社をやめることもなく自分の目標に向かって仕事をすすめることができた。このシェリー・ブレンドの力はすごいって思ったものだ。

 けれど、ほんとうに凄いのはマイや先生の力だと私は思っている。あのとき、私がシェリー・ブレンドを飲んで気づいたことを話せたのも、二人の聴く力がすごいからだ。気がついたら私は口からいろんなことをしゃべっていた、というのが感想だ。

 今回も、あの彼のことでなんだか心がモヤモヤしているから、すっきりしたくてここに訪れたのだ。

「じゃ、いただきます」

 まだ熱さが残るシェリー・ブレンドを口に運ぶ。前に飲んだ時よりも、珈琲の香りを強く感じる。と同時に、まだ口にしていないのに妙な感覚を覚えた。

 どんな感覚、といわれてもうまく説明できない。妙な、としか言いようがない。なんだろう、そう思いながらもシェリー・ブレンドを口に運ぶ。

 まず最初に、コーヒー独特のほろ苦さとちょっとした酸味を感じる。その後、私の口にまた妙な感覚が広がった。

 なに、これ? 今まで体験したことがない世界。

 でも、恐ろしいとか不安とかそんなのじゃない。ちょっと心踊るような、それでいて安心するような。そんな感覚。

「美和子、今日の味はどうだったの?」

 マイのその言葉に従うように、私は今の気持ちを素直に言葉にしてみた。

「なんだか今まで見たことのない、触れたことのない世界。でも怖いとか不安だとかはないの。むしろワクワク、なんだか未知のものに触れるのが楽しそう。そして、そこにいることで安心出来る。そう、実はそこが私の本来いるべきところ」

 口から先に答えが出てくる。私はそんな世界に触れることを望んでいたんだ。そのことに気付かされる。

「例の彼は出てこないのか?」

 先生の言葉で頭の中の映像が一気に切り替わった。いや、漠然としていたものが明確になったといったほうがいいだろう。

 さっきまでモワモワとした掴みどころのない何かだったものが、一気にあの彼の笑顔になったのだ。そして、その笑顔を思い浮かべることで、先ほどから抱いていたワクワク感と安心感がさらに高まってきた。

「うそっ、なんで?」

 私は思わずその言葉を口にしてしまった。

「美和子、どうしたの?」

「うん、先生から例の彼のことを言われた瞬間、モワモワっとしていたものが一気に彼の笑顔に切り替わったの。そして、ワクワク感と安心感がもっと高まってきた。でも、どうして?」

「どうしてって…」

 マイは先生と顔を見合せている。

「美和子、これはあくまでも推測だけどな。おまえ、その彼に特別な感情を抱き始めているかもしれないぞ」

「先生、そんな、まさか。まだ三回しか見たことのない彼だし。まぁかっこ悪くはないけど、行動が変だし。そんなことないですよ」

 そう笑ってみたものの、心の奥がなんだかモヤモヤしている。結局この日は、このモヤモヤ感を抱いたまま過ごすことになった。

 翌日、私はまたあの公園を通る。今日も昨日と同じように熱い一日になりそう。

 そういえば彼、ハトがいないって言ってたな。今日はハトの姿が見える。昨日は暑くて地面に降りようと思わなかったのかな。今はまだそこまで暑くないせいか、噴水の周りに数羽の鳩の姿が見える。

 そのとき、私は無意識に彼の姿を見つけようとしていることに気づいた。

「バカみたい。別に、彼が気になってるわけじゃないのに」

 そう口にして、自分に言い聞かせようとしている。が、心の奥では彼の姿を探しているもう一人の自分がいることはあきらかだ。

「まだ朝の時間だから、彼は来ていないのかな」

 公園を出るときについそう口にしていることに気づいた。私、何に期待しているんだろう?

