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そう、それは突然であった。何の前触れもあったわけではない。いつも通りに太陽は上り、今も真上でその球体からこれでもかと熱を発している。このように宇宙規模で特に変わったことはない。ならば地球規模では何かあったのか、と問われるとそのようなこともない。いい加減一体何があったのか。その出来事は宇宙規模にも地球規模にも到底及ばないが、けれどとても奇怪なモノであった。
その問いの答えは青褪めた顔で割れた皿に映る自分の顔を見ている宮野莉乃にある。まだ幼い彼女はずっと近くで見たかった綺麗な装飾が施されている大皿をつい出来心で触ってしまったのだ。運が悪かったと言えばそれまでだ。いつもは莉乃が触れることのない場所に保管されているはずの大皿が手の届くテーブルの上に置かれていたり、たまたま今日は皆忙しそうに動き回っていた為莉乃が自由に動くことが出来きたり、いつもは決して自分から家の物に触ることがない聡い莉乃が衝動的に大皿を持ち上げてみたり。
大事なようでそうでないことの積み重ねで、好奇心を押さえることが出来なかった莉乃がまだ小さな手で大皿を持ち見事に割ったのだ。
そして莉乃が顔面蒼白で棒立ちしている今現在に至る。普通は大事に保管していた大皿を割ってしまったから、と莉乃は混乱していると思われるだろう。しかしそうではない。
(……待って、これ“私”?)
莉乃は割れた大皿の一部に映る自身の姿に驚いている。ふわふわの色素が薄い髪に、クリクリの大きな茶色の目、長いまつ毛に、どこからどう見ても美少女としか言いようのないこの姿。
そして映画を早送りしたかのように脳にとある記憶が走っていた。そう、莉乃の前世の記憶である。驚き何て程度の話ではない。
零れ落ちそうな程大きな目を見開いて大皿に映る自身を見ている莉乃は、今自分に蘇った前世の記憶に酷く混乱していた。莉乃の前世は特に優も劣もない平凡な女であった。目立つ事は何一つないがそこそこの友達に囲まれた学生時代を送り、そこそこの学力の実家に近い大学へ行き、就職ばかりはそこそこよりか下の企業の派遣社員として雇われていた。
容姿に至っても性格に至っても経歴に至ってもどこまでも平凡。そんな平凡な人生から現実逃避するかの如く、莉乃の前世は乙女ゲームにハマっていた。見目麗しい男を、男の婚約者から奪い溺愛を受けるゲーム。至って王道なシンデレラストーリーだった。けれど夢見る平凡女子はこのゲームにのめり込み課金さえ惜しまなかった。
そんな前世に焦がれていたゲーム。そのゲームの世界の登場人物。しかもただの登場人物ではなく主人公の恋路を邪魔する悪役令嬢役。
「……嘘、でしょう」
ポツリと莉乃が呟いた言葉は聞きあたりのよい可憐な声色で、呆然と皿映る少女は莉乃が動かした通りに体を動かしていた。
莉乃は考えがまとまらない頭で現状把握に努める。落ち着くのよ、夢?夢ではない。妄想が行き過ぎた?いやそれにしては抓った頬があまりにも痛い。
ペチペチと滑らかな肌を触り、一桁の年数を積んだ“莉乃”としての記憶を混乱する頭が浮かべた。
そういくら自分がまさかゲームの登場人物だなんて、まさかあの莉乃だなんて、まさか転生って奴だなんて莉乃が理解できるわけではなかった。それでもこれは夢ね!と莉乃が振りきれない理由は、確かに前世の記憶が蘇ったが莉乃としての記憶もきちんと残っているからである。今まで莉乃として生きてきた時間は偽物ではない。この世界がゲームだとしても莉乃には自我が幼いながらではあるがあった。
……そうか、これはゲームの世界で私はその登場人物の莉乃何だ。とストンと莉乃は自身のまるで夢物語と行ってしまった方が早い現実を受け入れた。
……そう、私はあの莉乃なの。ストンと自分がいつか主人公にまだ会ってすらいないが婚約者を奪われるであろう現実も素直に受け入れる。
あまりに淡白な事実の受け入れに莉乃は小さく一人頷いて、拳を握った。
「この人生楽しむしかないわね」
まだ宮野莉乃齢7歳。吉と出るか凶とでるか。明日の婚約者顔合わせの前に、不敵に笑う莉乃が前世と今世の上手いぐわいの絡みあいにより生まれてしまったのだ。
普通なら混乱のあまり発狂してしまいそうな現状を、受け入れるだけではなく“莉乃”は喜んでいる。前世で彼女を覆っていた平凡という殻を割って生まれた雛鳥のように、莉乃は自分を木綿に包まれた宝石が如く大切に自分に触れた。
平凡から非凡へと羽ばたいた少女は自由の羽を大きく広げたのだった。