8.晴美の将来
僕と晴美は買い物に向かう前にコンビニに向かった。
何のことはない。晴美に荷物持ちの報酬を前払いするためだ。
「くぅー、人に奢られて食べるアイスは格別だね!」
「そうだねえ……奢ってるのは僕だけど」
晴美はソフトクリームをペロペロと美味しそうに舐めている。僕はアイスが食べたくなるほど熱さを感じていなかったので、晴美の食べる終わるのをただ待っていた。
このコンビニは中にテーブルと椅子があるので飲食可能だし、晴美はここのバニラソフトが気に入っているようだ。
「お兄ちゃん高校生になってお小遣いアップしたんでしょう?妹に還元しても罰は当たらないよ」
「調子がいいんだから……」
といっても晴美の労働の対価は時給に換算すれば百円ちょっとなのでとてもリーズナブルと言えよう。
晴美は僕に気を使ったのか、結構速いペースで食べ終わってしまい、最後にコーンを口に放り込んだ。
「……ムグ、よっし!甘いもの食べて疲れも吹き飛んだし、行こうか!」
「……うん、そうだね」
といったもののどうしようかと悩む。
先ほど聞いた話が気になっていた。
道場の玄関先で告げられた言葉。それを今ここで聞いていいものだろうかと。
「どうしたの?」
立ち上がらない僕を不審がって晴美が僕を見下ろす。僕はそれに首を横に振った。
「いいや、何でもない。じゃあ行こうか、マドモアゼル?」
「何それ?美味しそうな名前だね」
「美味しいというより、可愛いもののことかな」
帰り道で聞いた方がいいだろう。もしかしたら人前で話したくない内容かもしれないから。
さて、晴美に荷物持ちを頼んでまで買いに来たものは食材だ。
いつもなら一人で十分なのだが今回は量が多い。
何せ上の妹である帆夏が所属する剣道部の部員、その殆どの昼食を用意するのだ。多くもなる。
帆夏は今日と明日行われる剣道の公式戦に出場している。
そこでなぜ僕が部員たちにお弁当を作る話になるのかというと、少しややこしい事情がある。
元々剣道部が大会に出る際は、お昼のお弁当を業者に注文する。ただしこれは希望者のみで持参してきても良い。
帆夏曰く学校が頼む弁当は油マシマシであまり好きではなく、味も美味しくないとのことだった。
よって僕は大会の際は必ず帆夏の弁当を作る。
いくら女子の体が丈夫だろうと大事な大会の昼食に油ものたっぷりの弁当など食べさせるものか。という理由だ。
業者を変えればいいのかもしれないが、それはそれで高くつくし学校が決めることなので変えようがない。
多くの部員たちの父親は、業者に注文できるのに週末に好き好んで弁当を作ることはしないそうだ。というかお手製の弁当を持ってきているのは帆夏だけだった。
自画自賛ではないが、量産型の弁当などに後れを取ってなるものかと僕はいつも全力投球させてもらっている。故に弁当のクオリティは高い。栄養バランス、エネルギー摂取までにかかる時間、味の良さ、一生懸命考えた自信作だ。
帆夏はいつも練習試合や大会のたびに弁当を羨ましがられ、やむにやまれず僕に相談して来た。
帆夏の頼みは皆の分も作ってほしいなんてことではなく、ただ弁当は自分で用意するから僕に作るのをやめてほしいということだった。
ここまでストレートな言葉を言われていないけど、そんな意味のことを遠回しに言われた。
だから僕はそんなに言われるなら全員分作ると言った。
帆夏は反対したが僕も頑固なので押し通した。帆夏が部員に対して遠慮しているのだろうと察していたためだ。
その後は先生や部員とその保護者に相談し、大会前に希望者を募り、希望者は僕に弁当代を渡して僕がそのお金でやりくりしたものを作るということになった。
帆夏はひどく恐縮していたけど僕はいい練習になるし、元々人に料理を食べてもらうのが好きでやっていることだからむしろ有り難かった。
まあ、なんだかんだ言って困っている妹を助けたいというのが一番の目的だけど。
そんなこんなでもう何度目になるか分からない剣道部員たちの昼食作りの買い出しに向かっているのだ。
「……これ、多すぎ!」
「重かった?」
長くなった買い物も終わり、今は歩いて帰路についている。晴美の手には6つの大袋が下げられている。
対して僕は軽めなのを2袋。ふふふ、兄なのにね。いや、兄だからなのか。
もう少しで暗くなり始めるであろう賑やかな街の中を晴美と並んで歩く。
「余裕だよ、これくらい。いつもトレーニングで使ってるダンベルよりずっと軽いし」
