7.週末の買い物
今日は4月の最後の週末の土曜日である。
16時となる現在、わけあって僕は武術の道場に来ていた。
「失礼しまーす……」
大きな声ではなく、小さめの声で道場の正面入り口から入る。
外は春の陽気がポカポカとする日和であるが、道場の中は熱気と湿気でまるで夏のように蒸し熱かった。
いや、温度はそこまででもない。温度の話しではなく暑苦しさの話しだ。
道場の門下生があちこちで組み手をしており、修練に熱くなっていた。
僕は取り敢えず板の間の中には足を踏み入れず、この門下生の中に入るであろう、目的の人物を探した。
門下生の中ではひと際は低いその影はすぐに見つかった。
「あ、晴美が師範と試合してる……」
僕の目的の人物である晴美はこの道場の師範、初老の女性と試合をしていた。
初老といっても体形は母とほとんど変わらず、歳を感じさせるのは顔に出来た皺の数くらいだ。
晴美は小柄な体を縦横無尽に使い、果敢に蹴りや拳で攻撃をしているようだが、師範はまるで柳のようにそれを受け流している。
まあ、僕は二人の動きが速すぎて碌に見えていないんだけどね。
女性はそもそも生物レベルで男性と違い過ぎる。
男性の筋肉は鍛えれば鍛えるほど膨らみ、体に付いてくるが、女性の場合は違う。
女性の体は鍛えるほど成長するのではなく進化していく。骨や筋肉そのものが受けた刺激に対して最適化し、新たに適合した細胞に生まれ変わっていくのだ。
だから女性は一見してどれほど身体能力が発達しているか分からない。
逆に男性は分かり易い。体つきを見れば一目瞭然だからだ。
総じて言えるのは、女性が細身だからと言って舐めていると痛い目を見るということだ。
僕が見学を初めて30秒ほど経っただろうか、僕の動体視力ではよく分からない攻防はバッチンという肉を打つような響きと共に終わりを告げた。
結果は晴美が床に沈み、息一つ乱れていない師範が悠然と立っていた。
今日も負けてしまったようだ。
妹の容体を確かめたいが稽古中に安易に中には入っていけない。
「陽彩さんじゃないですか!お疲れ様です!もしかして師範か晴美に御用が?」
「そうなんですけど……」
「待っててください、私が呼びますんで!」
僕がオロオロしていると、近くにいた門下生の一人が僕に声を掛けてきてれた。
彼女は僕より年上の女性であるのだが何故か敬語である。いや、門下生の人たちほぼ全員が敬語を使ってくるのだけれど。
因みにここの道場は女性オンリーだ。目のやり場に困ってしまう。
「晴美、陽彩さんが来てるわよ!」
大きな声で門下生に呼ばれた晴美がむくりと起き上る。
晴美は足がふらふらしているが、何とかこちらまで辿り着いて床に倒れた。あ、ちょっと口の端が切れてる。
「口切ったー!それにふらふらするよー、おにーちゃん……」
「大丈夫?ちょっと待ってね」
ティッシュを出して口元を抑える。血はあんまり出ていないみたいだしすぐに治まるだろう。
「何甘えてるんだい!この小娘は!」
いつも間に接近していたのか、師範は僕の見えない速度で拳骨を叩き落とし、晴美の頭頂部から鈍い音が鳴った。
「がっ!なにすんだ、ババア!」
元気よく声を荒げて抗議する晴美に、もう一度拳骨を叩き落とす師範。晴美はどうやらフラつく振りをしていたらしい。
「ババアとは何だ!」
「立派なババアじゃないか!ババア!ガフッ!」
さらにもう一撃もらう晴美。晴美は拳骨が欲しくて言っているだろうか。だとしても兄として止めるけど。
「すいません師範さん。それくらいに……」
「おお、済まないねえ陽彩君。元気にしてたかい?この小娘が粗相してないかい?」