 その日、私はなんとなく落ち着かなかった。仕事が思うように手につかない。どうしてもあの彼のことが気になるのだ。

「これって恋なの? いや、そんなことはない。別にドキドキしているわけじゃないし。ただなんとなく気になるだけよ。うん、きっとそうなのよ」

 そう自分に言い聞かせながら一日を過ごした。

 そして夕方、会社から帰るときにもあの公園を通る。今度は意識的に彼の姿を探そうとする自分がいる。

「やっぱいないか…この前は土曜日で昼間に合ったからな。あ、でもその前に見たときは確かこの時間だったし。彼、いつ現れるんだろう?」

 夕方とはいえ、暑さがまだ残る。私は何気に噴水の横にあるベンチに腰掛けた。ときおり吹く風が、噴水の水の涼しさを私に運んでくれる。目をつぶってその涼しさを身体で感じる。

 例の彼のことで、ちょっとオーバーヒートした頭を冷やしてくれそうだ。と、そのときである。ベンチの右隣に誰かが座った気配を感じた。

「あ、すいません」

 私はベンチの真ん中を陣取っていたため、あわてて左に席を移動しかけた。が、その行動は一瞬にして止まることになる。

「あっ!」

 私は思わず声を上げた。隣に座ってきたのは、なんと例の彼だったからだ。

「今日、あついね」

 にこやかに話しかける彼。その彼の姿を見た瞬間、私の中にあった何かが満たされた感じがした。と同時に、あの感覚がよみがえってきた。

 それはカフェ・シェリーで味わった未知のものに触れる感覚。ちょっとワクワクしながらも安心感を覚える。

「今日、あついね」

 彼はもう一度同じ言葉を繰り返した。どうやら私が何か返事をするのを待っているようだ。

「えぇ、暑いわね。だからハトもどこか涼しいところに行っちゃってるみたいよ」

「ハト、ハトいないね。すずしいところ、行こうか?」

 そう言うと彼はスクッと立ち上がり、私の手を握ってどこかへ行こうとしている。

「えっ、な、なに?」

 このとき、私は始めて彼に触れた。彼の手、意外に大きくて私の手を包みこんでくれるような、そんな感触がした。

 私はなぜか抵抗することもなく、彼が引っ張ってくれる方へと足を向ける。一見すると強引に私が引っ張って連れて行かれているようにも見える。が、彼はちゃんと私のペースに合わせて、時折私の方を見ながら前に前に進んでいく。

 そうして彼が連れてきたのは、この公園にある大きな樹の下にあるベンチだった。

「ここ、すずしいよ」

 彼はにこやかにそう言う。彼は先にベンチに座って、私を見上げるようにしてもう一度同じセリフを言う。

「ここ、すずしいよ」

 私は彼の左側に座ってみる。確かに、彼の言うように風がとても気持ちよくて、涼しさを感じる。私はしばらくこの涼しさに身を任せてみた。

 公園にこんなに涼しい場所があったんだ。なんとなく気持ちがいい。

 この気持ち良さは、単に涼しいからというだけじゃない。私の横に座っている彼の存在が、私の気持ちをそうさせてくれている。

 始めてのものを発見した喜び。そして、それを体験させてくれた彼の存在。

 あ、この感覚だ。

 さっきよりも強く、カフェ・シェリーで味わった未知のものに触れる感覚を私は感じた。不思議な彼に誘われて感じる不思議な感覚。なんなんだろう、これ。

「あの…」

 私が彼に話しかけようとすると、彼は目をつぶってにこやかな顔で瞑想をしているように見えた。

 あ、邪魔しちゃいけない。直感的にそう思った。

 どうせならと、私も彼と同じように目をつぶってみた。先程感じた風の涼しさをさらに感じることができた。

「すずしいね、ここ」

 今度は彼の方から話しかけてきた。私はめをつぶったまま

「うん」

とだけ返事をした。

 気持ちがつながる。そんな感じがした。

 このとき、どのくらい時間が経ったのだろうか。おそらくはほんの二、三分くらいだと思うけれど、私にとってはそれが何時間にも感じてしまった。それだけ、とても心地いい時間だったのは間違いない。

 が、その心地いい時間にも終りが来てしまった。

「あ、かえらないと」

 突然、彼がそう言い出した。そのタイミングで、夕方六時を知らせる音楽が公園に鳴り響いていた。今度は彼、私の方を見ることもなくさっさと公園の出口に向かって歩き出した。

