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朔と温室内を一周した莉乃は屋敷の応接間に二人で戻り、莉乃は特に朔の父親と会話を交わすこともないまま一条親子は去っていった。本当に簡単な顔合わせであったが、これからは食事と共にしたり出掛けることも増えるそうだ。
この婚約は両家にとって膨大なメリットを生み出し、両家がここ十数年で一気に伸ばした地位を絶対に揺らがないものにするため欠かせないのだ。莉乃の父親と朔の父親は学生時代に面識があり、将来地位を背負うものとして二人には多くの通じ合うものがあり今まで良好な関係を築いてきた。だからこの願ったり叶ったりの婚約を破棄しようと莉乃が考えていることなんて到底気付くはずがあるまい。
莉乃の父親は一条親子を見送ったまま玄関に立って扉を見ている莉乃を見た。「莉乃、今日は上手くやれたのか」と一言掛ければいいだけなのだが、莉乃の父親は躊躇い莉乃を見つめることしか出来なかった。
じっと扉を見ていた莉乃は朔とその父親について思案していた。…あの二人の関係を修復することから始めるとしても骨が折れるわね。そもそも朔の父親が朔と距離を置いている理由は、莉乃みたいな教育方針ではなく朔の父親の心情の性であったハズ。朔の母親が亡くなった悲しみを引きずって朔の父親はまだ傷を抱えたままなのだ。しかもこのままではダメだ、と思わずに痛みすら愛だと傷を大事に囲っているので朔の父親は妻が生きていた時間の中に留まっていた。
……非常に莉乃一人でどうこう出来そうな問題ではない。ゲームではこの話を朔から聞いた主人公が朔の傷を癒していたが、その傷を癒すのは傷を付けた本人の父親でなければ莉乃の夢は達成されない。
このまま放っておくと高校になったら朔の傷を主人公が勝手に癒してくれるのだとしても、その前に依存してしまえば高校までに莉乃自身もコロッと朔に執着しかねないのだ。朔は莉乃が想像していた以上に魅力にあふれ、手を握るだけであの様なのに依存なんてされて「莉乃しかいない」なんて言われたら喜んで私も朔だけよ!と甘い言葉に飛びつく自身がある。自分の意志の弱さは今日で十二分に把握してしまった。
(……まずは朔が父親をどう思っているのか、父親も朔をどう思っているのか聞き出すことから始めてみよう。同時に親子に会話を増やさないとね)
よしこれから頑張ろう!と玄関ホールで頷いた莉乃は、自身を見つめる父親に気づかないまま颯爽と自分の部屋へ向かって行った。
(ちまちま食事会を重ねても時間が掛かるだけで私と朔以外に会話が持てるとは正直思えないわ。……そうね、付き合いたてのカップルの微妙な距離を無くすぐらいの心構えを持っていた方がいいわね)
使用人が後ろに無言で付いてくる気配を感じながら、そこまで考えた莉乃はふと視線を上げる。……付き合いたてのカップル?…デート?なら遊園地なんてどうかしら。きっと婚約祝いに貸し切りぐらい簡単にやってもらえるわ。映画だと会話は出来ないから却下で、下手に旅行に行くよりはまだ遊園地の方が会話の掴みがありそう。朔のお父様には幼稚で申し訳ないけどまだ私たちは7歳だからなんら遊園地に興味を持っても不思議じゃない。それに____遊園地を貸切るだなんて、まさに全世界の女子の夢じゃない。それが叶うなら叶えないでどうするの!そう考えた莉乃の口元が引き上げられた。
ふふふ、と半分私欲を交えた計画に思わず後ろに付く使用人も忘れて笑みを漏らす。
日常で改善されない問題なら非日常で改善すればいいのよ!名案ね!と、明暗が分からない計画を頭で綿密に立て、莉乃は令嬢として遊園地など行けないなど反対された場合のあらゆる対処法さえ考えながら使用人を下げ一人部屋に入りソファーに腰かけた。
一瞬本当にこれでいいのか?と迷いが莉乃の胸に生じたが、今は他に思いつけそうな案もない。それにあの朔と貸切られた遊園地へ行くのはとても魅力的だった。
もう既に朔に惹かれている事実に莉乃は気づかず、「あの顔は流石ね」などと零しながら、うっとりと朔の顔を思い出して夢見心地に陥るのだった。
ー*-*-*-*-
莉乃が夢見心地に陥っている一方で、朔は車内で冷ややかな空気をまとった父親の隣で緊張を手に握っていた。
「……どうだった、宮野のご令嬢は」
まるで朔を圧迫するかのような固い口調に、朔の背筋に冷たい汗が伝った。父親が望む言葉を返さなければ、と朔は重たい口をどうにかして開け慎重に言葉を選んで喋り出す。
「聡明で綺麗な方でした。…それと、少し不思議な方でした」
朔は脳内で今日初めて出会った幼い頃から決まっていた婚約者の様子を思い浮かべた。写真は事前に見ていたけれど、そこに写っている莉乃に表情はなかった。でも今日会った莉乃は常に愛らしい笑みを浮かべていて、真っ赤な顔を沢山の令嬢から向けられることに慣れている朔でも純粋な笑顔を向けられるのはとても新鮮な気持ちだった。だから今までにない令嬢の婚約者は朔にとって不思議な人物だった。
朔の父親はそう言った朔の言葉に少し目を見開く。
『ふふふ、貴方は不思議な方ね』
初めて朔の父親とその妻が出会った時に妻から言われた言葉を、朔の父親は思い出していた。そしてそんな妻の姿と息子の姿が重なった。
「……そうか。大切に、するんだぞ」
あの時の自分はどう初めて会う妻に接していただろうか。もうその頃の記憶は霞んでしまっているが…不愛想な自分のことだ、冷たく接したに違いない。そう思いながら息子に言葉を返したら、無意識に言うつもりのなかった言葉が滑り落ちた。
朔は予想外の言葉に表情を隠すことも忘れ目を見開いていた。いつもと変わらない父親の表情のない顔、いつもと変わらない決して自分を映すことのない冷たい瞳。けれど今はその瞳は柔らかく細められどこか朔を通して遠いところを見ていた。
「……は、い」
非常にそんな父親に戸惑っている朔はかろうじて返事を返すことで精一杯で、いつもと同じでいつもと違う父親に何とも言えない感情が湧き出てくるのを感じながらも、その視線から逃れるようそっと目を伏せた。
けれどその複雑な心情の一つに、確かに喜びが混じっていたことに朔は気づいていた。