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「素敵な方でしたわねえ」
はふう。
お皿のミルクを飲む水滴さんを眺めながら、わたくしは溜め息をつきました。
昼食会を終えての帰路、普段のわたくしならきっと寝てしまうところですが、ぽわぽわと幸せな気分とドキドキが覚めやらず、アルフレート殿下のことをずっと考えておりました。夕餐と湯編みを済ませて自室に戻っても、まだどこかふわふわしてしまいます。
「水滴さん、美味しいですか?」
水滴さんはぴょんとはねました。
何となく判ってきたのですが、水滴さんがはねる時は肯定のようです。嫌なときは、ぺたーと広がります。
水滴さんはお皿のミルクをどんどん飲んでいます。音は全然しません。すーっとミルクの量が減っていき、お皿がすぐ空になります。
空になる都度、水滴さんがはねて催促するので、コップからお皿へミルクを注ぎ足していきます。明日はもっと大きなコップでミルクを用意してもらうことにしましょう。
食事を終えた水滴さんは、硝子の小瓶に戻って丸くなりました。水滴さんの色は白くなり、大きさはあまり変わっていません。重さは?あまり変わっていない気がします。ミルク一杯分は重くならないとおかしいと思うのですけれど。
硝子の小瓶を定位置となった引き出しにしまい、わたくしはベッドに就きました。
どうしたことでしょう?わたくし、寝付きはとてもよいのに、今日は眠くなりません。ベッドの上で寝返りをうちながら、またアルフレート殿下のことを考えはじめました。
☆
時は昼食会に遡ります。
「アナスタシア嬢、よろしければテラスに行きませんか。ゆっくり話がしたいですから」
アルフレート殿下は手を差し伸べられ、わたくしはどうしたらいいか固まってしまいました。
お父様を見上げますと、頷いて行ってきなさいと仰いました。
どうしましょう!二人きり?!無理です!アルフレート殿下と二人きりなんて、走り回った直後のように心の臓が暴れているのですからとてもできそうにありません!
周囲を見回しますと、少し離れたところにオリビア様がいらっしゃいました。わたくしとアルフレート殿下に気付いておられない御様子です。
「オリビア様!」
わたくしは咄嗟にオリビア様に助けを求めてしまいました。
「オリビア嬢?ああ、メディシス卿の御息女だね」
オリビア様はわたくしの声に振り向き、アルフレート殿下に気付いて目を見開きましたが、すぐにすました顔でこちらに来ました。
「なあに?アナスタシア。ご用かしら」
わたくしはアルフレート殿下の手とオリビア様の手を握りました。
「オリビア様も!一緒にお願いします!」
ぶしつけなお願いでしたが、アルフレート殿下は微笑んで、オリビア様は苦笑いで了承してくださいました。
「熊を退治した時に使ったのは、冷気の魔力を込めた魔法剣だったのですよ。切れ味が数段上がるのです。熊の剛毛は硬く刃を通し難いですから、普通の剣で斬り伏せるのは難しい。魔法があればこそ、未熟な剣の腕でも大物を倒すことができたのです」
アルフレート殿下の話を聞きながら、ほわあと幸せそうにオリビア様は微笑みを浮かべています。
「そんな、アルフレート殿下は謙遜が過ぎますわ。わたくし、貴族のたしなみとして剣の技についてもわずかながら学んでおりますが、あの時わたくしども一行をお救い下さった時に目の当たりにしたアルフレート殿下の華麗な太刀筋は今も目を閉じれば浮かんできますわ。あれほど流れるように美しく剣を振るう方は見たことがありませんでしたわ」
「剣技に秀でる黒狼騎士団を擁するメディシス領の、それも剣鬼と名高い当代メディシス卿の御息女にそう褒められると、どうもいけない。つい本気にしてしまいます」
「わたくし、本当のことしか申しておりませんわ。あの後、熊を検分した父は自分でも一撃であの熊を倒すのは無理だと驚嘆しておりましたもの。あの熊は時折街道へ降りて来ては積み荷を襲い、討伐隊が到着する頃には山に帰ってしまう厄介な相手でしたの。領民の嘆願を受けて黒狼騎士団が何度も山狩りをしましても、歳経て知恵をつけたのかその度にするりと逃げられていたのですわ。それを倒してくださり、領民共々感謝しておりますわ」
オリビア様とアルフレート殿下の会話が弾んでいます。
テラスのテーブルに三人でついたまではいいものの、わたくしは何を話せばいいものか判らずさきほどからジュースを飲む振りをして聞き手に回っています。
でも、そろそろ発言しないと変に思われてしまうでしょう。
さあ!い、いきますわよ!
「あの、アルフレート殿下、は、まほうもお使いになるのですね。まほう剣」
たどたどしくなってしまいましたが、言い切れましたわ!アナスタシア、やりましたわ!
「魔法といっても、きちんとしたものではないよ。冷気の魔法は本来は氷の弾丸を飛ばしたり大地から氷の槍を生やしたりできるのだが、どうにも苦手でね。剣に魔力を込めて効果を発現するようにした。剣の技はアレクセイに、魔法はギルバートに師事しているがどちらもあと一歩かなわなくてね。どうにかならないかと考えた結果が魔法剣だった」
アレクセイお兄様の剣技はエルドア王でも指折りの腕前です。王宮魔導師ギルバート様は若くしてあらゆる魔法を修め今を生きる伝説とも言われる方です。そのお二人に『一歩かなわない』レベルとは。凄いですわ、アルフレート殿下!