「えっ、ちょっと待って」

 私はそう言ったけれど、彼は私の方を振り向くこともなく、早足で去っていく。

 どうしてなの? このとき、なんだか悲しい気持ちになってしまった。

 まるで恋人にふられた気分。私は早足で去っていく彼の後ろ姿を見送るしかできなかった。

 その日の夜は、私は眠れなかった。どうして彼は私の元から去っていったのだろうか。私、何か彼に悪いことをしてしまったのだろうか。そんな思いだけが頭の中で渦巻いていた。

 翌日、そのモヤモヤした気持を引きずって公園を通る。朝の時間は彼の姿はなかった。

 そして帰りの時間、期待をして彼の姿を探したがそれも見当たらない。やはり私はふられてしまったのだろうか?

 あまりにも気持ちがモヤモヤしているので、私の足は自然とカフェ・シェリーへと向いていた。

カラン・コロン・カラン

 このお店のカウベルの音はとても耳障りがいい。扉を開けた瞬間に、コーヒーの香りとクッキーの甘い香りに包まれる。それだけでもなんとなく気持ちが癒される。

「いらっしゃいませ。あ、美和子」

 マイがにこやかに手を振って私を出迎えてくれた。

「いらっしゃいませ。カウンターでいいかな?」

 先生が私をカウンターに促してくれる。

 窓際の半円のテーブル席にはカップルが座っている。店の中央にある丸テーブルには本を読んでいる大学生らしき男性。カウンターは誰も座っていない。私もそっちの方が落ち着いて話ができるかな。

「例の彼のこと、かな?」

 私が席に着くやいなや、先生はそう切りだしてきた。

「えっ、なんでわかるの?」

「だって美和子、顔に出てるぞ」

「そ、そんな顔してた、私?」

「あぁ、なんだか助けをもとめているって感じだったぞ。美和子らしくないぞ」

「うん…実はそうなの。ね、私どうしちゃったのかしら?」

「どうしたって、何かあったのか? おっと、その前に注文を聞いておこうかな」

「うん。じゃぁシェリー・ブレンドをお願いします」

 先生はコーヒーを入れる支度をし始めた。すると今度はマイが私の横に座ってこんな声をかけてきた。

「美和子、彼のことが気になるの?」

「ど、どうしてわかるのよ」

 マイといい、先生といい、この夫婦はどうしてこんなに人の気持ちがズバッとわかるのよ。まぁ、さすがカウンセラーの資格を持っているだけあるわ。

「昨日ね、彼に出会ったの」

 私はポツリと話を始めた。

 昨日の帰り、噴水のベンチに座っていたら彼が突然私の横に座ってきたこと。暑いねって言ったら、急に手をとって涼しい木陰に連れて行かれたこと。しばらく目をつぶって心地よさを感じていたら、突然彼が帰らないと、と言って振り向きもせずに帰ってしまったこと。その後、私の気持ちがモヤモヤしたこと。

