4
「莉乃ちゃん、行こうか」
そう言って自身に差し出される朔の手に戸惑いを覚えつつも、莉乃はそっとその手を取った。
あれから両親と朔の父親が談笑に入り、目に見えやすい“後は若い二人で”という状態を作られてしまったので莉乃と朔は屋敷の庭を散策することになった。
ぎゅっと握られた手に莉乃はもう内心叫び散らしているが悟らせるわけにはいかない、と笑みを浮かべる。その笑みを見た朔も内心驚いてはいるが顔に出ていないので莉乃が知るには至らなかった。
それほど身長に差がない二人ではあるが、緊張しているのか相手を気遣っているのかやけにゆっくりとした歩みで庭へと出る。
庭にはもう春が過ぎ去っているこの時期にも関わらず彩りどりの花が咲き誇っており、普通なら「綺麗…」と見惚れてもいいのだが二人はそうは行かなかった。
プチパニックを起こしている莉乃と、花に興味の欠片も抱かない朔。莉乃に至っては正常な精神状態であれば「花よりも宝石や美味しい食事がいいわね」など情緒の欠片もない現実主義的な感想を抱いているに違いない。
そんな莉乃も確実にかっこいい朔に惹かれていると言う現実を受け入れながらも、死んだら元も子もないわ。それにかっこいい人間なら他に腐る程いる筈よ。なんて言ったってここは乙女ゲームの世界だもの。その世界のヒエラルキー頂点が朔だとしても、一つ下の層で顔もそこそこな金持ちはいるに違いないわ。と、昨日考えた条件に顔面を加えたぐらいで決心を打ち消したわけではないらしい。
つまりおじさまと結婚する!がカッコいいダンディーなおじさまと結婚する!に変わっただけだ。何故おじさまなのかと問われれば「おじさま=金持ち」と言う固定概念以外に他ならない。
これしかないわ!と再び覚悟を決めた莉乃は幾分か心臓が落ち着いたような気がした。すると自分がすべきことも明確になっていくようで、ぎゅっと握られている手を握り返した。
そんな莉乃にぼんやりと花を見ていた朔がどうしたのか、と視線を向ければ莉乃は朔に輝かんばかりの笑みを送った。
「朔って呼んでいいですか?」
莉乃の無垢以外の何物にも見えない笑みを見ていた朔は莉乃の声に我に返った。「大丈夫だよ。あと敬語もいらないよ」とそう言ってぎこちない笑みを浮かべた莉乃は「ありがとう」と嬉しそうにはにかんだ。
朔は眩しそうに目を細めて莉乃を見るけれど、莉乃はそんな朔に気付いてはいなかった。
(まずは朔と友好を深めて信頼関係を得る。それから高校に入って私が主人公をそれとなく朔に勧めれば長年の信頼もあり、ゲームのストーリーもあり問題なく二人はくっつくわ。そして私の家名も守る為おじさんと二人が結婚する前に結婚すれば万事上手くいくわ!)