晴美に拳骨を落とした時とは違い、にこやかにこちらに笑いかける師範。その変わり身の早さが恐ろしい。
「僕は元気ですし、晴美はいい子ですよ。僕には勿体ない妹です」
僕はそう言いながら師範に笑いかける。
「ちっ」
「晴美なんて死ねばいいのに」
「ていうか私がシメる」
「いや私だ」
「じゃあ陽彩君は私が貰おう」
「まずはこいつをヤるわよ」
「ええ」
「異議なし」
さっきまで組み手が止んでいたのに急に再開された。今度は多対一のようだ。ビリビリとした緊張感が伝わってくる。ここの道場は相変わらずみんなストイックだなあ。
視線を戻すと師範は呆れたように晴美を見ていた。晴美はちょっと照れたように笑っていた。
「こいつがねえ……陽彩君には勿体ない妹ねえ……なんだかねえ……」
「ひっひっひっ、羨ましいかババガッ!」
晴美さんや、そんな可笑しな笑い方しない。後また拳骨もらっているし。本当に懲りない。
「師範さん、晴美から話は聞いていますか?」
「ああ、今日はこいつに荷物持ちをさせるんだろう?しっかりこき使ってやんな。足りなければうちの若いのも付けるよ」
急に辺りがシンとなり、さっきまでしていた組み手の音が止んだ。まあいいけど。
「いいよ、バ……師範。大した量じゃないし私一人で平気、平気」
「お気持ちはありがたいんですが、本当に晴美一人で大丈夫なので」
「そうか、残念だったね、あんたたち」
師範はそう言ってさっきまで組み手をしていた面々を見た。
皆さんひどく落ち込んだようだった。
「晴美マジ戦犯」
「今日は血の雨が降る」
「月夜ばかりと思うなよ」
ブツブツと床に喋りかけながらやさぐれていらっしゃる。
もしかしたら時間的にお腹が空いているのかもしれない。人間お腹が減ると落ち込みやすくなるから。
僕は買い物用のトートバックから風呂敷とタッパーを取り出す。
「手ぶらで来るのもなんだと思ったので、これ皆さんでどうぞ」
「あら、いつも悪いね、もらってばかりで。これは……おにぎりとおかずかい?結構沢山あるねえ」
「つまめるものが良いと思ったんですけど、もしかして多かったですか?」
「大丈夫さ、うちの連中に取っちゃおやつみたいなもんだよ、なあ」
「おおおおっ!陽彩さんからの差し入れだ!有難うございます!陽彩さん!」
「「「有難うございます!」」」
バラバラに立っているのにぴったりのタイミングで一斉に頭を下げられる。声大きいなあ。
「……あんたら、今日一番の威勢のいい声出してるじゃないか……」
師範は苦り切った顔をしているが、こうやってはっきりと感謝を伝えてもらえると、とても嬉し恥ずかしい気持ちになってしまう。
「晴美のお世話になっている先輩たちですから。これからも妹を宜しくお願いします」
「晴美、お前は許された」
「私は晴美をこの道場の誇りだと思う」
「よっ、次期師範代!」
「なら陽彩君は私が……」
「だがお前は駄目だ」
「米一粒もやらん」
喜んでくれたと思ったら今度は門下生同士でじゃれ合っている。
「楽しい方たちですねえ」
「……この子は、いつもながらすごいね」
「お兄ちゃんはいつもこんな感じだから……」
何やら師範と晴美に呆れられるような視線を送られている。まあいいか、気分が良いし。
取り敢えず渡すものも渡したし僕も晴美も御暇することにした。
晴美が着替えている間、僕は道場の入り口で待っていた。
しかし着替え終わるにしては早すぎる時間に、突然玄関の扉が内側から開いた。
「帰る前にちょっといいかい、陽彩君。実は晴美のことで話があるんだが……」
僕は晴美が着替えるのを待つ間、扉から出てきた師範の話を聞くことになった。