戦火の夢(Dream of war)
ミッチェルは胸が張り裂けそうな思いで、古い病院の廊下から病室を見つめている。病室ではまだ二十歳も半ばぐらいの若い母親が、ベッドの横に跪き、二度とは目を覚まさない息子の亡骸を抱きかかえながら声を上げて泣いていた。
「畜生」ミッチェルが悔しそうに、病室から目を離すと、廊下のコンクリートの壁を拳で殴りつけた。バコと鈍い音がするぐらい強く殴ったのに、痛みはほとんど感じなかった。彼の心の痛みは、もう生身の痛みを超越していた。ミッチェルが感じられるのは、心の痛みだけで、肉体的な痛みは大分前から麻痺していた。
ミッチェルの前を一台のベッドが運ばれていく。その上には母親らしい女性が横たわっている。顔は白い布で覆われていて人相はわからないが、着ている服から女性だとわかる。そしてそのベッドを遠くから見守るように、日に焼けた顔に生気を失った瞳が印象的な男性と、まだ幼い子どもが呆然と廊下に立っている。彼らが愛する妻と優しい母を失ったショックで泣くこともできないでいることを、ミッチェルは痛いほどわかっていた。泣けるならまだまし、ここでは死はいつも隣り合わせで、悲しみは世情に対する憤りと当たりようのない怒りを含んでいた。
「先生、反政府軍が市街地に向かっているようです」看護師らしい女性が血相を変えてミッチェルの元に走りよる。
「何だって」ミッチェルの顔が不安と怒りで強張っていく。
「救援物資を載せた車が通るのは、市街地のどの変だ?」
「ソロモン通りを通って、ミランダ交差点を抜けてきます」看護師も緊張した面持ちで早口に説明する。
「ミランダ交差点か?」またそのルートか。ミッチェルが拳を握りしめる。以前救援物資を運ぶ車が反政府軍に襲われたのもミランダ交差点付近だった。そしてミッチェルはそのルートがこの病院にたどり着く一番安全な残されたルートだということも知っていた。反政府軍はこの病院までのルートをことごとく封鎖し、残されたルートは反政府軍の占領地を抜けるルートと、ミランダ交差点を抜ける市街地ルートだけだった。
「薬や医療器具はどれくらいある?」
「・・・」看護師が無言で力なく首を横に振る。
「そうか。大丈夫だ、ワタシがなんとかする」この病院に医療行為を行なうための物資がないことは看護師に聞くまでもなくはわかっていた。そして看護師もミッチェルが言う「大丈夫」に何の根拠もないことを知っていた。
「先生、娘の様態が」いつの間にか、疲れきった表情の女性がミッチェルの傍らに立ち、縋るような視線を向けていた。
「あの子は薬が効いて改善の方向にあったのでは?」反射的にミッチェルが看護師に顔を向ける。
また悪い予感は的中した。もう彼女の娘を救うための薬はないのだ。様態が急変したのではなく。投与していた薬が切れ、様態が逆戻りしてしまっただけなのだ。
「後を頼む」もうミッチェルを止めるものはなかった。怒り。憤り。悲しみ。ミッチェルはもうこれ以上の苦痛には耐えられなかった。
「先生でしょ。ミッチェル先生なんでしょ」大きなギョロとした目がミッチェルをじっと見つめる。
「違う。人違いだ」その少年から逃げるように、ミッチェルが立ち上がり歩き出す。
「嘘だ。絶対にミッチェル先生だ。ボクが先生のことを忘れるはずがないんだ」ミッチェルの背後から声が追いかけてくる。それでもミッチェルは歩き続けた。
「どうしてボクから逃げるの?もうあの夢は諦めちゃったの?」
そのとき、その少年がスーだと気づいた。スー。少年の母親はそう呼んでいた。本当の名前はスーニーだが、スニングだが、そんな名前だったはずだ。
「どうしてキミがここに?」
「やっぱりミッチェル先生だったんだね」スーが嬉しそうに白い歯を見せる。
「どうしてキミが?」スーの質問には答えずに、同じ質問を繰り返す。
「どうしてって・・」困ったように少年の口がへの字に歪む。
「それはボクが死んだからだよ」だがその次の言葉はしっかりと堂々としていた。
「死んだって、まさか?」ミッチェルの表情が苦悩で歪む。自分のせいで、そう思った。自分がいなくなったせいで、この子は満足な治療が続けられずに亡くなったのだ。