家のエコバックをあるだけかき集めてきたけど何とか足りた。
大きな買い物のときはいつも父さんが車を出してくれるが、今日は所用で出かけているため無理だった。母さんも仕事中だ。
「本当に助かるよ」
「私が役立てるのって腕っぷしくらいだしね。こういう時にポイント稼いでおかないと」
「僕のポイント稼いでも何もないだろう」
「お兄ちゃんが私にもっと優しくなる」
そう言いながら笑いかける晴美。落ち始めた夕日に濡れた黒髪が光っていた。
商店の並ぶ街並みを出れば人通りが減り、近くに人の歩く影がなくなった。
切り出すなら今かもしれない。
「なあ、晴美?」
「なにー?」
「何か悩みでもあるか?」
「唐突な藪から棒!」
「よく分からない言葉だけど、誤魔化されないぞ。本当のところどうなんだ?」
晴美は少し足を速めて僕の前を歩く。僕は特にペースを上げずに晴美の後ろを歩いた。
「……私の推測では師範だな。間違いない!」
「さあ、どうだか」
一応とぼけてみたが、晴美も確信しているのだろう。まあ実際晴美の正解だし。
ただ僕も悩んでいるようだから気に掛けてくれと頼まれただけで悩みの内容は知らない。
「だってあの人に言われたもん。『なんだその腑抜け面は!ここが戦場なら死んでいるぞ!』って」
……嘘か真か分からない師範クオリティー。言いそうだけど、言いそうなんだけど、どうなんだろう。
「言われたのはそれだけ?」
「ううん、違う。相談しろって。誰でもいいから」
誰でもいいからって投げやりだなあ。吐露すれば解決するようなことなのか?
でも師範が相談を受けなかったということは、意訳すると晴美が内心を話せる相手なら誰でもいいんじゃないか、ということなのかな。
「僕じゃダメかな?話せないことなら無理に聞かないけど……」
晴美は前を向いたまま歩き続け、黙り込んでいる。
また日が傾き、辺りが暗くなり出してきた。
少しづつ家に近付いてきているが、話を始める様子はない。
駄目かなと思い始めたとき、晴美は口を開いた。
「お兄ちゃん、私が道場に通い始めたキッカケ覚えてる?」
こちらに体半分だけ向き直って僕にそう尋ねてきた。
「忘れるわけない。晴美が僕を守ってくれたことなんだから」
小学生の頃、美琴ちゃんが去ってからそう日が開いていない日のことだった。
両親とともに出掛けた日のことであり、両親の存在が僕たちの近くになかったほんのわずかな時間の出来事だった。
いきなり大人の女性に僕は抱えられ、連れ去られた。
晴美と帆夏の目の前で。
晴美はこの時いち早く行動を起した。僕を抱えた女性を追いかけて、僕を取り返そうと大人の女性に飛びかかったのだ。
晴美は確かに同年代の女の子の中では飛びぬけて運動が得意だったが、格闘の心得があるわけでもなく、大人に勝る腕力があるわけでもない。
体や顔を殴られて怪我をしたし、相手を殴って拳を壊した。拳が壊れたのは晴美の力の強さが災いしたのだろう。
相手も子どもと舐めていたが予想以上に抵抗されて苛立った。僕を放り捨てて晴美を排除しようとした。
しかし女性の思い通りにはならなかった。
帆夏が母さんを連れてきてくれて、母さんがあっさり女性を捕縛したからだ。
後でわかったことだが、この女性は小さな男の子に性欲を抱く人物で、僕もその理由で誘拐しようとしたらしい。
僕は双子の妹がいなければ一体どんな目に遭っていたのかと今でも怖くなる。いや、性教育を受けた今だからこそ余計に怖くなったといえる。
この日の出来事で二人に何かしらの変化があったのだと思う。二人は母さんに本格的な武術の鍛錬がしたいと言い出した。母さんはこれを二つ返事で了解した。
晴美の怪我は回復するまで時間が掛かったが、回復してからは母の知人が開いている道場に通い始めた。
帆夏は晴美より早くにその道場に通い出したが、道場が合わなかったのかすぐに別の道場に移った。
そうして今も二人は自分を鍛え続けている。
「私さ、お兄ちゃん大好きだったから、あの時守りたいって思ったんだ。今度あんな奴が来ても絶対に守るんだって、母さんみたいにかっこよくやっつけるんだって」
振り返ってみると何がキッカケだったのか、ちゃんと口に出されたことがないことに思い至る。
晴美の口から心情までは聞けていない。
「それでね、私が今悩んでいるのは……将来のことについて」
「将来……進路のことか?」