 こういった一連のことをマイに話してみた。その声はもちろん、先生にも届いている。

「そっか、彼が突然帰ってしまったから、美和子は気持ちがモヤモヤしているんだ」

「うん。その後、私とても悲しい気持ちになったの」

「恋人に振られた気分、かな。はい、シェリー・ブレンドお待たせしました」

 先生はカウンター越しにコーヒーを私に渡してくれながらそう言った。

「恋人じゃないけど…でもそんな気分だわ」

 恋人じゃない。不思議な人。けれどもう一度会いたい。どうしてだろう。

 私の頭の中は気がついたら彼のことでいっぱいになっていた。

「美和子、飲んでみたらなにか答えが見つかるかもよ」

 マイのすすめで、私はシェリー・ブレンドに口をつけることにした。

 口に含むと、最初に感じたのは春の日差し。やわらかな暖かさに包まれる感覚だ。

 さらにもう一口。すると、今度はやわらかなものが私の手に触れる感覚を感じた。それはとても温かくて、そして安心出来るもの。

 あ、これ昨日感じた気がする。

 私は記憶の中からこの感覚を探りだしてみた。それは意外にもすぐにわかった。

 彼の手だ。彼が私を涼しい木陰に連れていってくれたときに握ってくれた、あの手の感覚だ。

 私が今欲しがっているもの。それは私を優しく包みこんでくれる、彼の手の感覚だったんだ。

「美和子、なにかわかった?」

 マイの声で私は目を開けた。

「うん、わかった気がする」

 私は今感じたことを正直に、素直に先生とマイに話してみた。

「彼の手、か」

「そうなの、彼の手の感覚。なんとなく温かくて。でも、どうしてそれを求めているんだろう?」

「美和子、今私が感じたことを伝えてもいい?」

 マイがそう言い出した。

「うん、なに?」

「美和子さ、恋してるよね、やっぱ。私にはそう感じたよ」

 恋。そんなはずはないと自分の中ではずっと否定してきた。だって、名前も知らない、奇妙な行動をする男性に対して恋だなんて。

 けれど、私が何かを求めている。これは間違いない。私が求めているものってなんだろう。

 ふとそう思ったが、それはさっき明らかになった。

「温かさ、か」

 おもわずそれが言葉になっていた。

 私が求めていたもの、それは温かさ、人のぬくもり。誰でもいいというわけではない。純粋な気持ちで私のことを思ってくれる人。今はそれが欲しいんだって、さっきはっきりした。

「美和子、彼にもう一度会いに行ってみるのはどうかな? 突然帰ったのは、美和子が嫌いになったとかじゃないはずだぞ。これは私の予想だけど」

 先生はそう言って、ある本を取り出した。

「気になっていろいろと調べたんだが、この症状に似ているなって思ったんだよ」

 先生が取り出した本にはこんなタイトルが。

「軽度自閉症?」

「あぁ、有名なのはアスペルガー症候群とか。一見すると何も問題ないけれど、対人関係が苦手だったり何かの執着が強かったり。だから、ちょっと変な人って見られることが多いようだ」

 そう言われるとなんとなく彼の行動が理解できる。

「でも、対人関係が苦手って感じじゃなかったな。そういうのって治るの?」

「美和子、自閉症というのは病気とは違うんだよ。いわゆる脳の障害なんだ。生まれつきそうだってことなんだよ」

「えっ、そうなんだ」

 私はここで彼に対しての偏見を持ってしまったことに自分でも気がついた。つまり、彼は障害者ってことなんだよね。

 そういう偏見を持つことがよくないのはわかっている。でも、ついそう思ってしまう自分がいる。

「美和子、今考えていることを当ててみようか?」

「えっ!?」

 先生からそう言われて、私はドキッとした。今、私が持った偏見を見ぬかれているのだろうか。それを先生から言われるのが恥ずかしくて、私は自分から今の気持ちを口にしてみた。

「私、彼に対して偏見を持ってしまったの。障害者っていう気持ちが強くなって。普通の人としてとらえられなくなっちゃった」

「でも、彼の手を求めている気持ちには変りない。そうじゃないか、美和子」

 本当にそうなのかしら?

 私は自然にシェリー・ブレンドに手を伸ばし、そしてそれをのどに流し込んだ。このとき、さっきより明確に彼の手のぬくもりを感じることができた。

 短い時間だったけど、彼と木陰のベンチで一緒にいた時間。あの時間の安らぎがまた思い出されてきた。

「先生、マイ、わかったわ。やっぱり私、彼を求めているみたい。彼の手のぬくもりを感じていたいみたい。どうしてこんなふうになっちゃったのかはわからないけど。明日、もう一度彼を探してみる」