「代わりの先生は?」
「いるよ。先生が亡くなって十日ぐらいしてから、先生よりも若い先生がきたよ」
「でもキミはその間に・・」
「先生のせいじゃないよ。ボクはそんなに長くは生きられない。そのことは先生が一番よく知っているでしょ」スーはまるでまだ余命が残されているかのように、しかもその僅かな余命を嘆いている様子もなく言った。
あの日。救援物資を積んだ車が反政府軍に襲われると知ったあの日。看護師から報告を受けたミッチェルは、反政府軍の計画を阻止するためにミランダ交差点へ急いだ。慣れないマシンガンを片手に、白衣のポケットには手榴弾を忍ばせていた。
救援物資に指一本触れさせない。患者を救うための救援物資を、絶対に病院に届けるんだ。ミッチェルは患者の命を救うために武器を手にとった。人命を救うためには、医療行為だけではどうにもならない状況に、ミッチェルは医療器具を銃器に持ち替えた。
ミランダ交差点付近の廃ビルで救援物資を載せた小型トラックを待ちぶせているミッチェルは、暑さと極度の緊張から息苦しさを感じていた。じっとしていると顎から汗が滴り落ち、そのくせ冷たい汗が時々背中を流れ落ちた。
神さま力を貸してください。目的のトラックを視界に捕らえると、反政府軍が計画を開始する前に、ミッチェルは反政府軍が潜んでいる正面の廃ビルに向けてマシンガンを構えた。
このときのミッチェルは自分が生きて病院に帰ることは考えていなかった。戦闘のプロを相手に、しかも数的にも劣勢な状況で、銃に不慣れなミッチェルが敵を一掃して救援物資を手土産に病院に凱旋帰還するなどありえないことだった。ミッチェルが確認できる範囲でも反政府軍は七名いた。
それでもミッチェルは引き返すことは考えなかった。このまま臆病風を吹かせて病院に戻ったところで、そこで待っているのは心を掻き毟られるような辛辣な日々でしかなかった。ろくな治療もできずに苦痛にうめき声を上げる患者を見守るしかないのなら、それが職務外であっても、人為的に許されないことであっても、ミッチェルは患者を救える可能性にすがりたかった。
敵はまだ自分の存在に気づいていない。それがミッチェルのよりどころだった。相手に決定的なダメージを与えられなくとも、奇襲攻撃にトラック襲撃の手が緩めば、トラックが難を逃れる隙ができる。ミッチェルはその可能性にかけて手榴弾のピンを抜くと、反政府軍が身を忍ばせている建物の窓めがけて手榴弾を投げ込み、後はマシンガンを四方八方に乱射した。
「トラックは?救援物資を積んだトラックは?」それがせめてもの救いだった。もし救援物資が病院に届くことがなかったとしたら、ボクはいったい・・。
「トラックは無事病院に着いたよ。でもどうして?」スーが悲しそうに潤んだ瞳でミッチェルを見つめる。
「ああするしかなかったんだ。救援物資が届かないことには、患者を救うことはできない。だから・・」
自分のとった行動は正しかったのだろうか。反政府軍の凶弾に倒れてからの数日間、ミッチェルはずっと自問自答していた。自分がいなくなった後の病院はどうなっているのだろうか。ろくな治療も受けられずに患者は苦しんでいるのではないか。そう考えると、ミッチェルは身を削られる思いだった。
高熱で苦しんでいる女の子は。反政府軍の爆弾テロに巻き込まれて、意識不明で運び込まれた少年は。病院に残してきた患者の顔が次々と脳裏に浮かび。ミッチェルは頭を抱え、苦しみに耐えられなくなると、一目も気にせずにウォーと泣き叫んだ。死んでも尚、ミッチェルが苦しみから解放されることはなかった。
死後の世界でミッチェルを苦しめたのは、残してきた患者ばかりではなかった。これまでにミッチェルが救えなかった患者たち。彼らはミッチェルの側にきて、「先生。ミッチェル先生」と呼びかけてきた。そんな呼びかけにミッチェルは応えることができなかった。彼らに呼びかけられたミッチェルは、声に振り向くこともなく、急ぎ足でその場を離れ、呼びかける声が遠ざかるまで足を止めることはなかった。
彼らにどんな顔をして会えばいいんだ。彼らに会っていったい何を言えばいいんだ。救うことができなかったことを詫びればいいのか。彼らにすまなかったと詫びる思いはある。でも反面、ボクに何ができたんだ。そもそもあんな場所に行かなければ、との後悔もあった。