うふふ、と家の名誉と自分の命と将来を守ることが出来るだろう計画に莉乃は溢れる笑みを抑えることが出来ない。
朔から見れば可憐な少女が朗らかに笑っているようにしか見えないのだが、莉乃は笑顔の裏でとんでもないことを考えているのだ。
他人から見ればこんな最高峰の優良物件を自分から進んで見逃す計画を笑顔で立てているだなんて思えないだろう。しかしそれをやっているのが莉乃だ。
(後はボロを出さないように朔の婚約者を続けて、朔から信頼を得て、慎重に結婚相手を探すだけね。ロリコンとは結婚したくないから奥さんを亡くした方ぐらいしか居ないかもしれないけれど)
着々と将来に向けて考えを進めながらも、朔に握りている手を少し引っ張ってとある場所へ朔を連れて行く。
「…ここは?」
「お母様のしゅみでハーブを育ててるの」
その場所は温室。子供の足で歩くと一日では周り切れないほど大きな庭の片隅に、莉乃の前世が住んでいたマンションの部屋の面積よりも明らかに大きな温室ハウスがあった。
母親の趣味は紅茶やハーブティなどとにかくお茶を楽しむ少女らしい趣味で、飲むだけに飽きたらず栽培まで始めたのだ。
『庭に出来た温室は好きなように出入りなさい。散歩は毎日続けるのよ』
この温室が出来たのは去年の冬で、健康管理の為の散歩が億劫だった莉乃に母親が気付いたのか温かい温室の出入りを許可した。しかし母親の愛情から来た発言ではなく、令嬢として体調を崩す真似があってはならないからなのだが。
莉乃は幼稚舎には通っておらず全て幼稚舎に行く時間を淑女教育や勉強にあてられていた。しかし今年からは学園に通わねばならず、幼い頃から結ばれていた婚約だが朔と同じ学園に通うこの機会にやっと顔合わせが実現されたのだった。
もう春が過ぎ入学まであと少しと言うこの季節。ドアを開けて入った温室は暑くもなく寒くもなく適度な気温だ。そして入った途端香る様々なハーブの匂いに莉乃は心地良さを感じていた。
「…ここに来ると落ち着くの」
莉乃の落とされた言葉に温室の中を見回していた朔が顔を上げる。莉乃は無表情とは程遠い柔らかな顔をしており、もう一度小さく口を開いた。
「お母様がちょくせつ手入れなさっているこの空間が落ちつくの。お母様の体温を知らないけど、こんな暖かさなんだろうなって」
“お母様”と言う単語にピクリと朔の指が動いた。普段なら気付かない程小さな反応でも、手を繋いでいる莉乃には朔の感情が手に取るように分かっていた。
莉乃と朔が共依存に陥った原因は互いが互いの愛しか知らなかったから。莉乃は前世の記憶が蘇った今依存に陥る心配はないが、このまま朔と信頼関係を築こうとしても信頼関係ではなく依存的なものになってしまう。
まずそれを回避する為には朔が親の愛を受けることが必要だった。しかし朔の母親はもう亡くなっている。だから唯一の家族である父親が朔を気遣うしかない。
「そんな所へ、どうして僕を?」
「一緒に来て欲しくて」
莉乃は両親からも朔の母親が亡くなっていると聞いていたのでもしここで「朔は私のお母様を見て寂しそうだったから」と言っても何ら不思議はない。朔も私が知っているということを知っているだろうし、寂しいに違いないのだから。
けれど朔も大きな一条家の跡取りだ。感情を持たないことが正しいと教育された莉乃以上に他人に感情を晒す真似はしないだろう。実際少しパニックに陥っていた為莉乃に確証はなかったが、朔は他人の母親を見て自分に母親がいない現実を寂しがる様子の欠片も見せなかった。
そんな人物に「寂しかったんでしょう?」なんて言えばご子息として未熟なのねと言っていることに他ならない。恋情を掴むならそれが手っ取り早い手段だとしても、目指すは厚い信頼関係。会って早々相手のプライドをへし折れば全てが水の泡だ。
莉乃は楽観的な思索を抱いているように見えて、大事なところはちゃんと見極められる人物だった。それならもう少しまともな将来を描いてもいいのだが、一度決めたことは突き通す頑固者でもあるようだ。
「大切なところへこれからも一緒に行きたいの。その最初の一つがここ。それに、お花見るのも暇だしね」
随分砕けた話し方でそう言った莉乃に朔は言葉を紡ぐことが出来なかった。
花を見るのが暇だなんて言う令嬢は見たことがない。初めて女の子の手を握って、こんなに力強く握り返してくるなんて知らない。大切な場所へ自分と行きたいと笑顔を浮かべて述べる少女に少年は淡い気持ちを抱いた。少女の笑みに凝り固まった心が溶けていくようだった。
「……莉乃」
初めての感覚に戸惑う少年はただ少女の名前を口にした。すると少女は一瞬目を見開くものの、その茶色の目に少年を映しながら綺麗に笑うのだ。その笑顔を見ているうちに、少年は自分の頬が自然に上がっていくことに気付いていた。
これが、打算的な少女と戸惑いに満ちた少年が初めて笑いあった瞬間であった。