非実在の不安
冷蔵庫を開け、サイダーの栓を開けた。初夏で、冷房もつけていないのに、このうすら寒さはなんだろうか。ひやりとした空気だけが部屋を埋め尽くし、名前のつけられない量感が僕をひしひしと押し付ける。なんだ、中指が石のように硬い。顔がひきつっている。大学に行くのが怖い。行かないという選択肢があるのか。僕は民夫に会わないのならば、有栖に会わなければならないのだ。否、間違えれば二人ともに会わなければならない。民夫の「契約」が、僕の《自由》の四肢を釘で留めている。そうだ。僕はもはや、逃げられない。民夫の「契約」とは、民夫の善意を通して、彼の恋人である有栖と性交渉を行うことである。それ以上でも、以下でもない。
朝食のハムエッグを作るのさえ手間取った。完璧に作らなければという観念に支配されていたからだ。トーストを焼き、フライパンに敷いた油でベーコンを炒め、その上にエッグを乗せ、蓋をする。スマホが鳴った。僕は完璧に作ることを諦め、電話に出た。
――今夜、会えるかしら。
――俺は大丈夫だよ。
――すごく、嬉しいわ。
――確認しなくてもわかるだろう。
――ごめんなさい、昨日少し、泣いたからね。
――泣かないで、お願いだから。君は必ず、俺が助ける。
なんて無意味な通話なのだろうか。ハムエッグは焦げてしまった。焦げ焦げになったハムエッグを、スルメを食べるように咀嚼する。
「うまい、うまい、うまい、うまい」
泣きたくなりながら、それをひたすら食べ、大学へ向かった。
大学に行くと、民夫と鉢合わせた。民夫は赤く染めた髪をいじって、僕の肩に腕をかけた。
「けーやく、忘れんなよ?」
僕は拳を強く握った。それはちょうど、民夫を殴れば痛手になりそうなほどだった。
僕はずっと願っていた。世界に民夫がいないときから全てを始め、有栖と愛しあえたらどれだけ嬉しいだろうか、そう願っていた。
「有栖にはゴム使わせてっからよ。あいつマゾじゃん? 俺に命令されて他人と寝させられるのが、自分のプライドを傷つけられてたまらなく嬉しいみたいでよ。特に、俺を交えて三人でやるときは、たまらないってのは、お前も経験済みだから、よく分かってるよな?」
僕は卑しい笑みをうかべた。何か勘違いをしてはいないか。僕は有栖を寝取る計画を練っているが、もう有栖と性交するつもりはないのだ。
有栖は性病に罹っているということを、民夫に知らせず、僕にだけ教えた。嘘かと思った。有栖は僕との全ての性交において、本当に嬉しそうに腰をふってきたからだ。とはいえ、他人の女を寝取るのは、どうしてか、これほど恐ろしいものはないと僕は思っていた。いや、有栖を寝取るということは、同時に彼女と性交してきた幾人もの男から寝取るということを意味する。彼女は例えるならば不確定な関数のようなものだ。関数というのは、函数と表記するのが本来そうであるべきなのだがどうでもいい。彼女を寝取ることで、何が起こるのかは分からないということを言いたいだけに過ぎないだけだ。ただただ気が重かった。だけど、僕は有栖のことを、少なくとも民夫以上に愛していた。彼女と先日性交の約束をしたとき、僕の自室のベッドに彼女を連れ込み、キスをしようとした。そのとき、有栖の唇がひくひくしていたのだ。
――ゴムをつけているから、心配いらないよ。
――そうではないのよ。
そういう僕も、彼女の肩を掴む手ががくがく震えていたのだ。そして同時に泣き崩れ、抱き合い、その間じゅう、何度も愛してると喚きながら眠りについた。
有栖は薬を飲み始めていたが、民夫は一切知らなかった。民夫は飲み会で、
「どうした、お前変だぞ」
と言った。僕はすっかり萎縮してしまった。
「あり……」
なぜ彼女の名前が口から出たのか。僕はすかさず咳ばらいをして、
「お前は、その、最近大丈夫なのか、その、単位とか」
震え声で僕はそう誤魔化した。
「大丈夫だよ。お前こそ、大丈夫か」
あはは、と僕は笑った。口角が少しつった。
「明日の夜有栖が都合がいいんだとよ。またやるか。お前も好きだろ、有栖の巨乳」
僕の奥底から激しい怒りが湧き、気が付くと民夫を殴っていた。
「お、お、お前はいつもそうだ! 有栖のことなんてなしにして、先にセックスの約束をして、それから有栖に強要するんだろうが!」
民夫はひどく怯えた表情を見せたかと思えば、ぐっと奥歯を噛みしめ、今度は僕の頬を殴った。
「やっぱてめえ……有栖とできてたんだな!」
「うるせえ!」
僕は上気して、酒瓶を手にした。他のメンバーがそれを見て喰いとめた。かと思えば、突然民夫は絶望に満ちた表情をして、
「……なあ、最近、変なんだよ、有栖が、おりものが止まらないとか言ってんだよ、もしかして、俺、性病にかかってんのかな、なあ、どうなんだよ……?」
民夫はそうしてわあっと泣き出した。僕はそこで、人間が絶望をするとどんな無様な様相を呈するかをまざまざと見せつけられ、再び不安と恐怖にうちひしがれた。
「大丈夫、死にはしない、死にはしない、死にはしない、死にはしない、死にはしない、死にはしない、死には」
僕は何度もつぶやいた。有栖の乳房が脳内にちらつく。真っ赤に上気した民夫の熱気に触れられるような気がした。非日常の状況が、激しい性的衝動を起こし、僕はトイレにかけこんだ。
鏡の前に行き、自分の顔を洗った。少し涼しくなった。
絶望とは、いつだって少しの安心を伴ってやってくるのだ……。
[了]