「そうするといい。私たちも情報を集めてみるよ」

「先生、ありがとう」

 カフェ・シェリーに来てよかった。今夜はスッキリした気持ちで眠ることができそう。

 そうして翌日、私はいつものように会社に行き、仕事をして、そして帰宅時間となった。

「美和子、なんだかうれしそうね。デートでもあるの?」

 更衣室で同僚にそんな声をかけられた。

「デートなんてする相手いないよ」

「じゃぁ今夜飲みに行こうよ。今日までの割引チケットがあるんだけど」

 そうやって同僚の彼女が誘ってくる。いつもならふたつ返事でOKを出すのだけど。

「ごめん、今日はそんな気分じゃないから」

「あ、やっぱ彼氏がいるんじゃない」

「違うって。じゃ、お疲れ様」

 言葉では違うといったけど。気持ちの上では彼氏に会いに行くような感覚だ。けれど、会える保証はない。

 今日は彼、あの公園にいるかしら?

 私は期待を込めて駅を降り、そして公園へと向かった。この前のように、突然彼の方から現れるかもしれない。また公園でハトを追いかけているかもしれない。

 いろんな場面を想像して公園に足を踏み入れた。そしてあたりをぐるりと見回す。が、残念ながら今日も彼の姿は見当たらない。

 少し粘ってみようかな。この前と同じように、噴水のそばのベンチに腰掛けようとした。

 が、あえてそこではなく先日彼と座った木陰のベンチに移動した。だがそこは別のカップルが先に占有していた。

「仕方ないな。もう一度噴水に戻るか」

 そう思ったとき、その先の別の木陰でちらちらと動く人影を発見。その人影は、木の周りをぐるぐる回るという奇妙な動きをしている。こんな動きを取るのは彼しかいない。そう思ってその木陰に近づいてみた。

「あ、やっぱりそうだ!」

 近づくに連れ、彼であると核心が持てたときには心がはずんでいた。歩いて近づいていった足取りも、次第に早足になり、最後は駆け足になっていた。

「ねぇ、なにしてるの!」

 私は大きな声で彼にそう伝えた。すると彼、ピタっと動きを止めて私の方を見てくれた。

「ほら、虫、たくさんいるよ」

 彼は木の上を指さしてそう言った。彼の指差す方を見ると、そこにはたくさんのセミがとまっていた。これにはちょっとびっくり。

 でも、彼がこれをみつけてくれないと二度と見ることのない光景だなって感じた。

「ねぇ、あなた名前なんていうの?」

 私は彼にそう質問をしてみた。が、彼の答えはこうだった。

「虫、好き?」

 コミュニケーションが苦手。先生のこの言葉が頭をよぎった。

 彼、自分本位のことしか言わない。けれどワガママというのとは違う。なんだろう、これ?

「私、虫はちょっと苦手かも…」

 そう言ったにもかかわらず、彼は素手で木にとまっているセミを捕ろうと必死になって背伸びをしていた。

 私は無理を承知で、もう一つ質問をしてみた。

「ねぇ、この前はどうして急に帰っちゃったの?」

 この質問には反応すらしてくれなかった。じゃぁ質問を変えてみるか。

「虫、捕りたいの?」

 すると彼はにっこり笑ってこう答えた。

「うん、虫、好き」

 けれど、なかなかセミが捕まえられなくて、だんだん彼の顔に焦りの色が見えてきた。

「高いところだから、あみを持ってこないとダメだよ」

「あみ?」

「そう、あみ。持ってないの?」

「あみ…」

 彼の動きが止まり、さらに思考も止まっているように見える。

 私は彼の様子をじっと見つめる。どうやら自分の思考外のことが頭に入ってくると、パニックになるようだ。やはり先生が言うように、軽度の自閉症なのだろうか。

「虫、とりたいの?」

 私は再び話題を虫に変えてみた。すると彼、またニコニコ顔に戻りこう答える。

「うん、虫好き」

 その笑顔は小さな子どものような、純粋なものだ。

「高いところの虫を取るには、あみが必要なんだよ。わかる、あみ?」

 すると今度はにこにこ顔のまま理解してくれたみたい。

「虫とるのにあみが必要」

 そうか、さっきはいきなりあみの話題を出したから、虫と関連付けることができなかったのか。今度は虫とあみが関連した会話だから通じたんだ。なんとなく彼との付き合い方が分かってきた気がした。