だからミッチェルは心で彼らに詫びながら、過去からも現実からも逃げていた。そもそもこの場所を現実と呼べるのか、そもそもこの場所が天国なのか、はたまた死後の世界なのかもわからずに。
「先生」頭を抱え込んだまま、ピクリともしないミッチェルに、スーが心配そうに声をかける。
「先生の思いはみんなに届いているよ。先生が死ななければならなかったのは残念だけど。でも先生の思いは、今もみんなの心に生き続けているよ」
「ワタシの思い?」ミッチェルが顔を上げ、訝しげな表情で訊きかえす。
「争いがない平和な世界がきますように。それが先生の夢だった。争いから目を背けるんじゃなくて、あえて争いの中に飛び込み、その中で無意味に落とす命を救い。そしてその行為が人々に命の尊さを教え、やがて争いのない世の中が生まれる。意識が戻ったボクが、先生はどうしてこんなところでお医者さんをやってるの、って質問したときに、先生はそう言ったよね」
「ああ」ミッチェルが静かに頷く。
「ボクは先生に感謝しているよ。ママも先生に感謝している。先生が反政府軍に撃たれて死んだとき、ママは先生の遺体に何度も何度もありがとうって言ってたんだ。それはボクの死が近づいているとわかったときも変わらなかった。最後にボクと色々なことを話す時間ができたことを、ママは本当に感謝していたんだ。あのまま意識が戻らずにボクが亡くなっていたらって。一度は死の淵からボクを救ってくれた先生を命の恩人だって、ママは先生のことを一生忘れないって言っていたんだ。もちろんボクも同じだよ。ママと色々な話をして過ごしたあの時間は、ボクの大切な思い出になった。ボクはママの声を聞きながら眠りにつくことができた。先生に救ってもらったときは、死ぬのが恐くて、近づく死が恐ろしかった。でもここへ来たときのボクは、とても安らかで、素直にママにさようならって言えた。だからもし先生にまた会うことができたら、先生にありがとうって言おうって決めていたんだ」スーが優しく微笑みかけると、ミッチェルの目から大粒の涙がポロポロと溢れ出した。その涙は、今までに幾度も流した涙とは違い、とても温かく、優しい涙だった。
「先生、ボクを救ってくれてありがとう。だからもう自分を責めないで」
ミッチェルは恥じらいもなく声を出して泣いた。ミッチェルはスーの言葉で救われた。スーの言葉は、ミッチェルの心の中の錘を溶かし、涙とともに洗い流してくれた。このとき、ミッチェルはようやく自分を許すことができた。
「先生の夢は、いつの日か、必ず叶えられるときがくるよ」ミッチェルの心が晴れ、ふーと息を吐くのを待って、スーが会話を再開する。
「ワタシの夢が叶う?」いくらなんでもそれはないだろう。死んだ人間に夢が叶えられるわけがない。ミッチェルが何の期待もなく聞き返す。ミッチェルはもう十分だった。これで何の迷いもなく昇天できる。そんな気分だった。
「先生の夢は多くの人に受け継がれているんだ。先生に救われた人や、先生の思いに影響された人、先生が手を尽くしたけれど救えなかった人たちの中にも、先生の夢を受け継ぐ人たちはたくさんいるんだよ」スーの瞳は眩いばかりに輝いていた。そのこと事態が奇蹟だと言うように、スーはミッチェルの気のない表情など気にもせずに熱く語り続けた。
「すぐに争いがなくなることはないかもしれない。でもいつの日か、必ず争いのない世の中がくる。ボクはそう信じている。だってそれが先生が信じた夢だから。そしてその夢は今も多くの人の中で生き続けているから」
「争いのない世界を思い描く人はワタシのほかにもいるだろう。でもそれはワタシの夢ではない。ワタシと志を同じくする同志かもしれないが、ワタシの夢の担い手ではないんだよ」
「違う。彼らは先生の夢を受け継いだんだよ」スーが声を荒げ主張する。「どうしてそれがわからないの。先生がそんなことじゃ、ボクは先生の夢をどうやって信じていけばいいのさ」
「信じるも何も、ワタシにもう夢などないよ。世の中から争いを無くすなんて所詮叶わない夢だったんだ」