次のアルフレート殿下のお言葉に、わたくしは硬直いたしました。
「魔法剣を使うようになってから、彼らと一対二で勝負しても互角に戦えるようになったよ」
あの、それってつまり、もう一対一ならお兄様やギルバート様と対戦して勝てるということですわよね?!
オリビア様も絶句しています。
「アルフレート殿下は、もうとても、強いのでは?なのに、まだ足りない、ですか?」
どうしましょう!
うまく喋れません!
いつものわたくしでしたらもっとすらすらと言葉が出てきますのに、アルフレート殿下の前では何故か幼い言葉遣いになってしまいます。
「まだ足りない。アナスタシア嬢、オリビア嬢、これから話すことは、然るべき時まで誰にも秘密にしてもらいたいのだが、良いだろうか?」
アルフレート殿下の目は真剣でした。
わたくしとオリビア様は、気圧されてごくりと息をのみました。
「メディシス家の名にかけて誓いますわ」
「わたくし、も、ちかいます」
アルフレート殿下は目を閉じ、天を仰ぎました。
「ぼくは世界を旅してみたい。ここではないところに行き、ここにはないものを見て、ここでは得られないものを手にしたい。ぼくはなりたいんだ。冒険者に」
わたくしとオリビア様は無言でした。
あの、もしかしてわたくしたち、とんでもないことをお聞きしてしまったのでは?!困ります!
「いや、王位を継ぐのを止めるとか国を去るとか、そういう深刻な話では全然ないのだよ?ただ、このままではぼくは視野の狭い王になってしまうような気がしていてね。国王陛下は若かかりし頃は様々な国を巡り武者修行の日々を過ごされたそうだ。王国の政策にはその頃の見聞が生かされているそうなのだよ。だからぼくも旅をしたい」
いつも柔和な表情で微笑まれる国王陛下に、そんな過去があったなんて初耳ですわ?!
王族が今の王妃様ただお一人になってしまわれたため、当時は公爵家当主だった国王陛下が家督を譲って王位に就いたことは知っていましたけれど。
「うん、秘密の旅だったそうだからね。病気療養を装って郊外に引きこもり、影武者を立てていたそうだよ。外せない用がある時はこっそり帰って来ては入れ替わっていたそうだ。実は公爵家当主の時代も何度か秘密の旅に出ていたようだよ。さすがに即位後はないようだけれど」
わたくしとオリビア様は顔を見合わせました。
ああ、なんとなくその先は聞きたくない気がしますわ、とっても!
「国王陛下は付き人なしに旅ができるだけの強さがあった。ぼくもそうなる」
☆
「とんでもない計画を聞いてしまいましたわね」
ベッドの中で呟きます。
でも。アルフレート殿下の婚約者として。将来の、つ、妻として!アルフレート殿下の望みをかなえるために支えることは大切なことのはずですわ!
「つ、つま!」
妻!言葉に出してみると、なんて耳に心地好い言葉なのでしょう!
毛布の下で手足を全力でバタバタ動かします。
にへら、と頬が緩むのが判ります。
これはいけないわ、こんな表情をもしアルフレート殿下に見られでもしたら、恥ずかしさで赤くなるのを通り越して頭が沸騰してしまうに違いありませんわ!しっかりと気を付けなくては!
このままアルフレート殿下のことを思い続けていたら一晩中眠れそうにありませんわね。心を無にするのです。そして眠るのです、アナスタシア。
それでは、おやすみなさい。
(アルフレート殿下はこういう人でした。実は国王陛下が旅立った頃と比べると相当強いのですが、今のカンスト級に強い国王陛下と比べてしまって自信が持てずにいます。ちなみにメディシス公爵は『剣で』熊を一撃で倒すのは自分には無理だと言っています。彼はモンク系なので刃物が付いた武器は苦手なのです。彼もカンスト級なので、得意のステゴロならワンパンです。そんな人がなんで剣の得意な黒狼騎士団を率いているのか?謎です。もとい、メディシス家は代々治癒魔法に秀でた家柄で、武は不得手。それを補うために剣の得意な家臣を集めたのが黒狼騎士団の始まりです。当代のメディシス公爵が強いことのほうがイレギュラーなのです。ちなみにオリビアの母上は今はおしとやかですが、元はメディシス公爵と肉体言語で会話ができるほどの武芸者。オリビアは治癒魔法ばかり練習して体を鍛える修行を怠っていますが、彼女にも格闘の才能は脈々と受け継がれています。名前だけ出てきたギルバートお兄様は攻撃魔法なら大体なんでも最上級魔法まで使いこなすのですが、治癒魔法は全然使えず運動が苦手というこれまた家系と全然関係ないやん!という感じの人です。そのうち出てきます。アルフレート殿下、アレクセイお兄様、ギルバートお兄様にオリビアを加えた四人が次世代エルドア王国の最強パーティーです。今はまだアナスタシアはみそっかすですね)