 ふと見ると、あの木陰のベンチが空いている。よし、思い切って。

「ねぇ、あっちに行かない?」

 そう言って私は彼の手を握り、この前座った木陰のベンチへと彼を連れていこうとした。

「うん」

 彼も嬉しそうな顔で木陰のベンチへと足を運んでくれる。この前と逆だ。

 このとき、私は彼の手のぬくもりをしっかりと感じ取ることができた。なんだか心がホワッとする。

 彼の顔を見る。気持ちのいいくらいニコニコ顔。

「ね、ここに座ろう」

「うん」

 この前と同じようにベンチに座る。そして目を閉じる。風が心地いい。

「気持いいね」

 私が言う。

「きもちいいね」

 彼が答える。これだけでなんだかとても満足。

 目をつぶっていると、遠くで夕方六時を知らせる音楽が公園に鳴り響いた。すると、この前と同じように彼は急に立ち上がり講演の出口に歩き出そうとした。

「ねぇ、ちょっと待って。どうして行っちゃうの?」

 すると彼、今度は一度私の方を見てこう答えた。

「やくそく。かえらなきゃ」

 約束? ここで先生の言った言葉を思い出した。

 自閉症って何かの執着が強い場合があるって。もしかしたら、彼は家の人とかと六時の音楽が鳴ったら帰るという約束をして、それを守っているのかもしれない。うん、きっとそうに違いない。

 約束。ここで一つひらめいた。

「ねぇ、明日もここに来てくれる? 私と約束してくれる?」

 すると彼、また振り向いてくれた。

「やくそく、する。あしたここにくるよ」

 そう言って、彼は再び出口に向かって歩き出した。

 彼の後を追いかけてみようかな。そう思ったけどやめた。私にとっては謎の彼のままのほうがいいのかもしれない。

 この日、なんだか足取りも軽く帰ることができた。

「って感じだったの。彼、今日来ると思う?」

 翌日の昼休み、私はマイに電話で一連のことを報告。

「じゃぁ、今日彼と約束をしたんだ。来てくれるといいね」

 マイはきっと受話器の向こうで微笑んでくれているはず。私もなんとなくホッとしている。

 彼が来ない、なんていう不安は私の中にない。だって、約束をしたんだから。

「美和子、なんか今日はとてもニコニコしてるわね。いいことあったの? やっぱ昨日、彼氏とデートだったんだ」

 昨日、飲みに誘った同僚が私にそう話しかけてくる。私、そんなニコニコしているのかな。

 でもその言葉を否定することなく、逆にこんなことまで言ってしまった。

「デート、といえばデートだったかも」

「えーっ、やっぱそうなんじゃん。ねぇ、彼ってどんな人?」

「うぅん、一言で言えば変な人。でも、そうね、天使みたいな人かな」

 天使みたいな人。私の頭の中にそんな言葉が突然ひらめいた。

 そう、彼は天使かもしれない。純真無垢で、笑顔を私に運んでくれる。そこには私に対しての癒しを与えてくれる。

 そう、ただ与えてくれるだけの人。私からは何も奪わない。なんだか理想的な人かもしれない。

 恋人、というにはちょっと違う。なんだろう、この感覚。

 そうして夕方になり、私は足取りも軽く公園へと向かうことにした。が、ここでショッキングな出来事が。

「あ、雨…」

 突然の夕立。私は傘を持たずに出ていたので、立ち往生となってしまった。しまったなぁ、どうしよう。

 彼、来てるかな?