「もう諦めちゃうの。それで本当にいいの?」
「いいも何も、ワタシに何ができる?」
「夢を信じてよ。自分の夢がいつか叶うって信じてよ」
「もういいんだよ。ワタシ一人の力でどうにかできる夢じゃなかったんだ。争いを無くすことは愚か、ワタシには目の前の患者を救うこともできなかった」消えたはずの過去の苦しみがミッチェルの心を再び痛めつける。
「もう一人じゃないって、どうしてわからないの。それに先生が救えなかった患者だって、先生を恨んでなんかいないよ。先生はできるかぎりのことをしてくれた。多くの人が争いのない世の中を願いながらも、自らの手を汚そうとしないのに、先生は夢を信じて争いの中に飛び込んでいった。その勇気を誰か咎めるって言うのさ。もしそんな奴がいたら、バカやろうって言ってやればいいんだ。ボクにはボクの夢を信じる仲間がいるんだってね」スーが訴えかけるように熱く語る。
「ねえ、レオンって少年のことを覚えてない」
「レオン?」記憶を辿ってみるが、レオンという名は思いつかなかった。
「そうか、大分前のことだから覚えていないか」少し残念そうに、スーが胸の前で腕を組み合わせる。
「先生がまだ若い頃に、内戦が耐えない地域での医療活動に参加したことがあるでしょ。そのときに銃弾で頭を撃たれて意識不明の少年を二昼夜寝ずに治療をしたことがあると思うんだ。そのときのことを覚えてない?」
「ああ」思い出した。レオン、そう、そんな名前だった。ミッチェルはその少年をはっきり思い出した。銃弾で傷追った少年は、その後も嫌というほど診てきたが、その少年のことはなぜか覚えていた。きっとその少年が、ミッチェルが救えなかった初めての子どもだったからかもしれない。ミッチェルはそんなことを考えていた。
「その少年がどうかしたのか?」何か釈然としない思いが、ミッチェルを質問へと駆り立てた。
「レオンも先生の夢を受け継ぐ者の一人なんだ」そのときミッチェルは気がついた。釈然としない思い、それの正体に。二十年以上も前に死んだ少年。その少年のことをなぜスーは知っているのか。それがミッチェルの心に引っかかっていたのだ。
だが釈然としない理由がわかっても、ミッチェルの疑念が消えることはなかった。スーとレオンに共通点がないことは、今も何ら変わりはない。
「レオンがワタシの夢を?いったいキミは、何の話をしているんだ」雲の上のような靄が立ち込める場所で雲を掴むような話を聞いていると、ふわふわと気が遠くなりそうになった。
「先生が亡くなった後、若い先生が病院に来たって話したよね」
「ああ」
「その先生がレオンなんだ。正確に言えばレオンの生まれ変わりってことになるんだけど」それからスーは、新任の医者がレオンの生まれ変わりだって知るに至った経緯を話し始めた。
「その新任の医者、トミーって言うんだけど。そのトミーがボクの病室に来て訊ねたんだ。ミッチェル先生は今も夢を持っていたかって。だからボク、先生は最後まで夢を信じていたよって答えたんだ。そうしたらトミー、先生は夢を諦めなかったんだねって嬉しそうに頷いたんだ」
「それがレオンだって言うのか?」ここまで聞かされても、ミッチェルは半信半疑だった。こうして死後の世界でスーと話しているのも十分不思議な体験であるにもかかわらず。ミッチェルは生まれ変わりが現実にあることを鵜呑みにできずにいた。
「浅はかな考えで戦闘に加わり重傷を負った自分を、先生は戦闘に巻き込まれた一般市民と区別することなく、最後まで熱心に治療をしてくれた。そのことを感謝しているとトミーは話してくれたよ。人の優しさに触れることなく生きてきたから、死ぬまで自分の手を握り締めてくれた先生のことが父親のように思えたって。先生の手はとても大きくて、先生に手を握られていると不思議と安心できたって。トミーは、助かることはなかったけど、最後まで手を尽くしてくれた先生に、言葉にできないほど感謝しているって言っていたよ。それから意識が戻った僅かな時間に話してくれた先生の夢に感銘を受けたって。だからもし生まれ変わることができるのなら、自分も先生のような医者になって、先生が夢を叶えるお手伝いができればいいって考えていたことを話してくれたんだ。そしてトミーは、先生がレオンに言った最後の言葉をボクに教えてくれたんだ」