僕は漠然と晴美はどこかの高校に行くと思っていたが、進路の話しなら将来なんて言葉の使い方はしないだろう。
「私さ、いや私だけじゃなくて帆夏もだけど、実は近衛にならないかって誘いが来てるの?」
「近衛って……あの日本王家の警護をする近衛?母さんの職業の……」
「それしかないじゃん。まあ意外なのも分かるけど、身体適正だけで言えば相当なものらしいよ」
確かに晴美と帆夏が同年代の女性の中でも抜きんでた身体能力があるというのは知っている。一緒の中学校に通っていた時も良く目立っていたから。
「誘いが来て、返事をすれば近衛になれるのか?」
「違うよ。中学を卒業した後、何年か研修がある。優秀な人でも3年くらいかかるみたい。勿論脱落する人もいる」
「じゃあ晴美の悩みは将来の身の振り方なのか?」
「ザックリいうとそんな感じ。細かく言うとちょっと違う」
晴美は言葉を切って、僕にどう伝えようかと迷いながら話し出した。
「私さ、今結構楽しいんだ、道場。痛いし、臭いし、キツイし、大変だけど、人と戦って競い合うのって性に会っているっていうか、天職というか……」
楽しそうに話しはじめ、段々と言葉が小さくなっていく。
「でもね、それでいいのかなって。近衛の話を聞いたとき思い出しちゃった」
やがて晴美は顔を下に向けて言い辛そうに声を漏らす。
「元々私はお兄ちゃんを守りたくて強くなろうとしたのに、今は強くなること、戦うことが目的になってる。こういうのが手段が目的になった、ていうんだよね」
力なく僕に笑いかける晴美にいつもの陽気さはなく、自分の言葉を持て余しているようだった。
「よく分からなくなったのか?このままでいいのか、また目的を取り戻せばいいのか」
「うん……多分、そうなんだと思う」
晴美がこんな風に真剣に何かに悩むこと、それは僕にとって嬉しいことだった。
大人になろうとしている妹を少し寂しくも思う。
「それは『悩み』って言うよりは『迷い』なのかもしれないな……」
たった一つ年上の僕に上手いことなんて言えないけど、出来るだけ正直に向き合って晴美に言葉を投げかける。
「え?」
「話を聞いてたけど、晴美にはやりたいことちゃんと見えているじゃないか。でもそれが本当にいいことなのか分からないだけだろう」
「……うん、そうだと思う」
優しい子だからね。自分のことだけを考えていいのか迷っている。そんな妹だから僕は彼女の背中をちゃんと押してあげたい。
「参考になるか分からないけど、僕なら好きな道に進んだ自分とそうでない自分を比べて後悔のない道を選ぶ」
「後悔?」
「ああ、あの時ああやっておけばよかったなんて思いたくないだろ。なら今取り得る最高の選択肢を選ぶんだ。そしたら何年かたって失敗に気がついても、仕方ない、ベストを尽くした結果だからって納得できる」
「何だか後ろ向きな考え方だね」
可笑しなことを言ったつもりはないけど、晴美が小さく笑顔を浮かべた。
「まあ僕はそんな質だから。あともう一つ大事なのは人に選んでもらわず自分で道を選ぶことだ。そうしたら全部自分の所為に出来るだろ?下手に他人の意見を取り入れたら後で後悔する格好の機会になっちゃうし」
「また後ろ向きな話……」
少し浮かべていた笑顔が大きくなり、晴美の口からクスクスと声が漏れる。
そんなに笑える話をしているつもりはないんだけどなあ。
「じゃあ前向きに言ってやるよ。自分がなりたいものになれ、選びたいものを選べ、それが晴美の答えなら僕は何も言わない。応援してほしいなら応援してやる」
「お兄ちゃん……」
こちらに真っ直ぐ向き直った晴美と顔を合わせる。僕の気持ちが伝わるように、嘘偽りない言葉を彼女に届けるために。
「安心しろ。僕は絶対に晴美の味方でいるからな。絶対だ!」
はっきりと言葉にして晴美に言った。
僕自身彼女の味方でなくなることなど在り得ない。
晴美が一番なりたいものになれるよう僕は協力を押しまない。
それだけは伝えたくて。
僕の顔を見ていた晴美はハッとしたように顔を背け、前を向いて歩き始めてしまった。
早っ!ちょっと待って、僕の3倍以上の荷物を持ってるのに追いつけない!
あれ?僕の協力なんていらないという意思表示じゃないよね?
ちょっとまって!無言は色々と辛いんだけど!
「本当にお兄ちゃんはバカなんだから……そう言うこと言うから迷うんだよ……」
焦って追いかける僕の耳には小さな呟きは届かなかった。
暮れる夕日の中、僕と晴美の追いかけっこは家に着くまで続いた。