 しばしコンビニで雨宿り。雨は次第に激しさを増してくる。夕立だから、待っていれば過ぎていくとは思うけど。でも、私の気持ちは彼に向かっている。

 ふとみると、ビニール傘が売っている。

「これください」

 それが目に入るやいなや、迷わず買って、私は一目散に公園へと向かった。

 彼はいる。そのことを信じて。

 彼はいる。そのことを期待して。

 公園の人影はまばら。傘をさしている人、傘をささずに走って抜けようとしている人。立ち止まってじっとしている人はいない。

 彼、来ていないのか…

 でも、最初に彼を見たときは雨の中ずぶ濡れで走り回っている姿だったのを思い出した。

 大丈夫、彼は来る。だって約束したんだもん。

 私はあの木陰のベンチへと足を向けた。遠目には誰もいないベンチ。まだ来ていないだけ。

 そっか、突然の雨だからきっと傘を取りに帰ったに違いない。勝手にそう解釈する私。バカみたい、そう思いながらもベンチに到着。

 やっぱ来てないのかな。そう思ってベンチの前に回りこんだ瞬間。

「ばぁっ!」

「えっ!?」

 なんと、彼がベンチに横たわっているじゃない。大きな樹の下だから、それほど濡れないところとはいえ、まったく濡れない場所ではない。こんなところに隠れていただなんて。

「やくそく、きたよ」

 彼はおどけた笑顔で私にそう言う。彼、ちゃんと約束を守ってくれたんだ。私を驚かそうとして、わざわざ隠れていたのかしら。

「ありがとう。約束、守ってくれたんだね」

 このとき、なぜだか涙があふれてきた。とめどなく感情が湧き出てくる。

 これはうれしさ? それとも驚き?

「あめ、ふってるね」

「うん、そうだね」

「ここ、すわる?」

 彼は体を起こし、私が座るスペースを空けてくれた。

 このとき気づいた。彼が横たわっていなかったベンチの部分は、座るにはどうかという程度濡れている。が、彼がいたところは当然だが全く濡れていない。もしかして…

「私のためにわざわざ濡れないようにしてくれてたの?」

「うん」

 彼は大きな返事をしてうなずいた。彼は脅かそうとして見えないように隠れていたわけではなく、私が来てもベンチに座れるように、濡れないために体を使ってくれていたんだ。

 私はそのベンチに腰掛ける。彼が隣にいる。そこで何をするわけでもない。二人で雨の中、肩を並べて景色を眺めている。それだけの関係。

 気がつくと、いつのまにか私は彼と手をつないでいた。

 つながる手と手。そこから温かみと安心が伝わってくる。

 私にとってはまだまだ謎の彼。けれど、今そばに居てくれるだけでとてもうれしい。

 恋愛とはちょっと違う感覚。だけど、できればずっとそばに居てくれるといいなって、そう思っている。

 だが、その時間は長くは続かなかった。それを中断させたのは、いつもの六時を知らせる音楽ではなかった。

「あの…」

 気がつくと、後ろに傘をさした一人の女性が立っていた。年齢は私より若いんじゃないかな。まだ幼さも残る感じだ。

「えっ、あ、はい」

私は慌てて彼とつないだ手を振りほどいてその女性に向かった。

「あ、あや」

 彼がそう言う。あや? 一体どういう意味だろう。彼は言葉を続けた。

「あや、やくそくのひと」

 そう言って今度は彼は私の方を見た。

「そう、この人が約束の人なのね。初めまして、私、この人の妹です」

「妹さん…」

「はい。兄が今日は約束をしているからと言って、どうしても外に出ようとしていたからついてきたんです」

 私は見られたくないものを見られてしまったという気持ちになっていた。彼と悪いことをしているわけじゃないのに。

「あなたの手が兄を救ってくれたのですね」

「えっ!?」

 そういえば彼とてをつないだままだ。私は思わず握っていた彼の手を振りほどいてしまった。

 雨は次第に小降りになり、傘をささなくてもいい程度になっていた。

「失礼ですが、兄のことをどれほどご存知なのでしょうか」

 妹さんにそう言われても、私は答えるものを持っていなかった。

「兄とはどういうご関係なのでしょうか?」

 これも何も答えられない。けれど、正直に伝えるしかない。

「お兄さんとは…お兄さんとはこの数日、この公園で知り合ったばかりです。名前も知らなければ、どういう方なのか全く知りません。けれど、こうやって一緒にいるだけであたたかい気持ちになれる。だから、だから今一緒にいるんです」