「トミーが、ワタシが言った最後の言葉を?それでトミーは何と言ったんだ」スーの話をぎゅっと口を結び耳を傾けていたミッチェルが、身を乗り出しスーに詰め寄る。レオンに言った最後の言葉。その言葉を知っているのは、もしあのときのレオンに意識があったのなら、ワタシとレオンだけということになる。
「キミの死は決して無駄にはしないよ。キミの死でボクの夢はより強くなった。キミが望むかはわからないけど。キミはボクの夢を信じる心の中でずっと生き続けるんだ。それが先生の最後の言葉だった」
「・・・」返事をすることもできなかった。二十年以上も前のことで確かではないが、おそらく彼の言葉は一語一句自分の言葉だった。
「先生のことは訃報で知ったって。医学部を卒業すると先生の力になろうと、先生の居場所を探したけれど、ようやく居場所がわかったときは、先生はもう亡くなった後だったって」
「それでワタシの意志を継いであの病院に赴任したのか」もうスーの話を疑う理由はなかった。自分が思い描いた夢が、今も誰かに受け継がれ、少しずつでも夢の実現に近づいているかと思うと、夢を信じる気持ちがむくむくと膨らみ、視界が開け、力がみなぎってくるような気がした。
「生まれ変わったら、また同じ夢を追いかけるの?」スーが上目遣いで尋ねる。
「ああ、夢を信じてくれる人がいるのに、ワタシが夢を放棄するなんてできないからな。できればワタシが生まれ変わる頃には、世の中から争いがなくなっていることを願うけどな」ミッチェルの顔に笑顔がこぼれる。ミッチェルは笑いながら、こうして笑うのは何年ぶりだろうと考えていた。
ミッチェルは、気づかぬうちに笑うことを忘れていた。紛争地域で医療活動に就いた頃は、まだ笑顔を見せていた。無邪気に遊ぶ子どもたちを見ているときや、怪我が治り我が子と手を繋ぎ病院を後にする親子を見送るときは、自然と笑みがこぼれていた。
けれどミッチェルはいつの頃からか笑わなくなってしまった。悲惨な状況下で悲しみや苦しみが心に蓄積されるにつれ、ミッチェルは笑うことを忘れてしまった。
きっと心を引き裂かれるような日常の中にも、小さな幸福はあったはずなのに、ミッチェルの心はそんな一輪の花に感動できなくなっていた。
もしかしたらこの頃から、ミッチェルは夢を純粋に信じることができなくなってしまっていたのかもしれない。目の前の命を救うことに追われ、救えなかった命に絶望する。ミッチェルはそんな終りの見えない毎日を過ごし、夢を信じる気持ちをすり減らしてしまったのかもしれない。それは仕方がないことだった。それだけ夢と現実はかけ離れていた。
でもそんなミッチェルを絶望ばかりの紛争地域に繋ぎ止めていたのも、夢だったことは間違いない。とても夢を叶える日が来るとは思えない絶望的な夢かもしれないが、患者を見捨てることができないミッチェルにとって、夢はそこに留まる自分への理由に過ぎなかったのかもしれないが、それでもミッチェルは最後まで夢を捨てなかった。間違ったやり方だったかもしれないが、救援物資を守ろうとするミッチェルの心には、やはり夢への可能性を信じる強い思いがあった。だからこそ夢は終わることなく、こうして人々に受け継がれ、今も生きているのだろう。
「ボクの夢はね。早く生まれ変わって、世の中から争いをなくすことなんだ。だってボクが短い人生の中で先生と出逢ったのは、きっと何か意味があると思うんだ。だからボクは先生の夢を絶対に叶えるんだ。だってそれがボクの夢だからね。ボクはこの夢が絶対に叶うと信じて生まれ変わるんだ」
「ありがとう」ミッチェルは嬉しかった。これで夢を信じ、夢を追いかけたことが報われた。ミッチェルはそう感じていた。夢はまだ叶っていないけれど、夢はいつの日か必ず叶う。ミッチェルはそう確信しながら、スーの体が薄れていくのを見つめていた。
「ありがとう。キミに逢えて本当によかったよ」消える直前のスーにミッチェルが思いを告げる。そして微笑を残しスーが完全に消えたとき、ミッチェルの体も薄れ始め、やがて消えていった。