「そうでしたか。もうお分かりだとは思いますが。兄は普通ではありません。脳に障害を持っております」

「やっぱりそうだったんですね…」

「けれどこれは生まれつきではないんです。兄は半年前、大きな事故に遭いました。そのときに脳に障害が出てしまって。ようやくここまで回復しました」

 そのことを聞いて、私はあらためて彼を見つめた。

 無邪気に笑う彼。体は大人だが、心は幼い子供みたい。

「でも兄は今、そのおかげで特殊な才能を発揮し始めています。兄独特の絵画を描くようになったんです。わずか三ヶ月の間に多くの作品を描くようになって。その一つにこれがあったんです」

 そう言って妹さんは携帯電話の画像を私に見せた。

 そこにあるのは、手と手をつないでいる絵。素人の私が見ても、その線のダイナミックさと優しい感じが伝わってくる。この一見すると相反するものがこの絵にあるのがわかる。

「兄は自分が体験したものしか描けません。だから、どこかで誰かと手をつないだんだ。しかも、一つは兄、もう一つは女性だってこともわかります。そしてこの絵を描いてから、兄は変わりました」

「変わったって?」

「今まで兄が描いた絵は、心の闇を映しだすようなものばかりでした。でも、この絵は今までのものとは違うんです。私にも温かさが伝わってきました。そして、兄の表情も大きく変わりました」

「表情が?」

「兄はいつもはニコニコしているのですが、絵を描くときは気難しい顔をしていたんです。ところが、この絵以降はとてもにこやかな顔になりました」

 彼の方を再び見る。屈託の無い笑顔で、私たちの方を見つめている彼。

「私も、お兄さんの笑顔で助かりました。心が癒されるんです。なんだろう、不思議な感覚なんだけど。心が洗われるって感じがするんです」

「そう言っていただけるとありがたいです。でも…」

 妹さんの、でもという言葉が私を不安に陥れた。でも、何があるというのだろう?

「でも、もう兄はここには来れません」

「えっ、どうしてですか?」

 思わず私は妹さんにつっかかってしまった。妹さんは少し目を伏せてこう言った。

「兄のために、もっと絵を描くことに集中できる環境に引っ越すことになったんです。実は、兄にはすでにスポンサーがついて。その方のおかげで長野の静かなところへ移ることになったんです」

 目の前が一瞬にして真っ白になった。

 そのあとはよく覚えていない。気がつくと彼は妹さんに連れられて帰ってしまった。最後に私に一生懸命手を振っていたことだけは覚えている。

 その後、ベンチに座ってしばらく涙したところからはっきりした記憶となっていた。

 翌日、更に翌日、私は彼の姿を追って公園に足を運んだが、残念ながらその姿は見られなかった。こうして私の恋とは言えない夏の出会いは終わった。

 その後一ヶ月間は何もする気力が湧いてこなかった。が、このままではいけないと思い、やっとカフェ・シェリーへと足を運んだ。今までの経緯は電話でマイには伝えている。

「美和子、いらっしゃい」

「美和子、待ってたぞ」

 マイも先生もにこやかな顔で私を迎え入れてくれた。カウンターの席に着くなり、先生が一冊の雑誌を取り出した。

「これ、美和子が言っていた彼じゃないか?」

 その雑誌には、事故で脳障害がありながらも創作活動をしている画家の記事が載っていた。そこにはあの笑顔の彼が写っていた。

「うん、彼だ」

 なんだか懐かしさがこみ上げてくる。

 私はページをめくる。そこには作品が紹介されていた。どれも力強けれど、どこか暗さや寂しさを感じる。

 でも、ある点を境に彼の作品が変わったことに気づいた。それは、妹さんが見せてくれた手をつないでいる絵。それからは温かさと優しさが伝わってくる。私は思わずその本を抱きしめた。

「美和子が彼を救ったんだな」

「…うん」

 思わず涙がこぼれ落ちた。それは悲しさではなく、うれしさのものだということは、その後に飲んだシェリー・ブレンドで気付かされた。

 彼の手、私の手。まだつながっていると心の中では信じている。


<彼の手、私の手 完>

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